第11話 簪
「これは葛根、これは甘草で、これは桔梗。で、これが藤袴」
庭先の木の下、そこに置かれた広めの縁台の上。
何日か干して完全に乾いた薬材が、種類ごとに平たい網籠にまとめられている。
「葛根は、発汗、解熱、鎮痛作用があって、風邪のひき始めにいいんだよな。あとは、肩こりや頭痛がある時にも使える」
うちの一つ、葛根の籠を手に取り、その効能を独り言のように確認しながら、中身を取り出して小刀でざくざくと刻んでいく。
根茎は刻んだあとまたさらに乾燥にかけるものもあるが、かぴかぴに乾いた薬材は、束で刻んでもおもしろい程に簡単に細かくなっていく。
刻み終わったものはまた別の小さな籠へ移し、それが終わると、次を取ってまた刻み始める。
「甘草も、咳や痰を抑えたり、痛みを和らげて炎症を抑えたりする効果があるんだっけ。で、桔梗も……よいしょっと、だいたい同じだけど、たしか甘草と一緒に使うのは危ない」
まるで独り言のように自分の中の知識とすり合わせながら刻んでいると、
「ふふ、スハはよく覚えているのね」
細かくなった薬材を向かいで袋に詰めていたユンファが、微笑ましいものを眺めるように瞳を柔らかくする。
「いつの間にそんなに覚えたの?」
「へへ、赤ん坊の時からこの家に住んでるんだ。これくらい覚えてて当然だよ」
他にもいろいろ覚えてるよ、と笑って、スハはこの時期にソンジェがよく採ってくる薬草についても説明し始める。その間も、薬材を刻む手は止めない。
採ってきた薬草や根茎は、干し終わると適当な大きさに刻み、薬棚や軒先に吊るした袋に入れておくことになっている。袋詰めか薬棚かは、特性や用途によって分けられているが、基本的にはソンジェによって振られた薬材の名前が記されたところに収める形だ。
薬材は基本的に陰干しにすることが多いが、まだまだ暑さが残る今の時期は、晴れ間が続けばすぐに乾燥が終わる。
今の時期に摂れる薬材は多い。そのため、次から次と干しにかけるものが溢れているため、乾燥し終わったものはどんどん片付けていかなければ追いつかない。
「よし、ここら辺はだいたい終わったから、次はこっちかな。よっ、と」
近くに並んでいたものはあらかた刻み終わったが、縁台の上にはまだまだ薬草が並んでいる。スハは手を伸ばして、奥に置いていたものを取った。
「で、ええと、これは……うーん、何だろう」
だが、手に取った籠を見下ろして、スハはその日初めて首を捻る。
籠の中にあったのは、小振りな花の残骸がいくつもついた薬草だ。その一つを手に取り、くるくると回して見方を変えてみたり、匂いを嗅いでみたりするが、一向に何の薬草なのか分からない。
花のつき方や茎の様子に見覚えがある気はするが、なんせ、ここにあるものは全てかぴかぴに乾燥して、色も本来のものよりかなり褪せたものばかりだ。これで分かれと言う方が至難の業だ。
うーん、分からないなあ。この感じは瞿麦か、当薬辺りだと思うんだけど……。
スハはソンジェから、薬やその元になる薬材について特別に教えられているわけではない。生まれた時からそれらで溢れている家に住んでいればある程度のことは分かるようになるが、やはり、根っこは根っこであり、草は草だ。特に、これだけ干からびていれば、その辺に生えている普通の枯草と同じに見える。
「うーん、これは多分、いやきっと、当薬だ!」
どうだ! と突き付けるように出した答えは、だが残念ながら「―――違うな」という背後から聞こえてきたソンジェの声によって否定されてしまう。
「え、違うの? じゃあ、瞿麦?」
「それも違う。これは山萩だ。よく見ろ。ここが少し丸まってるだろう」
籠から一つ取って示すソンジェに、スハは「え、これが山萩?」と首を傾げた。
「だって、山萩はこんなに小さくないだろ?」
「今年の夏はかなり暑かったし、雨も少なかったからな。いつもより成長が悪かったんだろう」
「ええ、そんなの反則」
「反則って、お前な……」
手にしていた山萩を籠に戻し、ソンジェは腰に手をあてる。
「いいか、山萩だけじゃないが、当薬と瞿麦でも、効能はもちろん組み合わせに気をつけなきゃならん薬草がまったく違う。間違えたら大ごとになるんだぞ。ちょっと知ってるからって、中途半端な知識で薬草を扱うようなことだけはするなよ」
「もちろん、分かってるよ」
もう何度言われたか分からないソンジェの言葉に、スハは呆れたようにため息をついて頷いた。つい唇が尖ってしまったのは、むしろご愛嬌だ。
まったく、そんなに言うなら、薬や薬草のことについて、もっとちゃんと教えてくれたらいいのに。
ソンジェはあまり、スハに積極的に薬について教えようとはしない。どうやらソンジェは、薬房の子だからとスハがここを継ぐ必要はないと考えているようだ。
薬房の仕事は、その細かさや大変さに比べて、実入りが少ない。もしかしたら、スハには務まらないと思っているのかもしれない。
あーあ、そんなに信用ないかな、俺。
「何だ? 何か言ったか?」
「え? う、ううん、何も言ってないよ」
普段はそれ程でもないのに、ソンジェはこういう時だけやたら勘がいい。口に出したつもりはないが、もしかしたらちょっとだけ漏れていたかもしれない不満に目ざとく気付き、鉄拳を構えようとしている。
「ほんと、何も言ってないから!」
慌てて首を振り、スハは途中だった作業に急いで戻った。ソンジェがまだこちらを見ている気配が漂っているが、それは無視してざっくざっくと薬草を刻み始める。
そんな夫と息子のやり取りを見て、ユンファがまたふふ、と優しく穏やかな笑みを浮かべる。そして、ある程度袋詰めが終わった薬材を持って縁台を立ったかと思うと、ユンファは軒先の方へ向かった。詰め終わった袋を、元のようにそこに吊るすのだろう。
ふと、その背を見送っていたソンジェが、懐からごそごそと何かを取り出したのを見て、あれ、とスハは見上げた。
「父さん、それ―――」
その一瞬、完全にスハの存在を意識していなかったに違いない。いや、妻の背しか見えていなかったと言う方が正しいか。
ユンファの方に目をやっていたソンジェは、スハの呼びかけにはっと意識を戻し、慌ててそれを隠すように元に戻す。
そのソンジェの様子と、懐にちらっとだけ覗いたそれを見て、スハの中にぴんっ、と明かりが点った。同時に、どことなく居心地が悪そうなソンジェに対し、にやっと口の端を上げる。
「もしかして、それ、母さんにあげるの?」
「……「それ」? な、何の話だ」
「ぷぷっ、何って、今見えたそれだよ。その簪、母さんにあげるんだろ?」
先日、市が開かれている通りの近くで、ソンジェとそんな話をした。
母さんに苦労をかけてばかりだと愛想を尽かされる、と。髪飾りの一つでも贈った方がいいんじゃないか、と。
けれどまさか、泣いている子どもに対しても厳めしい仏頂面で対するような父が、本当に母に贈り物をする気になるとは。
だが、そんな父だからこそ、母のことを思ってそれを用意したのだと思うと、息子としては素直に嬉しい。
それを少しばかり突きたくなってしまうのは、温かい応援というか、息子としての照れ隠しというか、まあつまり、愛情の裏返しだと思ってほしい。
「あ、俺の前で渡しにくいなら、席を外そうか?」
にやにやしながらのスハの言葉に、ソンジェの眉間にぎゅっと皺が寄る。
あまり悪ノリし過ぎると父の鉄拳が落ちるかも、と頭の片隅で思いはするが、悲しいかな、そう思ってもこのにやにやはそう簡単に止められそうにない。
変わらず温かい笑みを向けるスハに、ソンジェはわざとらしい程に大きな咳ばらいをして、さらに、これまたわざとらしい程にしかつめらしい顔をして、スハを睨んだ。
「お前は本当に、一体何の話をしているんだ。俺にはまったく分からんな。―――ああ、そうだ、それはまだ干さないといけないやつだろう。ふざけたことを言ってないで、さっさと片付けてしまえ」
まだ乾燥が必要な薬草を指して言うソンジェはいつもと変わらない様子を装おうとしているが、気持ち早口なその口調に大いに動揺が表れている。
こういう父の姿は珍しい。くくく、と思わず、だがそれでも喉の奥で堪えるように笑うと、じろり、とさらにソンジェに睨まれた。
あ、まずい、これ以上は本当に鉄拳が飛んでくるやつだ。ああ、ほら、父さんがまた拳を握りしめたぞ。これは早く逃げないと!
「ああ……っと、ほんとだ、これはまだ干さないといけないやつだ! ここに置いてちゃまずいね。あっちに持って行っとくよ」
ソンジェが額に青筋を立てるようにして右手を握るのが見え、スハは慌てて腰を浮かせる。そして、先程ソンジェが指した薬草の籠を掴んで、その場を離れようと急いで草鞋を履いたところで。
「スハ!」
生垣を越えて、外からドハンが駆け込んできた。
「なんだドハン、どうした」
どこから、どれくらい走ってきたのか、ドハンは激しく息を切らしている。事情を聞こうにも、肩で息を繰り返すドハンは、ちょっと待て、と手を振るばかりで一向に状況が掴めない。
やがて、少し呼吸が落ち着いてきたらしく顔を上げたドハンは、だが非常に興奮した様子でそれを一気にまくし立てた。
「スハ、聞いたか? 通りの方に、今すげえ隊列が来てるんだ! 都城から来たんだってよ! 何の隊列なのか知らないけど、こんなところにそんなもんが来るなんて、すげえだろ? ジョンウとヒスも見に行ってるって。なあ、俺たちも早く見に行こうぜ!」
「え? 都城の隊列?」
そう聞いても、いまいち現実味がなく、スハにはぴんと来ない。
ここは、紫微国の辺境だ。そんなところに、わざわざ本当に中央から隊列がやって来たのだろうか。一体何の隊列が。
その場にいたソンジェと、こちらに戻ってきたユンファも、ドハンの話を聞いて一緒に首を傾げる。
「都城の隊列を見る機会なんて、一生に一度あるかないかだ! 早く、急げって!」
「お、おう」
ドハンに半ば引きずられる形で走り出しながら、スハは後ろを振り返った。
「父さん、母さん、続きは戻ったらやるから置いておいて。行ってきます!」
「あ、ああ」
「気を付けてね」
二人に手を振り、スハはドハンと一緒に駆け出す。
我が家が背後に遠のいていくのを感じながら、あ、ちょうど上手く二人にすることができたな、とスハは思った。
くく、と再び喉の奥で笑って、けれどスハは走りながら軽く息をつく。
緊張なのか遠慮なのか、何なのか分からないが、懐にあるものを父は母に早く渡してしまえばいいのにと思う。
いつ買ったものなのかは分からないが、あの話をしてから既に数日が過ぎている。元々の生真面目さもあるのだろうが、それがゆえに、きっといろいろ考えてしまって、父はなかなか母に贈り物を渡せないのだろう。
大事なのは今なんだから、そんな風に過去を気にし過ぎる必要はないと思うんだけどなあ。きっと母さんも同じように思ってるよ。
ドハンと通りの方に駆けながら、スハは父母のことを思い、再び息をついた。
ユンファには昔の記憶がない。スハが生まれてからのことは覚えているが、それ以前の記憶がないのだ。
いつも穏やかで優しい母は、自分が本来何者で、どこから来たのか、何も覚えていない。




