第17話 逅
時を少し遡り―――。
行列の見物を終えたスハは、再び家に戻っていた。
先程は都城からの行列を見て、ヨンギルに対してなんだか尤もらしいことを返してしまったが、スハはただ、自分でも驚く程にあの行列に目を奪われていただけだ。
行列の見物を終えて家に戻ったスハは、今もまだ少し興奮気味の自分を落ち着かせるため、途中になっていた薬材の片付けを無心になって進めていた。
その薬材のほとんどが片付き、庭の縁台の上がようやく広くなってきた頃。
「あれ、父さん、どこか行くの?」
軒下に吊るした袋や奥の薬棚から取り出したものを丁寧に包み、軽く背負える程度の荷袋の中に詰めるソンジェの姿が目に入った。
スハの言葉に「ああ」と頷いたソンジェは、手を止めることなく答える。
「ちょっと、注文されてた薬を届けにな」
薬をすべて詰め終えると、今度はその荷袋を置いた縁に腰かけて、草鞋の紐を念入りに結び直し始めた。
「ふーん、どこに?」
「長慶寺だ」
「え、長慶寺!?」
行き先を聞いて思わず声を上げてしまったスハを、反対の足の草鞋の結び目を直していたソンジェが怪訝に見上げる。
「なんだ、そんなに声を上げて。あそこは別に、お前が行きたがるような場所じゃないだろう」
「あ、まあ、そうなんだけど……」
ははは、と笑って答えるが、相変わらずソンジェは訝しげに眉根を寄せたままだ。
長慶寺といえば、先程見た行列が向かった先である。今そこには、あの行列の人々がいるのだ。
スハは、自分の胸がなんだかむずむずするのを感じた。
行ったところで、何がどうなるわけではないことは分かっている。だが、やはり気にはなる。今行けば、あの行列の人々に会えるかもしれないのだ。
どうする、俺も一緒に行くって言うか? でも、そしたら理由を聞かれそうだし、話したら絶対駄目だって言われるよな……。
「なんだ、言いたいことがあるならさっさと言え」
うーむ、と唸っていると、草鞋を結び直す手を止めたソンジェが腕を組んでこちらを見つめていた。その顔が、先程よりも少しばかり険しくなっているように見えるのは気のせいだろうか。
「い、いや、別に言いたいことなんて―――」
無いわけではないが、ここでそれを素直に話しても、いいことなんて何もない気がする。
ふるふる、と顔だけでなく胸の前で両手も振ってみせるが、ソンジェは落ち着くどころか、疑わしげな目をさらに強めた。
「なんだ? まさか、また何かよからぬことを考えているんじゃないだろうな」
「な……っ! よからぬことって何だよ! それに「また」なんて、俺はそんなことをした覚えはないぞ」
堪らず否定の声を上げるが、ソンジェの疑いの眼差しはなぜか濃くなる一方だ。ものすごく眉間に皺が寄っている。
だが、まるで身に覚えがないため、この状況は非常に解せない。
スハはさらなる否定の言葉を連ねようと口を開きかけたが、しかしそれは、そこでやって来た来訪者によって阻まれてしまった。
「ごめんください。あの、こちらは薬房で合ってますか?」
「いらっしゃい。ええ、合ってますよ」
簡素な生垣をそろそろと入ってきたのは薬房の客のようで、対応に出たユンファが話を聞きに行く。だが、しばらく客の話を聞いていたユンファは、困ったように片手を頬に当てながらソンジェを振り返った。
「ねえ、どうしましょう。こちら、急ぎで薬が必要らしいんだけど、あなたは今出かけるところよね?」
どうやら、ソンジェの調合が急ぎで必要な案件らしい。
薬材の処理ならスハやユンファにもできるが、薬の調合はソンジェにしかできない。急ぎが求められている以上、今ソンジェが出かければ、この客はそのソンジェの帰りを待つ羽目になり、非常に困った状況になってしまうということだ。
その話を横で聞いていたスハは、あ、とそこで気付いた。
これはひょっとして、ちょうどいい「理由」なんじゃ……?
そして、思うがいなや、「はい!」と元気よく手を上げる。
「それなら、長慶寺の薬は俺が届けるよ!」
「え?」
「なんだと?」
それぞれに声を上げてこちらを見るソンジェとユンファに、スハは喜びがこぼれないよう注意しながら、それでも明るく続けた。
「だって、そっちの人は急ぎで薬が必要なんだろ? それを用意できるのは父さんだけなんだから、父さんはそっちを優先した方がいいよ。長慶寺には俺が行ってくるからさ」
言うと、「たしかに、それもそうね」と頷いてくれたのはユンファだ。
「こちらの方をお待たせするわけにもいかないし、その方がいいんじゃない?」
「まあ、それは確かにその通りなんだが……」
却下する理由など無いはずなのに、どういうわけかソンジェはううむ……と唸る。
スハの提案になぜか難色を示すソンジェを押し切るため、「大丈夫だって、俺に任せて」とスハはまた強めに念押しをかけた。
「何を届けるのかは今詰めるところを見てたから知ってるし、長慶寺は何度も行ってるから迷うこともない。だから、安心して俺に任せてくれていいよ」
「ううむ……、そうか……?」
何を疑っているのか分からないが、こちらをちらっと横目に見たソンジェは、だが結局、仕方ないと言わんばかりに大きく息をついた。
「分かった。それじゃあ、俺は急ぎの薬を用意するから、長慶寺へはスハが行ってくれ」
「よし来た、了解!」
思わず、ばしん、と膝を打ち鳴らしてしまい、おっと、と急いでその手をしまう。それを、何か言いたげにソンジェがまたじろりと見てくる。
危ない、思い余って喜びを表し過ぎた。抑えて抑えて。
誤魔化しのために再びははは、と笑ってみせて、スハは縁に置かれていた荷袋を取った。重いものではないので、ソンジェの気が変わらないうちに、とそのまま後ろに背負ってしまう。
「よし、そうと決まれば急いだ方がいいよね! それじゃあ、ちょっと行ってくる!」
「―――ああ、スハ、待ちなさい」
行ってきます代わりに片手をあげてすぐにでも駆け出そうとしたスハを、ソンジェの低い声が呼び止めた。
「え、何っ? 薬材の処理なら、もう全部終わってるよ?」
「違う、そうじゃない」
ソンジェは言うと、スハの肩にとん、と手を置いた。
「いいか、薬を届けたらすぐに戻ってくるんだぞ。くれぐれも、余計なことはするんじゃない」
「え、余計なことって―――」
一体俺が何をするって言うんだよ、と返しかけたところで、スハはぐっと言葉に詰まった。
肩に置かれた手に、ぐうっと徐々に重い力がかけられていく。無言の圧が謎に肩に食い込んでくるのを感じ、
「わ、分かってるって!」
叫ぶように言って、その力からなんとか身を捩って逃れたスハは、そのまま「行ってきます!」と急いでその場を離れることにした。
ふう、焦った。
思いながら、後ろを振り返ることなくスハは駆け出す。
あの行列が長慶寺に向かったことをソンジェは知らないはずなのに、強力な圧とともにあれだけの念押しをしてくるとは、ソンジェにはスハ専用の第六感でも備わっているのだろうか。
―――ああ、もちろん、何か問題を起こすつもりは毛頭ないけれども。
長慶寺までは元々それ程距離があるわけではないが、向かう道はスハが思っていた以上にすぐだった。
少し前に見た行列の煌びやかな様子を思い起こしたり、あの雅な輿にはどんな人が乗っていたんだろうかと思いを馳せたりするのに忙しかったからだろうか。
いざ着いてみると、やはり寺の中は随分賑やかな様子で、輿の近くを歩いていた賢まった格好をした人たちや、行列の後ろの方で荷を運んでいた人たち、そして、その周りを護衛していた人たちなど、いろんな人が入り混じって動いている。
すごいな、やっぱりこの人たちとはなんか違うや。
そんなことを思いながら、背負った荷の肩ひもをぎゅっと握りしめ、人々が入り乱れる中を進んでいく。
ただ、そこには当然のことながら将軍はおらず、輿もどこかに片付けられたのか、目に見える場所には置かれていない。そして、賑やかに見えたのは入り口の方だけで、寺の奥の方へ少し進めば、そこにはもう寺の僧侶や下働きの者がちらほらと歩いている程度の、表の方の賑わいはほとんど感じられない程静かな空間が広がっていた。
……まあ、実際はこんなもんか。
若干、なんだ……、と肩透かしを食らったような気分にもなるが、一方で、逆にこれでよかったのかもしれないと思ったりもする。
やはり、都城の人々など所詮は非日常的な遠いものに過ぎず、自分がいるのはあくまでこちら側の静かで何でもない景色の中なのだということを、嫌でも思い出せる。
以前何度かソンジェとともに薬を届けたことがある寺の建物まで行き、そこにいた人に簡単に説明しながら持ってきた包みをすべて渡し終えると、スハのここに来た用事は早くも終了してしまった。
これで用は済んだけど……………………うん、まあ、他にやることもないし、帰るか。
なんとなく後ろ髪を引かれるような思いを抱きつつ、だが、用もなくここにいても仕方ないので、元来た道を戻ることにする。
そして、歩き出したところで、そうだっ、とスハは止まった。
もしかしてひょっとしたら、来たのと違うところを通れば、万が一ってことがあるかも! もしかしたら、将軍とか、誰か他の人に会ったりとか、そういうこともあったりして……ふふ。
そう思った途端、スハは明るい足取りで来たのとは別の方向へと進んでいた。少し遠回りになるが、そうなったところで困ることも特にない。いい運動ができたと思うだけだ。
まあ別に会えなくてもいいんだけどさ、と心の中では一応加えつつ、るんるんで、かつ、きょろきょろと辺りに視線を巡らせながら歩く。
そうして、しばらく進んだところで、ふと、スハは足を止めた。
「―――……」
そこにいたのはチャン・ギテ将軍でも、見たこともないような雅な人でもなかったけれど。
何でもない下の方の通りの景色を、大きな瞳を輝かせて食い入るように見つめるその少女の背に、スハは気付けば声をかけていた。
「ねえ、そこで何してるの?」




