第20話 遇
あてがわれた自身の部屋に戻り、ふう、とセヨンは息をつく。
ああ、なんだか、ずっと笑顔を貼り付けていたから、頬がつりそう……。
両手でぐにっと頬を押さえ、強張りをほぐすように軽く揉む。
つくったものではなくて、心からの気持ちを純粋に表すことができればいいのに。
さすがに、母上様や、他の方々がいる前で、それは許されないことだということくらいは分かっているけれど。
ある程度ほぐしたところで手を止め、セヨンはふう、と再び息をついた。
そして、下ろしたその手に、ふと視線を落とす。
―――俺たち、友達にならない?
―――駄目かな? やっぱ、無し?
―――よかった。じゃあ、今から友達ね。
セヨンの手を引いて前を歩き、友達になろうと言って、嬉しそうに明るく頷いた笑顔。
見下ろした手をにぎにぎと何度か繰り返し、ふふ、と昨日のことを思い出す。
「ふふ、『友達』かあ……」
初めてのその響きが、なんだか少しくすぐったい。照れくさいようにも感じる。
セヨンには、実は友達と呼べる存在ができたことがない。
ヒョリは友達のような存在ではあるが、厳密に言うとそうではないし、都城に住む良家の同じ年頃の少女たちとも交流がないわけではないが、子どもであっても互いに立場を意識しないわけにはいかないので、純粋に「友達」と呼べる存在ができたことがないのだ。
それが、まさかの、友達―――。
もしかしたら、そう答えてしまってはいけなかったかもしれない。けれど、あの瞬間、そう答えたいと思ってしまった。
ふふ、スハ、だって。初めてできた友達の名前は、スハかあ。
「どうかしたんですか、そんなに手を見つめて」
そこで突然背後から聞こえた声に、びくっとセヨンは思考を止めた。
いつからそこにいたのか、脇から怪訝そうにヒョリが覗いている。セヨンは咄嗟に、にぎにぎしていた手を後ろに隠した。
「な、なんでもないわ」
「そうですか?」
ヒョリは首を捻りながら、それでもそれ以上は何も言わず、抱えていた桶を置いて雑巾を絞り、室内の掃除を始める。その姿には特に、今しがたのセヨンの様子を気にしている気配はない。
とりあえず、よかった。
ほっと息をついて卓に腰かけ、掃除に精を出すヒョリを見るともなしに眺めながら、セヨンの意識は再び昨日のことへと戻っていく。
そういえば、スハはこのお寺に用があって来たと言っていたから、この辺りに住んでるということよね。そうだ、だって、このお寺から見える景色のことにも詳しそうだったし。
ああそれに、行列のことも知っていたようだから、きっと昨日、あの通りで見物していた人たちの中にいたんだわ。でも、それなら……。
そして、ごく自然な流れで、セヨンの思考はそちらの方向へ流れる。
それなら、あの通りに行けば、またスハに会えるってことじゃない……!?
雛を見せてくれて、名前を教えてくれて、友達になろうと言ってくれた。
せっかく友達になったのだ。できることなら、今日も会いたい。
「―――ねえ、ヒョリ、」
意識はまだ思考の中にありつつ、口の方が先に動き始める。呼ばれたヒョリも、「なんですか、王女様」と返しながらも、掃除の手はまだ止めていない。
「ちょっと、お願いがあるんだけど」
「はい?」
「もう一度、その服を貸してくれない?」
そして、ぴた、と手を止めたヒョリは、そこで胡乱にセヨンを振り返った。
「よし、これで問題なしっ!」
ぐるりと回って自分の姿に問題がないことを確認し、満足いっぱいに頷く。
髪も結い直し済みで、セヨンの姿は昨日同様、女官見習いのものになっている。
それを半目で眺めるヒョリも昨日と同じで、着替えの服を着て卓に頬杖をついている。
そのヒョリが、「まったく……」とまた深い息をつきながら呟いた。
「戻ってから何もお話しにならなかったので、何も無かったか、逆に何かがあったんだろうと思っていましたが……。王女様、昨日何があったんですか?」
「え」
興味無さそうな顔をしておきながら、そういうところで異常に勘のよいヒョリは、迷いのない言葉でいきなり確信を突いてくる。
とはいえ、それを正直に伝える気はセヨンの方にもない。ということで、用意していた答えを伝えることにする。
「別に何もないわよ。ただ、昨日はちょっとしか回れなかったから、今日はもう少し別のところも見てみたいと思って」
「……このお寺の中を、ですか?」
このお寺の中にそんなに見るものあります?? と言っているような、激しく疑わし気な目で見てくるが、セヨンはそこに力いっぱい頷き返した。
「もちろんよ。それ以外にどこがあるって言うの。さすがの私も、このお寺を出て通りの方に行ってみようとか、そんな無謀なことは考えないわ」
「……それが無謀なことだと、一応分かってはいるんですね」
含みのあるようなヒョリの言葉に、だがそれには気付かないフリで一気に突き通す。
「てことで、ちょっと行ってくるわね」
それじゃあ、とにっこりと軽く手を上げて急いで身を翻そうとすると、「王女様!」とヒョリがその手をぎゅっと掴んできた。
「王女様、念のため言いますが、分かってますよね?」
「え、ええ、もちろんよ。母上様はまだしばらく先程の方々とご歓談されてると思うし、チャン将軍も一緒だからこちらに来る心配はないと思うけど、誰にも見つからないように十分気を付けるから」
「いえ、そうではなく。いいですか? ゆっくりしないで、なるべく早く、用が済んだらさっさと戻ってくるんですよ。仮病でやり過ごすのにも限界があるんですから。もし万が一これでバレても、私のせいじゃないですからね。私は自分の首の方を守りますよ」
「わ、分かってるわよ」
そして、セヨンは再び部屋の外へ出た。
周りに気をつけつつ、境内を入口の方へ進む。
途中、お茶のお代わりでも用意するためか、チョンミョン付きの女官であるホン尚宮が、他に数人の女官を引き連れて向こうからやってくるのが見え、慌ててそばの建物の影に隠れるということがあったが、それ以外は特に大きな問題無く進めている。
良家の娘の身なりだとしても、歩いているのが王女のセヨン一人であったら、誰かに見咎められたりしていたかもしれない。
けれどそこは、さすがこの姿。今お寺には同じような背格好の女官見習いが何人もいる。
まさか王女がそんな格好をしていると考える者もいないようで、普段からセヨンをよく知る人以外であれば、少し顔を伏せて歩くだけで、たとえすれ違う相手が王宮の者だったとしても、やり過ごすのは思っていた以上に簡単だった。
でも、ヒョリの言う通り、あまり長く外には出られないから、ここからは急がなきゃ。
あの通りに行ったところでスハに会えるという確証はないけれど、約束をしているわけでもないし、ここでただ待っているより数段可能性は高いと思う。
何より、やりたいことがあるのに、ただ待つだけというのは自分の性に合わない。
そうして、境内を抜けて、たたたっと山門辺りまで駆けてきたところで。
「あっ、ヒョリ!」
自分を……、正しくは、そうだと伝えた名前を呼ぶ明るい声が、下から聞こえた。
「スハ!」
手を振りながら山門へ上がってくる願ってもいなかったその姿に、セヨンの表情も自然と明るくほどける。




