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第36話 裏

思っていたより、早かったか―――。


本来、何よりも重きを置くべきは、主君であるソンドの(めい)だ。

だが、臣下であるギテに、拒否できる命はない。よって、大義に背かない限りは、受けた命を遂行する。


それは、主君以外のお方からの(めい)であっても変わらない。


しかし、寺に戻り、ヒャン()の元に向かっていたギテに、ソンドから伝令が届いた。


もうしばらくかかると思っていたが、ソンドは既に茗渓寺(めいけいじ)に到着しているらしい。そして、そのソンドがいる場所はもちろん、間違いなくヒャン妃の元だろう。


赤子を消して、残るはヒャン妃、というところまで来ていたが、これで手を出せなくなった。


であれば―――。


やることは決まっている。赤子だけでも、その「存在」を確実に消すことだ。


そして、ソンドの前にやって来たギテは、即座にそこに(ひざまず)いた。






ヒャンはただそれを眺めていた。

追手を差し向けられることを食い止めねばと思うのに、もはや頭も体も動かせない。


「―――ギテ、」


眼前にやって来るなり即座に膝を折ったギテに対し、ソンドのどすの効いた声が低く問い質す。


「そこで何をしている」

「大王様、私に死罪をお与えください」

「何だと?」


突然のギテの言葉に、ソンドは眉間に深い皺を刻んだ。だが、ギテはなおも続ける。


「私は死に値する罪を犯しました。どうぞ、死罪をお与えください……!」

「一体何の話だ。(わけ)を話せ」


ソンドが言うが、(こうべ)を垂れて俯いたままのギテは何も答えない。それに対して、「ギテ」と再びソンドが低く言うと、ギテは苦渋の表情を浮かべ、絞り出すように話し始めた。


「私がこちらに到着した時には、すでに寺は野盗の襲撃を受けたあとでした。残党を追っていたところで、ヒャン妃様付きの女官が追われているところに遭遇し、そのあとを追ったのですが、もう一歩間に合わず、女官は野盗に斬られ、崖から落ちてしまい―――」


そこまで聞いて、ひゅっ、とヒャンの喉が鳴った。


な……、何を……。


先程までは動かなかった体が、ゆらりと前に動く。思わず身を乗り出すようについた手は、すぐにでもくずおれそうな自分を、最後のところでなんとか踏み留まらせている。


「そ……、それは……」


まことの話ですか―――、聞こうとして、だが、それが音を結ぶことはない。はくはくと無駄な開閉を繰り返すだけの口からは、ただ呼気だけが漏れていく。


ヒャン付きの女官とは、ユンファのことに違いない。であれば、ユンファは。ユンファに託した、息子は。


「子……、子は……」


なんとかそれだけを口にするが、ギテは押し黙ったままだ。ヒャンの言葉にぎらりと眼を光らせたソンドが、代わりにギテを見下ろす。


「その女官は、赤子を抱えていたはずだ。それはどうなった」

「申し訳ございません、女官とともに崖から落ち、そのまま……」


びしり、とヒャンの中で何かに亀裂が入った。


初め小さく入ったそれは、びきびき……、と少しずつ、だが確実に大きく広がっていき、止まることを知らない程無残に伸びていく。


「あそこは水の流れも速く、加えて、あの高さから落ちれば、恐らくもう……」


そのまま言葉を濁し、ギテは再び深く首を垂れる。


「お子をお守りすることができず、弁明の余地もございません……! どうか、私に死罪を……!」


何を。


何を言っているのか、まるで理解できない。


そんな、まさか。


きっと無事に抜け出しているはずだと思ったのに。追手の手も届かないところまで、逃げ切ってくれることを祈っていたのに。


本当に、誰の手も―――、この母の手すら、届かないところに行ってしまったのか。


極限まで広がった亀裂は、それ以上伸びる場所を失い、堪え切れず大きな音を立てて弾け飛ぶ。


足元から、すべて崩れていくような虚しさを感じた。

身を乗り出すようについていた手がかくりと折れ、ヒャンはそのままそこに倒れ込む。


「ヒャン!」


太刀を放ったソンドが駆け寄り、肩を抱え起こされるのを感じた。

だが、抵抗することさえできない。


身も心も、既に限界を超えていた。何も、どこにも、力が入らず、ソンドの腕から抜け出ようとさえ思えない。


守れなかった―――。


それだけが、虚しく溢れる。


ユノから託された、大切な子だったのに。


―――重い宿命にも負けず、その天命を必ず成し遂げてくれるはずだ。


脳裏に、あの日見たユノの優しい眼差しが蘇る。


―――私たちの子をどうか頼む、ヒャン。


自分はまた、大切なものを守れなかった。


これ以上ない程の絶望と、取り戻せない深い哀しみが、同時に襲ってくる。


最後に触れた、あの温かな頬。その頬に、まだほんの小さなあの手に、もう触れることができないなんて。


胸に大きな穴が穿(うが)たれたようだった。それがすべてを呑み込み、奪い去っていく。


名前すら、つけてあげられなかった―――……。


涙が(まなじり)から伝い、こめかみを冷たく濡らす。


頭上では、ソンドが何か指示を出していた。

赤子の捜索、ヒャンの休息、医官の招集、残党の捕獲―――、次々と(めい)が下されていく。

救出が間に合わなかったことを罰するより、そのすべてがギテへの厳命として下されていく。


そして。


「生まれたばかりの赤子だ。生きている方が低い。もし明朝までに見つからなければ、赤子は死んだものと見做(みな)し、王宮に引き上げる。―――なに、赤子は天命の子ではなかったということだ。次を待てばよい」


もはや、この世に繋ぎ留めるものは何も無い。

それを聞いたのを最後に、ヒャンの世界は暗転した。






紫微国(しびこく)の民の間では、この夜のことが次のように語られることになる。


『茗渓寺参詣の折、突如産気づいた大王クァク・ソンドの側室の一人ヒャンは、ソンドの第一子となる息子を出産した。だが、奇しくもその夜、寺は野盗の襲撃に遭い、赤子は生まれたばかりで命を落としてしまう。ソンドは失意のヒャンとともに寺をあとにし、王宮へ戻った』


生まれたはずのソンドの第一子、もしかするとこの国の世継ぎになっていたかもれない赤子の死を、民衆は深く嘆いた。

だが、じきに王后チョンミョンの息子が生まれると、失われた第一子の存在は徐々に人々の間から忘れ去られていくことになる。


しかし、真実とは常に、世に語られない裏の部分に存在する―――。






「ふぎゃあ……っ、ふぎゃあ……」


どこからか赤子の泣く声が聞こえ、男は足を止めた。


ちょうど、この川の先に生える植物に用があり、日の出とともに下から山を登ってきたところだった。その植物はこの山にしか生えておらず、貴重な薬の原料ともなる。


どうどうと勢いよく流れる川まで登ってきたところで、その流れの音に交ざって赤子の泣く声が小さく聞こえた。


その声は今にも消えそうで弱々しい。だが、激しい流れの音に交ざって、途切れ途切れに、確実に聞こえてくる。


男は耳を凝らし、そちらの方に足を向けた。少しずつ声が近くなる。


「―――……っ」


声のする方へ少し山肌をあがると、岩がいくつか重なった場所があり、その少し落ちくぼんだところに、赤子が一人泣いていた。


おくるみの周りには落ち葉が幾重にもかけられ、その中で青白い顔をした赤子が今にも消えそうなか細い泣き声を上げている。


見たところ、生まれてから数日と経っていないようだった。

一体いつからここにいるのか、今男がそこを通らなければ、確実にそのまま死んでしまっていただろう。


男は自らの上着を脱ぐと、その上着で急いで赤子を包んだ。そして、来た道を駆け降りるように返していく。


急げばまだ間に合う。今この赤子に必要なのは、温かい寝床と乳だ。


男の家はここからいくつか山を越えたところにある。そのため、急遽近くの里に部屋を用意してもらい、手当てにあたった。

本業は薬房(やくぼう)だが、患者の容体がまったく見られないわけではない。


そんな男の元に、赤子の母親と思われる、背中に深手を負った女が運ばれてきたのは、それからしばらくもしないうちのことだった。


女が川下に打ち上げられていたことから、里人の間では、母親が上流で何かの拍子に足を滑らせて川に落ち、赤子とはぐれてしまったのだろうと結論付けられた。


茗渓寺に王の側室が参詣していたことなど、近くの里といっても寺からそれなりの距離があるこの里までは、この時はまだ届いていない。山をいくつか越えた場所に住んでいる男にとっては、なおさら知りようもない話だ。



そして、この時の彼らはまだ知らなかった。



男が助けたその赤子こそが、のちにこの三景(さんけい)全土を統一し、民衆の王となるファン・スハ―――その人であることを。



今回で、「第一部 天命の子」完結となります。

次回からはいよいよこの物語の主人公、スハの物語が始まります(やっと!)

波乱の幕開けとなったスハの人生、彼は一体どんな少年になっていくのでしょうか。


ここまでお読みいただきありがとうございました!

楽しんでいただけた方、評価やリアクションいただけると嬉しいです!

次回からもよろしくお願いしますm

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