第16話 邂
結い直した髪を軽く撫でつけ、帯の締め具合を確認したあと、腕を伸ばしてみたり、後ろを振り返ってみたりと、自身を見下ろしていろいろ確かめる。
見慣れてはいるけれど初めて袖を通したその衣装に、セヨンは腕を広げてくるっと回ってみせた。
「どう? これならいけると思わない?」
「……王女様、本当にその格好で行くおつもりですか?」
上機嫌なセヨンの言葉に対して、卓に頬杖をついて座るヒョリから返ってきたのは、この上なく渋い返事だ。
「なあに、どうしたの? 急にそんな弱気なことを言い出しちゃって。服を貸してと言った時は乗り気だったじゃない」
「まさか!」
思わずといった様子で、頬杖を外して声をあげたヒョリは、
「乗り気だなんて、何をどう捉えたらそうなるんですか。反対する気にもなれなかっただけですよ」
まるで心外だというように、思いきり顔をしかめてセヨンに返す。
セヨンが今着ているのは、つい先程までヒョリが身につけていた衣装だ。ぴったりという程ではないが、まあまあ違和感はない程度には着られていると思う。
そして代わりに、ヒョリが今着ているのは交換したセヨンの服―――とできればよかったのだが、ヒョリには少々小さかったため、着替え用の服を着てもらっている。
ちなみに、衣装だけでなく髪型も、ヒョリと同じ女官見習いのものに揃え済みだ。
つまり、セヨンは今、女官見習いの格好をしている。
はあ、と深い息をついて再び頬杖に戻ると、ヒョリは「……王女様、」と非常に疑わし気な目でこちらを見上げた。
「それ程人数は多くないとはいえ、この寺には王宮の者が幾人もいるんです。そんな中で誰にも見つからずに抜け出すなんて、衣装を替えたところで可能でしょうか」
「大丈夫よ、遠くに行くわけでもないんだし。それに、私だってそんなに大それたことをしようと思ってるわけじゃないの。ただちょっと、ほんの少し、外の様子を自由に楽しみたいだけよ」
「それがそもそも大それたことだと思うんですけどね」
頬杖をついたまま半目になるヒョリに「またまたあ。そんなこと言っちゃって」と笑って、セヨンは小首を傾げた。
「そう言いながら、ヒョリはいつも私を助けてくれるのよね。ほんとに、これ程心強い味方は他にいないわ」
「心強い味方って……、またそんなことを」
それからもまだぶつぶつと言っていたヒョリは、とりあえずはそれで満足したのか、「……まったく」とまた息をついて立ちあがった。そして、おもむろにセヨンのそばに寄ったかと思うと、衣装の合わせ目や裾の具合を丁寧に直してくれる。
最後に、セヨンと目を合わせて、ぽんと両肩に優しく手を置いた。
「それでも、ようやく叶った外出です。気になることはたくさんありますが、やりたいことをなさればいいと思います。……が、度を越し過ぎないように注意してくださいね」
「ふふ、もちろん、分かってるわ」
「とりあえず、お戻りになるまでは、王女様はお疲れのご様子でお休みになっている、ということにしておきます」
「ありがとう。そうしてくれると助かる」
ヒョリにそう頷き返し、セヨンは扉のそばへ寄った。
さてと、行くわよ……!
ほんの少しだけ開けた扉の向こうに人の気配がないことを確認したあと、今のうちにとするりと部屋の外へ出る。
「あ、王女様……!」
後ろ手に扉を閉めて行こうとしたところで、ヒョリが短く呼ぶ声が聞こえた。何か言い忘れたのだろうかと振り返ると、両手を握り合わせたヒョリが珍しく不安そうな顔でこちらを見ている。よく見ると、その瞳には薄っすらと涙も浮かんでいるように見える。
「そんなに心配しなくても大丈夫よ、すぐに戻ってくるから」
「いいえ、そうではなく! 王女様、絶っっっっっ対に、誰にも見つからないでくださいね! もし誰かに見つかったら、王女様はよくても、私の首が飛ぶことになるので……!」
「―――……」
どうやら、ヒョリが心配していたのはセヨンのことではなく、自分の身の安全だったようだ。
再び「分かってるって!」とヒョリに返して、あてがわれた自室を抜け出したあと、セヨンはそっと外に出た。
ヒョリから聞いていた通り、今はほとんどの者が出払っているようで、近くに人の気配はない。
ただ、まったくいないわけではなく、遠くの方にはちらちらと人が動いているのが見える。その中には、僧形の者たちの他に、ギテの部下である護衛の者や、王宮から運んできた荷を片付けている者の姿もある。
セヨンは、それらを近くの木の影に隠れながらうかがった。
幸い、境内には大小の建物や、植えられた木々が点在しており、身を隠す場所には困らなさそうだ。
それでも、あちらへ行くと見つかる可能性が高いから、反対側へ行った方がいいわね。
木の影から出たセヨンの脳裏に、少し前に見た通りの様子が蘇る。
あの賑わいを、もう一度間近に感じられたら。
先程ヒョリに話したように、抜け出すといっても、別にお寺を出て遠くへ行こうと思っているわけではない。
この寺は少し高い場所にある。到着してからあてがわれた部屋へ向かう途中で、眺めのよさそうな場所を通りがかった。
その時はまだ他の者たちもいたため、立ち止まって見ることもできず、ただ通り過ぎるだけになってしまったが、ちらと見えた感じが、あの通りが望めそうな様子だったのだ。だから、まずはもう一度、そこから通りを眺めてみたいと思っている。
同じ境内だけれど、どうやって行けばいいかしら。
通ってきた道を思い返しながら、セヨンは目指すべき場所へと足を進めた。もちろん、人目を忍びつつ、かつ、できるだけ早足で進む。
でも、こういうのって、なんだかわくわくする!
緊張で息は上がるし、先程から心臓もずっとばくばく鳴っているが、まったく苦しくない。むしろ、それが嬉しく感じる。
ただ寺の境内を歩いているだけではあるけれど、それでも、なんだか冒険みたいで楽しい。何より、王宮ではどこで何をするにしても必ず誰かがついて回るセヨンにとっては、一人で外を歩いているのだということ自体が、とんでもない大冒険だった。
そんな様子で、あっちだったかな、こっちだったかな、とうろうろしていたところで、あ―――、とセヨンは足を止めた。
ここだあ―――……っ!
建物の合間、木々がきれいに整えられた先に少し開けた場所があり、そこから向こうが望めるようになっている。
うわあ、なんて素敵―――……。
通って来た時は分からなかったが、寺に向かう道中で輿が進んだ通りは、この辺りでは一番大きな通りだったようだ。そこから枝分かれするように細い通りがいくつも広がっているのが、並んでいる家々の様子から分かる。
通りから離れた場所にもぽつぽつと茅葺の屋根が続いており、遠くて人は見えないが、所々に登る煙から、そこに細やかながらも穏やかな暮らしが広がっているのがうかがえる。
いいなあ、王宮からもこんな景色が毎日見られたらいいのに。
王宮がある都城は、街自体が高い壁に囲われているが、王宮はそれよりさらに強固に聳える城壁の中にある。ひょっとすると父や母は、父や母にだけ許される場所から街の様子が見られたりするのかもしれないが、セヨンが入ることを許されている場所からは、街の様子を望むことはできない。
もっと大きくなったら、そういうこともできるようになるのかしら。
そんなことを思いながら夢中でその景色を眺めていたため、セヨンは背後から近付く人物がいることに気付かなかった。
「ねえ、そこで何してるの?」
まずい、誰かに見つかった―――……?
突然かけられた声にびくっと肩を震わせたセヨンが恐る恐る振り返ると、そこには不思議そうに首を傾げる一人の男の子が立っていた。




