第8話 無
そうだ、栗があった。
トボクと別れて家に向かいながら、小腹が空いたなあと思ったところで、スハは懐に入れたままだった栗の存在を思い出した。
さすがに、栗は歩きながらじゃ食べられないか。
辺りを見回して、腰かけるのにちょうどよさそうな場所を探す。少し歩いた近くの木陰に、地中から平たい頭を少しだけ出した岩を見つけた。
あそこでいいや。
その木陰まで行き、よいしょ、と少しだけ出た岩に腰を下ろす。懐から取り出した栗の皮を剥いて口に放り込みながら、それにしてもすごかったなあ、とスハは先程の旅芸人たちを思い出していた。
どどん、と響く太鼓に合わせて、まるで演舞のように太刀が舞い、鷹の面が翻れば、雀や鶏の面はばったばったと当たり前のように地に転がっていく。高所に一本張られた綱の上を颯爽と渡ったかと思えば、くるくると回転しながら音もなく地上に飛び降りる。
彼らが何かを披露するたびに、見物人からは歓声や拍手が沸き起こり、皆がその芸の虜になっていた。いや、その賞賛はもはや、旅芸人たちが演じる鷹の王様を通り越して、きっと、その先にいる本物の王様へと向かっていたのだろう。
ふと、腰かけた岩の影に落ちていた、一振りの枝が目に入った。今朝、山を下りながらジョンウとヒスが振り回していたのと同じようなものだ。
栗の包みを岩の上に置き、立ち上がったスハはおもむろにその枝を拾い上げる。
うん、ちょうどいい。
軽く握るのに、ほどよい感触。
それを、ひゅん、と一度振ってみる。
あの鷹の面のように―――いや、王様のようにとはいかないまでも、もしかしたらもしかしなくても、軽く振ってみたら自分でも様になったりするようなことがあるかもしれない。
ひゅいん、たんっ。
そんなことを思いながら、次は足も踏み出して振ってみる。
あれ、これは結構いい感じかも。うん、いけるぞ。
そして、今度は両手で握って片肘を後ろに引き、木の幹に向けて枝先をぴんと据えた。ちょうど、顔の真横に枝がまっすぐ伸びている状態だ。
それに「はっ!」と気合を込めて、体を動かしてみる。
鷹の王様がやっていたように、回転しながら敵に見立てた幹に向けて突きを繰り出し、枝を回して斜めに鋭く振り下ろした後、足を踏み込んで真横に一閃する。
おお……っ。
自分で言うのもなんだが、なかなか様になっていたような気がする。―――気がするが、しかし。
枝を見下ろして、スハは一つ息をついた。
いくら様になっていようと、これは所詮ただの枝だ。王様のように敵を吹き飛ばせるわけでも、当たり前のように地に転がせるわけでもない。
「やっぱ、こんなんじゃ全然、何も格好よくないよな」
頭を振って、枝を元の場所に放る。
そして再び元のように座り直そうとしたところで、「あっ」と思わず声が飛び出た。見れば、岩の上に置いていた包みから、栗がいくつか転がり落ちていくではないか。
「あーあ、もう」
てんてん、と転がった栗は、そのまま木の影の方に消えていく。
それを拾おうとそちらに回ったところで、スハはびくっと足を止めた。
「―――……」
いつからそこにいたのか、スハがここで栗を剥き始める前からそこにいたのか、幼い虚ろな瞳が、転がった栗を拾ってこちらを見上げている。
顔は薄汚れ、頭はシラミが湧いていそうな程ぼさぼさに荒れており、それが男の子なのか女の子なのかも分からない。ただ、どこもかしこも擦り切れて汚れたぼろぼろの衣服の裾から覗く小さな手足から、自分より遥かに幼い子どもであることがうかがえる。
顔と同じく垢まみれで汚れた手がぎゅっと栗を握り込んだところで、ぐうーっ、とその子どものお腹が鳴った。
「……お腹、空いてるのか?」
目が合ったままスハが恐る恐る尋ねると、こくん、とその子どもが頷く。とりあえず話が通じたことに安堵し、スハは無意識に詰めていた息を吐き出した。
「―――あ、そうだ」
スハがふいに呟いたことで、栗を握ったままの子どもがびくっと体を揺らすのを見て、
「ああ、ごめん。ええと、ちょっと待ってな」
そう言っておいて、岩の方に戻り、そして再び子どもの前に戻ってくる。
「これ、栗、まだあるんだけど、食べるか?」
包みを広げて差し出すと、子どもは虚ろだった瞳をはっと大きく見開いてスハを見上げた。栗と交互に見比べて、「……たべて、いいの?」と口にする。それに、笑って「いいよ」と頷いてやる。
「俺はもうたくさん食べたから、お腹いっぱいなんだ。代わりに食べてくれると嬉しいんだけど」
子どもはしばし驚いたように動きを止めていたが、やがておずおずと手を伸ばし、栗を受け取った。
ドハン達と分けたあとの残りだ。それ程数があるわけではない。それでも嬉しそうに栗を見下ろしたまま、ありがとう、と小さく呟かれるのを聞いて、スハもよかった、と自然と息がこぼれる。
そのままそこで食べ始めるかと思っていた子どもは、だがなぜか急に立ち上がり、くるりと向きを変えて別の方へ走り出した。
「あ、おい、どこ行くんだよ」
スハの声にはっと立ち止まった子どもは振り返り、「かあさんと、おとうとたちにも、あげる」と答えたかと思うと、仄かな笑顔を浮かべて手を振り、向かいかけた方へまた走り出す。
いつの間にやら、栗の包みは擦り切れた懐の奥に突っ込まれ、その上から守るように、腕でがっちり固められている。
それは落とさないようにというよりも、まるで奪おうとしてくる誰かから守るようにそうしているように見えた。
スハはその背を、ただ言葉もなく見送った。
その日の就寝時。
「ねえ、父さん」
板間に寝床を用意しながら、隣で薬草摘み用の籠を直していたソンジェに、スハは顔を向けた。
「なんだ、どうした」
「あっちの賑わってる通りの方に、いつも市が開かれて、よく露店も並んでる通りがあるだろ?」
「ああ、今日旅芸人が来ていた辺りのことか」
手元の籠に視線を落としたまま、ソンジェが頷く。
「うん、あの通りの近くに、皆があまり行きたがらない場所があるよね。無名街って言ったっけ」
「無名街?」
その場の呼び名を口にすると、それまで籠の穴を埋めるように編み直していたソンジェは、怪訝そうに手を止めてスハを振り返った。
「なんだ急に。無名街がどうした」
そこに少しばかり詰問するような気配が滲んでいるのは、多分気のせいではない。けれど、スハはソンジェのその言葉に、うん、と答える。
「誰も行きたがらないし、大人は子どもに、あそこには近付くなって教えるでしょ? どうしてなのかなと思って」
スハが言うと、ソンジェは眉間の皺を少し深くして、唸るように答えた。
「お前も知ってるだろう。あそこは危険な場所なんだ。子どもが近付いていいような場所じゃない」
「それは知ってるけどさ」
ここに生まれてよかった、と大人たちが口を揃えて言うこの国にも、地を這うような暮らしをしている人たちがいる。
それなりに栄えていて、人の行き来が盛んで、賑やかな通りがいくつも続いているこの村にだって、そういう明るい場所から一本裏に入れば、表とは別世界のような暮らしが広がっているところがあるのだ。
住む場所も、着るものも、食べるものも、満足に手に入らない。病になっても、薬を手に入れることさえ叶わない。
浮浪者のように人々が通りを徘徊し、子どもも老人も関係なく、いや、力がないからこそ余計に、弱い者は「奪われる」対象になる。
それが、無名街と呼ばれる場所だ。
だから、大人は子どもに、あそこには絶対に近付くなと教える。スハも当然、両親からそう言われている場所だ。だが。
「それは知ってるんだけど、そうじゃなくて、どうして大人もあそこに近付こうとしないのかなと思って」
「何?」
「だって、そうでしょ? あそこの人たちはそうしたくてそんな暮らしをしてるんじゃなくて、そうするしかないからそんな暮らしをしてるんだ。皆で助けてあげれば、あそこの人たちももっと普通に暮らせるようになるのに」
「スハ―――」
昼間、栗を抱えた子どもが走っていったのは、無名街がある方向だった。あの子どもはきっと、そこに暮らしているのだ。
スハの言葉に対し、何と答えようか思案していた様子のソンジェは、やがてゆっくりと口を開いた。
「なんでお前が急にそんなことを言いだしたのかは分からんが、誰も彼らを助けたくないと思っているわけじゃないんだ。できるならそうしているだろう。だが、一度であれば手を差し伸べることができても、あの場所に生きる人々を全員助けようと思えば相当な覚悟がいる。それは簡単にできることじゃない。皆、自分の暮らしも大事だろう?」
「うん」
「それに、中途半端な救いは、彼らにとって逆に毒になることだってあり得る。救いきれないなら、触れない方がいい方がいいことだってあるんだ」
「だから皆、見て見ぬ振りをしてるってこと? でも、父さんはよくあそこに行ってるじゃないか」
スハは、近付くなと言われているその場所を、ソンジェがたびたび訪れていることを知っている。だからこそ、疑問に思ったことを口にしたのだが、当のソンジェは渋い顔で唸るように眉間を押さえた。
「それは、ただ薬草を配っているだけだ」
「配る? 無料で?」
思わずいつもの調子で返してしまうと、「お前はまた……」と呆れたように息をつかれた。
「俺があそこで配っているのは薬じゃなくて薬草だ。金を取れるようなものじゃないんだから、無料で渡して当然だろう」
「当然だろうって……」
ソンジェの言葉に、スハは敷き終わった布団の上で枕を抱えて首を傾げた。
「でも、中途半端な救いは逆に毒になるんだろ? なのに、なんでそんなこと」
「病になった時に、自分たちでどうにかできるようにだ。薬は買えなくても、元になる薬草を知っていれば、自分で採ってくることはできる。扱い方を知っていれば、自分の力で薬を用意することだってできるだろう。俺はただ、ナ教吏様に教えていただいたことを、彼らにも伝えているだけだ」
再び息をつくソンジェに、ああそうか、とスハは頷いた。
薬を渡すという一時的な救いではなく、この先病になった時に自分でどうにかできる力を、彼らに身につけさせようとしているのか。なるほど、それは確かに、彼らにとっても最高の救いだろう。中途半端に一度だけ薬を渡されるより、何倍もいい。
「分かったら、お前はあそこには近付くな」
「ひゅうっ、なるほどね。さすが父さん、イカしてる」
真面目な言葉に被るように親指を立てて言うと、盛大に顔をしかめたソンジェに、ばしっとその手を叩かれた。
「お前は、まったく……。馬鹿なこと言ってないで、早く寝ろ」
そして、籠を編み直す作業に戻る。
その厳しい顔に、いつもより深い眉間の皺が刻まれているのに気付き、スハは「はーい」と布団に潜り込みながら、くくく、と笑いを堪えた。
父のああいう顔は知っている。照れているのを隠そうとする時の顔だ。緩みそうになるのを必死に堪えているので、いつも以上に眉間に皺が寄る。
それにしても、父さんがそんなことを考えて、たびたびあそこに足を運んでいたとは。
母は優しく、父は真面目。そんな二人に守られ、暖かなご飯を食べて、柔らかな布団で眠る。それができる自分は、かなり恵まれているのだと思う。
スハは眠りに落ちながら、昼間のあの子が、せめて家族とともに無事に栗を食べられていたらいいな、と思った。




