第10話 姫
髪を結い直し、こちらも平素の王后装束から身軽なものに替えた母のチョンミョンが、中宮殿の扉から下に伸びた数段の石段を下りてくる。
紫微国の国母、ソンドの正室である、王后チョンミョン。
まっすぐな眉に、黒い瞳。妙齢の女性でありながら鼻筋の通ったはっきりとした顔立ちは、見る人によっては厳しげな印象を与える。
実際、チョンミョンは厳しい人だが、セヨンにとってはそれだけではない。もちろん、優しいところもある。けれど。
居所から出てきた母の眉間に少しばかり皺が寄り、双眸に剣が宿っているように見えるのは、きっと気のせいではない。
「そなたらは、まこと、いつまでそうしている気だ」
「……っ、申し訳ありません、母上」
即座に謝るジュングに対し、セヨンは母を振り返り、別の意味で元気よく頭を下げた。
「母上様、いらっしゃいましたか!」
謝意ではなく、挨拶の方に大きく意識が持っていかれてしまったのは正直不可抗力だ。チョンミョンがその扉から出てくるのを今か今かと待っていたセヨンにとって、それはとても仕方のない反応だったと言える。
隠しきれない喜びに表情をぱあっと明るくして言うセヨンに対し、チョンミョンはさらに何か言いたげにぐっと眉を寄せたが、結局それはこちらに向かうことなく、別の方向へと向かう。
「王太子、そなた、妹と同じように言い合っていてどうするのだ。下の者たちが見ているぞ。どうやら、まだまだ王太子としての自覚が足りないようだな」
控えている隊列の方を目で示しながら、息をついてチョンミョンが叱責するのに、ジュングが「申し訳ありません……」と元々落ちていた肩をさらにしょんぼりと落とす。
それを見て、ああ大変、これはまずい、とセヨンは顔色を変えた。そして、「母上様!」と慌ててチョンミョンを見上げる。
「お叱りになるのなら、私にしてくださいませ。兄上様はただ、出立前に私のことを案じてくださっただけで、何も悪くないのです」
「セヨン、この母が兄を叱ったのは、臣下の前でそのような私的なやり取りを見せるなという意味だ。それ以外のことについては、当然、兄だけに問うつもりはない」
チョンミョンはそう言うと、瞳を細め、こちらが思わず凍てつくような笑みを浮かべた。
「そなたには、自らに非があったという自覚があるようだが、であれば、叱責を受ける覚悟もできているということであろう」
「え……」
ぎくり、と思わず動きを止めるセヨンに、チョンミョンは嫌な笑みをさらに深めて続ける。
「あいにく、今は出立前のため時間が無い。目的地に到着した後、改めて私の元に来るように」
「あ……はい、分かりました……」
母の冷たい笑みに、それ以外に答えようがなく、セヨンは小さく頷く。
チョンミョンが怒ると、それはもう本当に怖い。確実に、周りの温度が何度も下がる。体感で、息が白くなりそうな程だ。
非があるわけではない兄を守る意味で口を挟んでみたが、なんだかそれが余計な墓穴になってしまったようだ。これなら初めから何も言わない方がよかったかもしれない、と思ってしまいながら、セヨンも兄と同じようにしょんぼりと肩を落としたところで。
「王后様」
父のソンドと同じくらい大きな背に、重そうな鎧。その双肩にかけられた掛布を大きく翻しながら、一人の武官がやってくる。
ソンドが最も重用する側近であり、ソンドに代わって軍を率いることも多い、将軍のチャン・ギテだ。
セヨンはあまり詳しくは知らないが、最近ではソンドから「大将軍」という称号を賜ったらしい。周りの女官たちの話によると、それ程に、ソンドに引けを取らず強い人物なのだという。
そのギテが、チョンミョンの前に来て軽く頭を下げる。
「隊列の準備が整いました。出立の刻限になりましたので、輿にお乗りください」
「そうか」
今回の隊列には護衛の武官が何人かついているが、この国で二番目の存在となる王后が出向く行幸であるため、大将軍となったギテも特別に護衛に当たることになっている。
そのギテに対し目で頷いたチョンミョンは、背後に控えていた王后付き女官の尚宮ホン・ヨルランとともに、隊列の中心となる二つの輿のうち、前方の輿へ向かった。
「王女様も、どうぞ」
次いで、こちらにも頭を下げるギテに「ええ」と頷き、セヨンも輿の方へと足を向ける。
ああ、いよいよだ。
セヨンは、歩き出した足がふわふわと覚束なく、浮きそうになるのを感じた。
それが他の者にバレないよう、ぐっと顎を引き、少しでも堂々として見えるように努める。
今まさに王宮を出立しようとしている、この隊列。
母のチョンミョンは、この国の繁栄と、戦に向かう軍やソンドの武運長久を祈願するため、年に一度、国内の寺院を参詣している。
訪れる寺院は毎年異なり、どのように定められているのかセヨンにはまだ不明だが、年に一度チョンミョンが向かうこの参詣は、生まれた時から王宮にいるセヨンにとって、外の世界を知ることができるかもしれない唯一の機会だ。
一〇歳を過ぎて一一歳になった今年、ぜひとも母に同行したいと強く懇願し、晴れて実現したのが今回の行幸である。
よって、セヨンが今、常の王女装束ではなく良家の娘のような衣装に身を包んでいるのも、早くから隊列の前で待機し、待機しながらも兄に少々悪戯な口をきいて少しでも気を紛らわせようとしてしまったのも、すべてはずっと楽しみにしていたこの行幸のためだ。
ここに来るまで、長かったわ。
ほんの十数歩の距離ではあるが、輿に向かうまでの間、セヨンの中に今日にこぎつけるまでのことがさあっと蘇る。
希望のままに願い出たところで、決して簡単に今回の同行が決まったわけではない。
チョンミョンは初め、セヨンが同行することにかなりの難色を示していた。それを、最終的にはソンドの方に必死に頼み込む形で説き伏せ、同行の許可が出たのである。
そのソンドは、政務が忙しく、今日の見送りには来られないと聞いている。
「ギテ、母上とセヨンを頼んだぞ」
「承知しました、しかとお守りいたします」
輿に向かう背後で、ジュングがギテに対して命じているのが聞こえた。
確認せずとも、兄がその眉間にできるだけ力を込め、少しでも上に立つ者としての威厳を見せようとしているのが分かる。
ここに来られない父の代わりを務めようと、精いっぱい努めているのだろう。
妹の自分が言うのもなんだが、兄は本来、それ程大人ではない。王太子という責任ある立場にあるとはいえ、まだ一三歳なのだ。当然である。
けれど、そこで本来の姿の子どものままでいることはやはり、王太子という立場にある兄には許されていない。セヨンも王女という立場ではあるが、兄程にはその立場に縛られてはいない。
一体、王太子とは―――世継ぎとは何なのか。
それ程に、無理に背伸びしなければならないものなのか、まだ一一歳の自分には当然分からない。
けれど、せめて自分だけでも、兄を王太子ではなくただの「兄」として接してあげたい……いや、接してほしいと思っている。
そんなことを頭の片隅で思いながら、セヨンは自分が乗る輿の前に足を止めた。
ふう、と緊張を吐き出すように軽く息を吐き出したところで、輿のそばに控えていた女官見習いの少女たちの中の一人と目が合った。
あ、ヒョリ、そこにいたのね。
セヨンには、チョンミョンと同じくお付きの女官が何人かいるが、それ以上に、たくさんの見習い女官たちが身の回りの世話をしてくれている。
中でもヒョリは、物心ついた時から一緒にいる、この王宮で一番身近な女官見習いだ。
歳はセヨンよりも少し上、それこそ、兄のジュングと同じくらいで、セヨンにとって友人であり、家族でもあり、大切な姉妹のようでもある。
少しばかり毒舌で、王女であるセヨンに対しても遠慮がないところがあるが、セヨンの考えていること、感じているものを、一番深く理解してくれる存在だ。
今回の参詣をセヨンがどれ程楽しみにしていたか一番よく知る相手であり、そのヒョリが、セヨンと目が合ってそっと微笑むのが見え、セヨンは思わず喜びのままヒョリの元に駆け出したい衝動に駆られた。
セヨンにとって、実はこれが、王宮の外に出る初めての経験になる。同じように、幼い頃から見習いとして王宮にいるヒョリも、都城の外に出るのは初めてのはずだ。
今の喜びを分かち合うのに、これ以上の相手はいない。けれど。
だめよ、落ち着いて。そんなことをしては、また母上様に大目玉を食らってしまうわ。
これ以上は本当に行けなくなってしまうかもしれない。それは絶対に嫌よ……!
ヒョリの元に駆け出したい衝動を、頭を振ってなんとか必死に押し留める。
セヨンは再び、ふう、と息を吐き出し、今度こそ輿に乗り込んだ。
折り上げ式の木戸がゆっくりと閉じられ、外の音が遮断される。急に静かになった輿が、少ししてふわっと持ち上がった。
ああ本当に、いよいよだわ……!
夢にまで見たこの瞬間。
ずっとこの目で見てみたいと思っていた人々の暮らしを、ようやく見ることができるのだ。
その期待で頬は上気し、胸はわくわくでいっぱいで、つい先程までのしょんぼりした気分などどこかへ吹き飛び、もはや見る影もない。
「出立!」
遠くで、号令が上がるのが聞こえる。
同時に隊列が前へ進み始めたのを感じ、セヨンは一人、輿の中で小さく歓声を上げた。




