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第26話 通

対してチョンミョンは、さも当然というような顔で、軽く()んだままの赤い唇を動かす。


「ああ、まだ話していなかったか。この紫微国(しびこく)の王宮では、たとえ側室の子であっても、王后(おうごう)の元で育てるのが習わしなのだ」

「な……、それは、まことにございますか?」


初めて聞く話に、ヒャンは衝撃を受けた。


そんな話は今まで一度も聞いたことがない。それがまことなら、ヒャンの子は生まれてすぐに、この手を離れてしまうということだ。そうなれば、自らの手で慈しむことも、日々の成長を感じることも、何もできなくなる。


だが、思わず声を上げたヒャンに、チョンミョンはただ冷たく続けるだけだ。


「このようなことで嘘を言って何になる。これは紛れもない事実だ。よって、そなたの子も、生まれたあとは私の元で育つことになる」

「それでは、生まれてすぐに引き離されてしまうということではないですか! そのような話、私は聞いておりません!」

「だから今話しているのではないか」

「ですが……!」

「それが習わしゆえ、今さらそなたが何か言ったところで変わるものでもない。子を手元から離すのが惜しいという気持ちは理解できなくもないが、それが決まりゆえ、致し方ないであろう」


チョンミョンはふん、と鼻で息をつき、眉を歪めるヒャンを睥睨(へいげい)するように見つめる。


呆れを含んだように息をつくその様子に、ヒャンはぐっと奥歯を噛み締めた。握りしめた手は、知らず知らずのうちに、そこにいる子を守るようにお腹を押さえている。


それがこの国の習わしだというチョンミョンの言葉を理解できないわけではない。けれどそれは、生まれたばかりの我が子を奪われるにも等しい行為だ。


「……恐れながら、」


気付けばヒャンは、チョンミョンに対して食い下がる言葉を口にしていた。


「生まれてくる子は、私にとっても大切な子です。もちろん、慣習が大切であることは重々承知しておりますが、やはり、我が子は自らの手で育てたく―――」


だが、そう口にした途端、ばんっ、と一喝するように東屋の卓を叩きつける音が大きく空気を震わせた。瞬間的に、その場にいた誰もが口を閉ざし、そこから視線を逸らすように俯く。


「勘違いするな」


静寂の中に放たれた低い声と、冴え冴えとした冷たい目が、ヒャンに突き刺さる。


「私はそなたの意向を尋ねているのではない。これは「通達」だ。王后である私の決定に異を唱えるつもりか」

「ですが、王后様……!」

「くどい!」


再び、チョンミョンが卓に怒りを叩きつける。その音に、ヒャンはびくっと肩を震わせた。


あからさまに不機嫌な色を浮かべてそれを一瞥(いちべつ)したチョンミョンは、だが一転して、そこに薄い笑みを浮かべる。


「案ずるな、側室の子とはいえ、仮にも大王(だいおう)様の長子。我が子と差をつけて育てようなどとは思っておらぬ」

「―――っ」

「生母であるそなたが会いたいと言えば、いつでも会わせてやる。だが、我が中宮殿(ちゅうぐうでん)から出すことはできない。それが習わしで、決まりだからだ」


ヒャンは、瞬きすら忘れた瞳でチョンミョンを見つめた。


生まれる前から引き裂かれることが決まっている、子の運命―――。


今自分のお腹に確かにいるのに、まるで指の間からすり抜けていくように、子がどんどん遠く離れた場所へと行ってしまうようだった。


掴みたいのに、掴めない。留めたいのに、留められない。

それはまるで、ユノを失ったあの時のようだ。


ユノ様―――。


ヒャンは再びぐっと奥歯を噛み締め、両手を握りしめる。


守ると約束した。ユノと、自分の子を。


もし、子がチョンミョンの元に行ってしまえばどうなる。いつ、何が起きて、真実が知られてしまうか分からない。そうなれば、一番に危険に晒されるのは子の命だ。なんとしても、それは防がなければならない。


だが、どうやって。


ヒャンの瞳を覗き込むように卓に片肘をついたチョンミョンは、軽くこちらに顔を寄せるようにしてさらに続けた。


「ゆえに、そなたの子は必ず私の手元にくるということだ。そして、そなたがいかに手を尽くそうと、そなたの子が私の元を離れることは許されない」


断言するチョンミョンの目には、はっきりとした強い光が宿っている。この場でヒャンが何を言おうと、チョンミョンにはその姿勢を崩すつもりは一切ないだろう。


「通達」を受け入れることしか許さない、と優位な場所から見下ろすその目を睨むように見つめ、ヒャンは唇を引き結んだ。






ふん。


居室の円卓に気怠く腰かけていたチョンミョンは、それを思い出し、小さく笑った。


子はこちらに引き渡すことになるのだと言い渡した時のヒャンの色を失った顔、少しばかり胸のすく思いがした。


あの女が来てからというもの、王后である自分は尊厳と矜持を傷つけられてばかりだったのだ。ほんの少しの復讐をしたところで、誰も文句は言うまい。

いや、言わせない。


チョンミョンは自らの腹に触れ、そこを握りしめる。


ヒャン程ではないが、以前より膨らんできた腹には、少しばかり重さを感じる。


子は可愛い。内から小さく腹を蹴られれば、自然と心も綻ぶ。それは事実だ。


だが同時に、憎しみの象徴でもある。


長年、王后である自分を蔑ろにしてきたソンドに対して。

分不相応にその第一子を宿すヒャンに対して。

それ以外の、己を取り囲むすべてのものに対して。


この子は、復讐の武器だ。


この腹の子を世継ぎに、そしてこの紫微国(しびこく)の王にしてこそ、その復讐は達成される。

なんとしても、それを果たさねばならない。その邪魔をする者は、誰であっても許さない。


眉間の皺を深くしたチョンミョンは、外から戻ったホン尚宮が一礼するのを見て、手をあげた。

風を送るため、周りで団扇をあおいでいた女官たちが、それを受けて下がっていく。


「それで、どうであった」


女官たちが退くのを待って視線を向けたチョンミョンに、ホン尚宮は僅かに頭を下げ、(おごそ)かに告げる。


「王后様のお考えの通り、ヒャン()様は大王様への謁見を願い出られたそうです」

「ふん、やはりな。この私に抵抗しようとしたところで、あの女にできることなど、たかが知れている」


鼻で笑うチョンミョンに、だがホン尚宮は少し声を低めて続けた。


「ですが、よろしいのでしょうか」

「何がだ」

「大王様は、その、ヒャン妃様のお子が生まれることを(こと)(ほか)心待ちにされているご様子。もしや、ヒャン妃様のお話をお聞き入れになるのでは……」

「はっ、そのようなこと、まこと起きると思うか?」


ホン尚宮の言葉に、チョンミョンは笑い、愉悦に目を細める。


「あの方は、基本的にこちらのことに関心をお持ちではない。望んでいるのは、あくまでヒャン妃が生む天命の子だ。その天命の子とやらが生まれさえすれば、他のことには口を出されぬだろう。ヒャン妃が何を願い出ようが、関係ない話だ」


王后である自分や後宮のことなど、どうでもいいというような姿勢に、今までは散々煮え湯を飲まされてきた。だが、今はそれが逆に助けになっている。皮肉なものだ。


「どのみち、ヒャン妃の子は私の手元にやってくる。そうなれば、子の命は我が手に落ちたも同然。事故、病、どのような形に見せかけたとしても、この手にあればその命を奪うことなど容易いということだ」


喉の奥で静かに笑いながら、チョンミョンは再び腹に手を触れる。それに呼応するように、腹の子が小さく動いた。


今後何がどうなろうと、世継ぎの母になるのはこの私だ。


それが天命の子とやらであろうと、この腹の子より先に生まれた者であろうと、その地位に相応しい者は他にいない。いてはならない。


なぜなら。

この紫微国の王后は、私だからだ―――。





「―――……っ」


扉の外に控えたとして、その声がまったく聞こえなくなるわけではない。

今なされた会話に小さく身を震わせる者がいることに、中にいるチョンミョンもホン尚宮も、当然のことながら気付くはずもなかった。


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