第35話 残
下に流れる川は勢いも強く、ところによっては大の男でも足がつかない程の深さになっているところもある。
加えて、この高さだ。
致命傷を負わせた状態でここから落ちれば、まず助かる者はいない。
赤子を抱えたままの女官が断末魔の表情で崖から落ち、そのまま流れの早い水の中に吞み込まれるのを、ギテはしばし無表情のまま眺めていた。
女官はもちろん、生まれたばかりの赤子であればなおのこと、この水に呑み込まれて生きていられる者などいないだろう。
ギテは遥か下方の流れに目を落としたまま、太刀についた血を払い、元のように収める。
まずは赤子、そして、それを抱えていた女官を消した。
次はヒャン妃だ。
踵を返し、来た道の方へ歩き出す。
数歩進んで、だがそこで、ふと脳裏に過るものがあった。
女官が抱えていた、あの白い包み。
あれはまことに赤子であったのか。
ギテの足が止まる。
背後の崖を振り返った。
そこにはもう、女官の姿も、もちろん、その女官が抱えていた白い包みも、残ってはいない。
大きさも、見た目の重みも、赤子が入っていると思えば、確かにそのように見受けられるものであった。だが、それはあくまで目測で、ギテはその包みの中を確認したわけではない。
しかし、思う。
ギテが背を二度斬りつけ、致命傷を負わせたあとも、あの女官は決して包みを放そうとはしなかった。それが主から託された大事なものでなければ、あそこまで必死に抱え込む理由もないと思える。
状況から考えると、やはりあれはヒャン妃の産み落とした子だったとしか思えない。
まあ、いい。
戻って確認すれば済む話だ。
ギテは僅かに目を細め、再びそこに背を向ける。
それよりも、この襲撃の仕上げに取りかからねばならない。
暗く目を光らせ、ギテはその場をあとにした。
隠れている屏風の前で、足音が止まった。こちらを探る気配が嫌でもありありと伝わってくる。
呼気が漏れるだけでも相手に居場所を掴まれてしまいそうで、ヒャンは両目を引き絞り、口元を押えて息を殺した。
だが、そのかいも虚しく、かた……、と屏風の端に手がかかり、そして、一気にそれを引き倒す。
「―――……っ!」
見つかった―――と思った瞬間、目の前に、どさっ、と黒い塊が落ちてきた。
ヒャンは、固まったように目を見開いたまま、ただそれを見下ろした。
黒衣を纏い、目から下に黒い覆面をつけた者。
その者が、倒れた屏風に重なるように転がっている。
何が起きたのか分からなかった。今目の前に転がっている者が、先程まで自分を探していた侵入者の正体だと気付くのに、しばし時間がかかる。
倒れた屏風の上に、徐々に赤黒い染みが広がっていく。その者が既に事切れていることだけは、すぐに分かった。
ヒャンは蹲ったまま視線を動かし、侵入者が倒れている、その向こう側に目をやった。
「だ……大王……様……」
慄然とした。
臙脂の羽織に僅かに返り血を浴び、太刀を振り下ろした形のままの鷹の目が、嗤っている。
なぜここにソンドが。
助かったという安堵よりも、その恐怖の方が先にくる。
野盗よりもさらに恐ろしいものが、目の前に。
それまでのものとは比べ物にならない程とてつもない恐怖が、身を包む。
ソンドを見上げたまま、ヒャンは動くことができなかった。奥底が急激に冷え、かたかたと全身が震え始める。
たとえそれが、結果としてすんでのところで己を助けた存在であったとしても、今一番ここにあってほしくない者がソンドだ。
野盗による襲撃は偶然のものだとしても、ヒャンがこの茗渓寺を参詣した折に産気づいたのは偶然ではない。それが知れれば、そこに関わった者すべてに危険が及ぶ。外に逃がした息子も、どうなるか分からない。
ソンドは、羽織と同じく返り血を浴びた頬を軽く吊り上げ、ヒャンを見た。
「大事ないか」
その顔が、嗤っている。
人を斬って、笑っている。
何人、人を殺せば、こうなるのだろう。
そう思わずにはいられなかった。
礼を言うことなどできない。一歩違えば、ソンドに斬られていたのは黒衣の侵入者ではなく、自分だったかもしれない。いや、それは今後起きる未来かもしれないのだ。
固まったままのヒャンに、ソンドはふん、と鼻で息をつくと、太刀についた血を鬱陶しそうに見下ろし、大きくひと振りして、その血を払い落とした。そして、うつ伏せで倒れる侵入者をその刃先で突いて転がし、覆面を剥ぎ取る。
「そなたが産気づいたというから来てみれば……、これは一体何の騒ぎだ」
既に事切れている者の顔を冷たく見下ろすソンドに答えたのは、遅れて入ってきた兵だ。
「どうやら、先刻野盗の襲撃を受けたようです。表の方に火の手が回り、兵も数人負傷しているようで……」
「ギテはどこだ。先に到着しているはずだが」
兵を振り返ることはせず、足元の侵入者を見下ろしたまま、ソンドが低く尋ねる。
「チャン将軍は、残党の探索をされております」
「すぐにこちらへ呼べ」
「は」
兵が下がっていき、部屋にソンドと二人きりになる。
ヒャンは変わらず壁際に蹲ったまま、震える両手を握り合わせていた。
すぐそこにはまだ、黒衣の者が転がったままだ。
気付けば、部屋の中はひどい有り様になっていた。
少し前、生まれたばかりの息子とともにいた褥は、踏み荒らされてもはや見る影もない。生まれた瞬間にあった安堵や感動は、今ではもう嘘のようにさえ思える。
体もつらく、心も既に極限まですり減っている。ただ座っているだけでも、息が上がる。
ユンファと、生まれたばかりの息子は、どうなっただろうか。無事に、寺から抜け出せただろうか。
もしソンドに見つかれば、連れ戻される。いや、それだけでは済まないかもしれない。
守るためには―――、きっと無事に抜け出しているはずの息子に追っ手をかけさせないためには、どうすればいい。
必死に考えを巡らせ、上がる息を整えようとする中で、
「ところで―――」
低い声に、はっとヒャンは止まった。
静かになった室内で、ソンドは辺りに視線を動かしている。そして、ヒャンの様子と、室内の様子を確認し、鋭い視線をこちらへ寄越す。
「ここにいるのはそなただけのようだな。―――子はどうした」
どくり、と心臓が跳ねた。
ソンドの問いは、至極当然のものだ。ヒャンの様子を見れば、既にお産を終えていることは簡単に分かる。
だが、この場に子はいない。
当初は、死産だと伝えるつもりだった。けれど、それではここに亡骸がないのはおかしい。
計画は、ここにソンドが現れた時点で、既に半分頓挫している。であれば、命を失わない方を選ぶより他ない。
ヒャンは、ゆっくりと口を開いた。
「……子は、外に逃がしました」
大丈夫だ。あえてお産を早めたことは知られていない。息子の本当の出自を知る術も、ほぼ無いに等しい。
ソンドの言葉は、単に赤子の行方を確認しているだけだ。知られるはずのないものには触れず、ただ事実だけを、ありのままを伝えればいい。
「このままここにいても、野盗に襲われれば、命はないと思い……」
だが、ソンドは訝し気に眉根を寄せ、ヒャンを見据えた。
「生まれたばかりの子を、外へ逃がした、と―――?」
「隠したとして、泣き声をあげれば、居場所が、知られてしまいます。それよりも、外へ逃がす方が、まだ助かる見込みがあるのでは、と考えました」
血の気を失い、指先は氷のように冷たい。息も切れ切れに、だが決してソンドから目を伏せることはせずに説明する。
それでもしばらく鋭い目でヒャンを見据えていたソンドは、「ふん。まあ、間違いではないな」とやがて視線を弱めた。
ひとまずやり過ごせたことを感じ、ヒャンはソンドに気付かれないようそっと息をつく。
「―――して、子は男か、女か」
「……男子にございます」
「ふっ、だろうな」
ヒャンの答えに頷くと、ソンドはさも可笑しげにくつくつと嗤い始める。この世は実に簡単だ、そう言っているような、不敵で嫌な笑いだ。
そして、「ああ、」と思い出したように再び横目でヒャンを見た。
「大儀であった、ヒャン。そなたが産んだ子は、この紫微国を三景の覇者に導く子だ。この功績は何にも代えがたいぞ」
口の端を吊り上げ、鷹の目を細めてうっそりと嗤う。
「ギテが戻り次第、赤子の行方を探させよう。大事な天命の子だ。ここで失うわけにはいかない」
ああ、やはり。
ソンドにとっては、本当にそれがすべてなのだろう。ここに至るまでのことも、子を守るために泣く泣く送り出したことも、ソンドにとっては気に留めるようなことではないのだ。
ヒャンはその言葉に何も返さず、ただ目を伏せ、両手を握りしめるだけに留めた。
指先が冷たい。体が重い。息が上がる。
本音を言えば、すぐにでも横になって休みたい。けれど、まだそうするわけにはいかない。
ギテに息子の行方を探させるというソンドを阻む方法が見つからない。野盗から守るために子を逃がした母として、その捜索を断るための正当な理由が思いつかない。
お産により、既にかなりの部分を消耗していることもある。思考を巡らせようにも、頭が重く、気を抜けばすぐに濃い靄の中に引きずり込まれそうになる。
一番いいのは、野盗にも、紫微国の兵にも見つからずに寺の外へ抜け出し、追手にも届かない場所まで無事に逃げきってくれることだ。だが、そうであってほしいと願う気持ちとは裏腹に、時を追うごとに不安が増していく。
「大王様―――……!」
しばらくして、ギテがやって来た。
ヒャンは体も頭も動かせぬまま、やって来たギテが、どうしてか即座にソンドの前に膝を折って首を垂れるのを、ただ力なく眺めていた。
「大王様、私は死に値する罪を犯しました。どうぞ、私に死罪をお与えください……!」




