第15話 企
この地の人々に見守られる中を、行列は粛々と進み、やがて予定されていた参詣先、長慶寺に到着した。
静かに下ろされた輿の木戸が上がり、セヨンはゆっくりと境内に足を下ろす。
ああ、これが、外の香り……!
と言っても、ここには行き交う人々の喧騒も雑多な暮らしの気配も一切なく、王宮とさして変わらない静かな空気が流れている。それでも、セヨンにとっては近くに人々の暮らしがあるというだけで、とても心躍ることに変わりない。
胸いっぱいに思いきり空気を吸い込んで、存分に堪能し、そして、またゆっくりと吐き出す。
せっかくここまで来られたんだから、この機会を活かさなきゃ損よね。
境内にそよそよと揺れる木の葉や、気持ちよさげに飛び行く鳥たちを見上げて、密かに思い描いていることにセヨンはにんまりと頬を緩ませた。
でも、今は気を引き締めなきゃ。始める前から、計画が頓挫してしまうわ。
「母上様」
同じようにゆったりとした動作で輿から出てきたチョンミョンの姿を認め、セヨンは居住まいを正して母の元へ向かった。
「母上様、長旅、ご苦労様にございました。お疲れではないですか?」
「ああ、だが私は毎度のことだからな。それより、そなたは―――いや、聞く必要は無さそうだな。そのような顔をしているところを見ると」
「えっ、私の顔が、何かおかしいですか?」
まずい、もしかして顔に出ていたのかも―――と思わずどぎまぎしながら両手で顔に触れると、チョンミョンはなぜか呆れたように小さく息をついた。それ以上は何も追及してこないところを見ると、とりあえず、密かに画策していることについては何も気付かれなかったようだ。
ほうっと息をついて、セヨンは心の中で胸を撫でおろす。
「王后様、王女様」
ちょうどそんなところで、馬を下りて部下に指示を出していたギテがこちらにやって来た。
「お二方とも、ここまでの長旅まことにお疲れさまでした。輿での旅とはいえ、お疲れでしょう」
「いや、大事ない」
ギテは、鷹揚に答えるチョンミョンに頷くように軽く頭を下げたあと、続いてセヨンの方を向く。
「王女様におかれましては、道中、民の暮らし向きなどを見物されたご様子。その分、お疲れになっているのでは?」
「あ、チャン将軍、そのようなこと―――!」
先程の通りで小窓を開けていたことを示唆され、セヨンは思わず声を上げた。だがそこではっと言葉を止め、ちらとチョンミョンを見る。
「あの、母上様……、」
おずおずと上目遣いに母を見上げれば、その眉間には予想通りぎゅっと深い皺が刻まれている。
チョンミョンはその皺を押さえるように眉間に手をあて、それまでとは比べものにならない程大きなため息をついた。そして。
「セヨン、そなたはもう少し、この国の王女であるという自覚を持つ必要があるな。今はそのように良家の娘のような身なりではあるが、一介の臣の娘とは異なるのだ。軽率な行動は慎みなさい」
ちょっと窓の外を覗いただけなのに、軽率な行動だなんて。
―――と、言いたいのはやまやまだが、もちろんセヨンにも、輿の小窓から外の様子を盗み見る、あまつさえそこから見えた景色に歓声を上げそうになるなど、王女どころか良家の娘としても分別が足りない行為であることは分かっている。けれど、まだ一一歳だ。少し興奮するくらい、許してほしい。
「……はい、申し訳ありません」
とは思いつつ、それは一切口にすることはせず、母の言葉に頷く。
ここまでずらずらとやって来た行列は、まだ到着した時の形のまま、皆がその場に腰を下ろして控えている。出発前と同じく、こちらの会話は聞こえていても聞こえていない様子で、皆一様に顔を伏せたままだ。
一方、ヒョリはというと、セヨンが輿を下りてからは、常のように半歩後ろの位置に控えている。そこにいながら、侍女らしく少しばかり顔を伏せたヒョリは、ギテがチョンミョンに告げ口をしている間も、そのせいでセヨンがチョンミョンにお小言をいただいている間も、まったく素知らぬ顔のままだ。
まったく、少しくらい助けてくれてもいいじゃない。
ちらと斜め後ろに目をやると、それを知ってか知らずか、ヒョリはふいとあらぬ方向へ顔を逸らした。どころか、よく見ると、なんだか笑いを堪えているようにも見える。
ええ、ええ、悪いのはもちろん私ですよ。
もうっ、と息をついて、セヨンはヒョリから目を戻した。
そこに、ギテと同じような武官と、この寺の僧侶らしい僧形の者が三人程やって来る。
「この寺の住職と、僧侶です。王后様、王女様へご挨拶をしたいと」
そう説明された僧侶の中で、一番ゆったりとした僧形に大きな数珠を首から下げた者が、胸の前で合唱をし、深々と頭を下げた。
「この寺の住職をしております。この度は、当院に起こしいただき誠にありがとう存じます。長の旅路、さぞお疲れのことかと思いますので、まずは旅の疲れをゆっくりと癒しください。狭いところではございますが、ごゆるりとお過ごしくださいませ」
「ああ、かたじけない。しばし騒がせることになるが、よろしく頼む」
チョンミョンは答えると、ギテに目を移した。
「そなたには我々の護衛の他に、この辺りの街の様子を見て回るという役目もあるのだろう。こちらのことは気にせず、大王様からの命を遂行するように」
「は」
そして、今度はセヨンに目を向ける。
「よいか、ここへは遊びに来たのではない。ここにいる誰もが国の責務を負っている。そのことを常に忘れず、チャン将軍を煩わせるようなことがないように」
「もちろん承知しております、母上様」
それまでとは打って変わって自信満々に頷くセヨンに、チョンミョンは一瞬何か言いたげな顔をしたが、そこはまた息をつくだけに留めることにしたようだ。
「私は住職と話があるゆえ、しばし離れる。セヨン、そなたは部屋で休んでいなさい」
「かしこまりました」
向きを変えて住職と歩き出したチョンミョンに頭を下げ、その背を見送る。
セヨンの顔には、再びにんまりとした笑みが広がっていた。
自身にあてがわれた部屋へ入り、そこに配された質素ながらも品のある調度品をぐるりと見回したあと、セヨンは卓の上でお茶と茶菓子の用意をするヒョリを振り返った。
「ねえ、ヒョリ、他の皆はどうしたの?」
「女官や見習いたちですか? ずっと歩き通しだったので、交代で休憩と、逗留中の王女様の身の回りのお世話をするために、この寺院の設備や使い方について確認に行っています」
「あなたは行かなくていいの?」
「全員が行っては、今王女様のお世話をする者がいなくなるではありませんか。大丈夫ですよ、逗留中についての説明は他の者からあとで聞けますし、そのうち休憩にもしっかり行かせていただきますので」
「あら、そうなの」
ふーんと頷きながら、お茶を淹れ始めるヒョリを盗み見る。
さて、どうしよう。
今胸の内にある計画を実行するためには、このヒョリの目をかいくぐる必要がある。セヨン以上にセヨンを理解しているこの女官見習い相手に、そんなことができるだろうか。
ヒョリって、結構鋭いのよね。
うーん、と考えながら再びヒョリを見やると、ばちっと目が合った。思わず、うっと動きが止まる。
「何ですか?」
「う、ううん、何でも」
ぶんぶんと首を振り、適当に、茶菓子の蓋などを開けて中身を覗いてみたりする。そのまま、今度は卓に広げられた敷織物の具合を確認してみたり、そこに活けられた花を突いてみたりと、手際よくお茶の準備を進めるヒョリの横で、室内をうろうろしつつ、ちらちらとヒョリの様子をうかがう。
「―――王女様」
「うん? 何かしらっ」
終わった? と、ぱっと振り返ると、予想外の至近距離に、ヒョリの何やら含みのある笑顔があり、たじっとセヨンは思わず後ろに一歩下がった。
「王女様、何か、あるでしょう」
「え? な、何かって?」
わざとらしい程にこにことした笑みに、ぎくり、と止まる。
「惚けないでください。私に話していないことがあるのではないですか?」
「話していないことだなんて……ふふ、ヒョリ、一体何の話かしら」
「そうやって隠そうとしても無駄ですよ。どれだけお仕えしてると思ってるんですか。何か、企んでいることがあるんでしょう」
さらに笑みを深めつつ、けれど、ずいっとまた距離を詰めてくるヒョリに、セヨンは堪らず明後日の方向へ視線を逸らす。
「た、企んでいるだなんて、そんな人聞きの悪い。誰かに聞かれたら、誤解されそうだわ」
だが、その言葉に、きらっとヒョリの瞳が光った。
「王女様、本当に何も企んでいないのであれば、誰に何を聞かれたところで、困ることなど一切ないのが普通ですよ?」
にこにことした笑顔のまま、ぽんっとセヨンの肩に手を置くヒョリの瞳は、「自ら墓穴を掘りましたね(にやり)」と語っているようだ。
いよいよ言い逃れできなくなり、観念したセヨンは、「はあ、仕方ない」と話し始める。―――が、その矢先に。
「ああ、結構です」
「は?」
聞いてきたのは自分のくせに、ようやく話し始めたセヨンの前に、どうしてかヒョリは片手で制止を突き出した。
「何よもう、聞いてきたのはヒョリの方でしょう?」
「そうなんですが、聞かなくても分かる気がするので。どうせ、抜け出そうとしてたとか、そんなところでしょう?」
腕を組み、半目になってこちらを見てくるヒョリに、セヨンは気分を害するどころか、「さすがね! なんで分かったの?」と驚きの声を上げる。対してヒョリの方は、正解を喜ぶどころか、呆れたように息をついた。
「王女様が企むことなんて、それ以外にないじゃないですか。先程王后様に面倒は起こすなと釘を刺されたばかりなのに、そんなことを考えていてよいのですか?」
「あら、母上様はそんなことおっしゃっていないわ。チャン将軍を煩わせるな、とは言われたけど」
「それがつまりそういうことじゃないですか。一応聞きますが、抜け出そうとすることが面倒ごとを引き起こすことになるという認識はありますよね? 私の目を盗もうとしていたくらいですから」
「それは、まあ」
もちろんその認識はあるため、そこはセヨンも軽く肩をすくめる。だがそれを見て、ヒョリはいっそう深いため息をついた。
「まったく。あの王后様に逆らおうとなさるのは、この国―――いいえ、この世のどこを探しても王女様くらいですよ」
「あら、誉めてくれてありがとう」
「誉めてませんっ!」
ぴしゃんと言い放ったヒョリは、けれど一つ息をついて、「それで、どうなさるおつもりですか?」とセヨンに向き直った。
「どうやって抜け出すのかという話です。私にバレたところで、諦めるおつもりは無いんでしょう?」
そこに、協力してくれそうな雰囲気を感じ、セヨンはにやっと頬が緩んだ。どうせ王女様のことだから―――と呆れる心が透けて見える気もするが、味方になってくれるのであれば文句は言わない。
「ふふ、さすがヒョリね。きっと手伝ってくれると思ってたわ」
「手伝いたいわけじゃないんですが、私が手伝わなかったらもっと大変なことになりそうな気がするので」
諦めたように嘆息するヒョリに、セヨンは嬉々とした表情で「それなら、ちょっと助けてほしいことがあるんだけど」と話し始めた。




