第25話 刀
痩せた生垣をくぐり、ヨンギルは今の住処となっている家に入る。
縁に腰を下ろし、ぐいっとまた酒を呑んだ。帰りながら栓を開けた酒は、既に半分ほど軽くなっている。
この調子では夜も保つまい。明日、また買いに行かねばならないか。
そんなことを思いながら、ヨンギルはふうと一つ息をついた。酒を横に置いて、ぼんやりと眺める。
日は沈み、辺りはとっくに夕闇に覆われている。自分以外には他に誰も住む人間のいない場所だ。自らが明かりを灯さない限り、辺りは暗いままである。家の中も、外に置いている水甕も、垣根から縁までの距離も、日没後のしんと静かな気配に覆われたままだ。
ヨンギルはそこにごろんと寝転がり、ぐう……っと伸びをした。
少し酔っているのかもしれない。
伸びをした手を頭の下に組み直し、再び深い息を吐き出す。
ここに住み着いて十数年。確か、都城を離れてから一、二年の頃だ、ここへ来たのは。
初めはすぐ離れるつもりで住み始めた場所。仮住まいのつもりが、気付けばそのまま足に根が生えてしまっている。
一度寝転がると、起き上がるのが面倒になるというもの。とはいえ、季節はもうすっかり秋。夜通しここにいては、さすがに風邪を引く。
ヨンギルは寝転がったまま腰を捻り、縁と中とを隔てる木戸に手を伸ばした。だが、取っ手を軽く引いた木戸は何かに引っ掛かっているようで、途中から動こうとしない。建付けが悪くなっているのか、近頃素直に言うことを聞かないのである。
仕方ない……。
よっこらせ、と腰を浮かし、四つん這いの形でのそのそと木戸まで寄る。右手で取っ手をぐっと強く引くと、ようやく木戸はガタンと大きな音を立てて開いた。
人も家も、年月が経つとあちこちガタがくるな。昔はこれしきの酒ではまったく酔わなかったというのに。
気持ちだけは若いつもりでも、やはり自分の上には確実に年月が積もっているのである。
四つん這いになったまま中に入ろうとして顔を上げた先に、ふと正面の物入れが目に入った。
普段はそう気にもしない場所だ。思い出すことすらほとんどない。それが今目についたのは、やはり最近、何かと過去を思い出すものに嫌でも触れているからだろう。
ヨンギルは立ち上がり、物入れの前まで行くと、そこで膝をついた。
四段の引き出しからなる物入れだ。前の住人が置いていったものらしく、ここに住み着いた時には既にここにあった。ちょうどいい、と普段は上の二段のみを適当に使っている。
その、一番下。
手を伸ばして、左右に二つある掴みを両手で引く。黴臭いような、しけった臭いが微かに漏れ出た。
中に散乱していた書物を適当に外に出し、底にあったものに指を伸ばす。
ここに来た時に、それまでの自分に蓋をするようにそこに押し込めた。外に出すのは恐らくその時以来だ。それを見ること自体、最後がいつだったかも思い出せないくらいに遠い。
久方振りに見る、剣把や鞘に彫り込まれた文様を、そっと指でなぞる。柄に指を回すと、重く冷たい感触が伝わってきた。ごとり、と固い音を立てて、それを取り出す。
遠い昔、ある折に大王より下賜された刀剣だ。
当時の紫微国一の名匠に作らせた、この世に一つしかない特別なものだと聞いている。
受け取った時から、どんな時も共にあった刀剣。
柄を握り、剣身を引き抜く。特に引っ掛かることもなく、それはなめらかに滑り出た。
木戸は開いたままだ。いつの間に昇ったのか、そこから月の光が差し込んでいる。
縁に出て、その元に剣身をかざしてみた。錆びを知らない刃の上を、水の上に映るように光が走る。
ヨンギルは刀剣を持ったまま、裸足で地に下りた。突き動かされたと言っても過言ではない。久方ぶりの「感触」に、酔いなど忘れて剣を振る。
びゅるん。
ひゅっ。
だんっ。
濡れたようにきらめく刃が、月の下で鋭く空を裂く。
どす。
ひゅいんっ。
ずざざざざ。
ざしゅ。
反射する月光が閃く。動きに合わせて汗が散る。
ヨンギルは無心になって剣を振るった。
最後にひと振りして剣を止める。
鼻筋を汗が伝った。顎からも滴り落ちる。ずさ……っと、開いたまま踏ん張っていた足を元に戻して、ヨンギルは息を吐き出した。すると―――。
パチパチパチパチ。
唐突に聞こえてきた拍手の音に、ぎょっと顔を上げる。見ると、垣根の外からいくつもの近所の人間の視線が寄せられていた。
この近所では、ただの呑んだくれで通している。まずいところを見られた、と思いながら、まだぱらぱらと拍手を送ってくるご近所の人々に、ははは、と適当に手を挙げてみせながら汗を拭い、刀剣を鞘にしまう。
そう遅い時間ではないとはいえ、普段は皆家に戻り、寝支度を始めているような刻限だ。それがなぜ示し合わせたようにこうして他人の家の中を覗いているのか。そう思ったが、それよりも、それ程の視線を寄せられていることに気づけなかったことに、ヨンギルは軽く驚いた。
しばらく離れているうちに勘が鈍ったか。昔は、数十間離れた鳥の羽ばたきですら聞き分けることができたのに。これも歳を重ねたことによる弊害か。
殺気をぶつけられればまた違うかもしれない、とも思いながら、小さく息をつく。
「いやあ、すごかったな」
心底感心したように声をかけてきたのは隣人のトボクだ。垣根の外にできていた人だかりの合間から割って入り、ヨンギルが立つ庭先まで入ってくる。
トボクは、自身の実力もわきまえず、己の「歌」一本で国中を回るという大それた夢を見ている甚だおかしな男で、通りの方でも耳障りで迷惑な歌をよく披露しているが、客がいるところを見たことがない。ヨンギルが夜ごと昼ごと酒を呑みたくなるのは、隣人のこの男のせいじゃないかと本気で思ってしまう程、頭の痛い奴だ。
「おじさんも芸人を目指してるなら早く言ってくれよ。同じ仲間なのに、水臭いな」
とんでもない勘違いをしているが、それを否定する暇がない。トボクは興奮気味にヨンギルがまだ手にしたままの刀剣に視線を寄せた。
「いつの間にそんな剣技を覚えたんだ? この刀剣は? 随分立派そうだなあ」
そのままの勢いで手を伸ばしてきそうなのを、半身を軽く引いて阻む。こやつに触らせてはどうなるか分からない。刀剣がではなく、この身が。
「いやあ、それにしても、普段酒ばかり呑んでぐうたらしてるくせに、実は芸人志望だったなんて知らなかったな。驚いたよ。珍しく外で運動でもしてるのかと思って覗いてみたら、こんなものを振り回してるんだもんな」
興奮気味に話し続けるトボクに、ヨンギルは目を眇めた。
「……お前か?」
「うん? 何がだ?」
「近所の者たちをここに集めたのが、だよ。お前であろう、知らせて回ったのは」
さらに目を眇めるヨンギルに対し、トボクは「そうだけど?」と何でもない顔で答える。
「それがどうした。剣舞の練習なら客がいた方がいいだろ。どうせならたくさんの人に見てもらった方が刺激にもなるし」
当然のように言われ、我知らずため息が漏れ出た。これは、本気で相手にしていてはこちらが疲れるだけだ。
「……お前はいつ旅立つんだ」
「俺?」
「歌で全国を回るんだろう。お前こそ練習ばかりしていないで、早く実践を積んだらどうだ」
そうしてくれたら、こっちも朝っぱらから発声練習と称したおかしな声に起こされることもなくなるし、そのせいで悪くなりがちな夢見も改善されるに違いない。
だが、ヨンギルの期待も虚しく、トボクの答えは「まだ駄目だ」というものだった。
「今はその時じゃない。その前にやることがある」
「やることだと?」
隣を出て行くこと以外に何がある。言ってしまいそうになるのを、すんでのところで何とか堪える。
ヨンギルの内なる声などまったく気にしていないようなトボクは、遠くを見るようにわざとらしく目を細めた。
「ここを出発する前に、太らなくちゃならない」
「なに、太るだと? 何のために」
そこでトボクはずいとこちらに顔を寄せ、人差し指を立てた。
「おじさんは知らないだろうけど、いい声を出すにはまず、いい体づくりからだ。俺が今まで思うように声が出せなかったのはそこにあったらしい」
「―――……」
いや、恐らくそれ以前の問題だと思うが―――、とは思っても口にはしない。
「いい声を出すためには、まず体づくりからだ。だから、俺はもう少し太ることにした」
「……それでなぜそんな結論になる」
ひと回り以上は歳の離れた目上のヨンギルに対し、トボクは尊大にも肩に肘を乗せてきた。その手を斜めに見るが、とりあえずは何も言わずにおく。
「太った方がいい声が出るんだよ」
「なんだそれは。……まったく、どこからそんなワケの分からん話を聞いてくるんだ。付き合ってられんな」
言って、ヨンギルは肩に乗った肘をぺい、と払い落とした。
ヨンギルの過去に迫るお話は以上です。
次からまた本筋の話に戻ります!




