第12話 抗
牢をあとにしたヒャンは手近なものをまとめ、急いで殿閣を出た。
今夜は満月で、夜半といえどもかなり明るい。隠れる場所もない表の街道を走れば、すぐに追っ手に見つかってしまう。特に、馬で追われればひとたまりもない。
ヒャンはユンファや数人の侍女と兵を連れて裏の山から南に抜け、波止場から船に乗って離れる道を取ろうとしていた。少々遠回りになり、足場が悪い山道では時間がかかってしまうが、今は人目につかない道の方が動きやすい。
山道に足を滑らせたユンファの腕を取り、辺りを見回しながら先を急ぐ。息が切れて、胸が焼けるように熱い。すでに体は重く、気を抜けば足がもつれそうになる。
ヒャンは先を急ぎつつ、後ろを振り返った。どれほど進んだのか、首長の殿閣は遠く木の陰に隠れて、見えなくなっている。
大きく息を吸って、ヒャンは呼吸を整えた。腕に抱えた荷を持ち直し、再び前を見据えて足を動かしかける。だが。
ヒャンははっと息を呑み、そのまま動きを止めた。背後の木々の向こうに、松明の小さな火がちらちらといくつも揺れているのが見える。
いつの間に近付いてきていたのか、追っ手がもうすぐそこまで迫っているのだ。
「首長妃様、お逃げください!」
兵が鋭い声を上げ、松明が揺れる後方の木々に向かって太刀を抜く。
身を翻してヒャンが足を進めかけたのも束の間、すぐに甲高い弦音が響き、幾本もの矢が放たれるのが分かった。どっ……と重い音を立てて、そばにいた兵が倒れる。立て続けに放たれた矢が、雨のように次々と地に突き刺さった。
「やめよ」
唐突に、感情の読めない声が辺りに響き渡る。弓を構えた兵を制するように片手を挙げて姿を現したギテが、ヒャンの前で足を止める。
「奥方殿」
「……チャン・ギテ将軍………」
苦しそうに呟いたヒャンは、松明の火が揺れるギテの姿に眉を歪めた。
ギテは自分を囲むように太刀を向ける光海国の兵と、ヒャンを庇うように立ちはだかるユンファや他の侍女にゆっくりと目を走らせ、顔色一つ変えずに短く言った。
「大王様がお呼びです。こちらへ」
「―――……っ」
ギテの言葉に身を強張らせ、ヒャンはぐっと唇を噛みしめた。
先程見えたユノの姿と、必死な言葉が脳裏に浮かぶ。こぼれそうになる失意を抑え、静かに息を整えると、ヒャンは鎧を纏ったギテに目を向けた。喉に力を込め、ゆっくりと口を開く。
「……大王様が、この私に何のご用でしょうか?」
「それは私には図りかねます。ただ、大王様がお呼びだとお伝えに参った次第」
「私には大王様の元へ伺う謂れなどございません。兵をお引きください」
「奥方殿、勘違いなされませぬよう―――」
無表情のまま、淡々とした、しかし有無を言わせぬ口調でギテが続ける。
「これは王命にて。大王様の命に逆らうことは、何人たりとも許されませぬ。さあ、参りましょう」
半身を引いて道を空け、来た方を指し示すギテに、ヒャンは掌を握りしめた。
どうにかして、この場を切り抜ける方法を―――。
必死に考えを巡らせるが、ギテを退かせるだけの十分な理由が見当たらない。
ヒャンをひたと見据えていたギテは、一向に動こうとしないヒャンから周りの兵に目を移した。
「何をしている。早くお連れしろ」
「は!」
そばにいた兵がたちまちヒャン達を取り囲み、襲い掛かってくる。取り押さえられた光海国の兵の呻き声と、侍女の悲鳴が上がる。
「おやめください!」
両脇から腕を抑える手を振り払い、ヒャンが鋭い声を上げた。
「分かりました、お召しに従いましょう。この者達への手出しは無用です。お放しください」
ヒャンの言葉に、ギテが兵に頷く。解放された者達を見て、ヒャンは詰めていた息をほっと吐き出した。
「大王様がお待ちです。参りましょう」
「……分かりました」
「ヒャン様!」
「首長妃様……!」
後ろで叫ぶユンファや兵達が見つめる中、ヒャンはギテと兵に囲まれ、来た道をソンドが待つ殿閣へと戻って行った。
少し前の騒ぎが嘘のように、辺りは不気味な程に静まり返っていた。
見慣れているはずの殿閣の風景が、まったく異質の影を帯びているように感じる。
ヒャンは、ギテが先導する後を、ソンドがいるらしい殿閣に向かった。先日、ソンドが光海国を訪れた際に居室として使用した場所だ。
歩くたびに僅かに風が動き、柱に燈された灯りがじじ……っと揺れる。ゆらりと歪む影が、まるで嘲笑うかのように壁に躍る。
気を抜けば襲い掛かってきそうな不安に呑み込まれないよう、ヒャンは胸元を押さえて呼吸を整えた。そこには、先程ユノから預かった首飾りがある。
「奥方をお連れしました」
背を向けて窓際に立つソンドに、ギテが厳かに告げる。ヒャンは震えそうになる足を叱咤し、ゆっくりと中に入った。
「思ったより早かったな。そなたは下がれ」
「は」
ギテの気配が遠のき、ソンドと二人きりになる。
振り向きざまにヒャンの姿を認めたソンドは、笑むように目を細めた。荷を抱え、身軽な装束に身を包んだヒャンを見つめ、ふん、と可笑しそうに鼻を鳴らす。
「浅はかなものよ。我が手から逃れられるとでも思うたか」
「―――……っ」
「まあ、よい」
そう短く笑うと、黙したまま睨むような目を向けるヒャンに近づき、ソンドはおもむろに手を伸ばした。顎を掴み、その顔を上げさせる。
「結局、そなたは私の手に落ちるのだ。ここで、こうして―――」
「放してください」
顎を払って顔を背けたヒャンを、ソンドは再び強い力で掴み、己に向けさせる。
「そなたに拒む権利などない。あるのは、私のために三景統一の子を産むことだけだ」
低く笑うソンドを、ヒャンは睨み上げた。頭の中で、ユノの言葉が響く。
狙いはすべて自分だと言っていた。自分の天命を利用するために、ソンドはすべてを仕組んだのだと。
ヒャンは怒りで震えそうになる喉に力を込め、ゆっくりと口を開いた。
「……私が、大王様のために、本当に天命を果たすとお思いですか」
「何だと」
僅かに眉根を寄せたソンドを睨みつけ、ヒャンは渾身の力を込めてソンドを突き飛ばした。足元にとさりと小さな音を立てて荷が転がる。それには見向きもせず、ヒャンは即座に懐から小刀を取り出し、その研ぎ澄まされた切っ先をソンドに向けた。
硬く冷たい感触が、握りしめた掌に伝わる。肩で息をするヒャンに合わせて、その刃先が細かく震えた。
小刀を突きつけるヒャンを見下ろし、ソンドはただ短く鼻で笑う。
「か弱き女子の身で、私に刃向かうか……。だが、そなたにできることなど、たかが知れている」
「できることが少なくとも、我が身を守ることはできましょう」
そう言うと、ヒャンはソンドに向けていた切っ先を自らの首筋に押し当てた。鋭く尖った刃が喉に食い込み、朱い血が白い肌に滲む。
「私は、ファン・ユノの妻。夫以外の者の手に落ちるくらいなら、命など惜しくはありません」
「―――――ほう?」
ソンドの鷹のように吊り上がった眼がぎらりと光る。
「だが、そなたには天命がある。そなたの意志など関係なく、天命は必ず果たされるもの。三景統一の王母となるまでは、そなたは命を絶つことなどできぬ」
「夫ある身として人の道を守り、一生を添い遂げると天に誓ったこの想いを果たすためならば、天の神もお許しくださいましょう」
ぐっと押し付けた小刀が喉に食い込む。このまま横に引くか、さらに押し込んで肌を突き破れば、ソンドの手に落ちることは防げる。
―――約束してくれ。
ふいに、先程のユノの言葉が耳の奥に木霊した。思わず眉を歪め、だが、ぎゅっと強く瞳を閉じてそれを押し留め、ヒャンは決意を固めるように柄を握り直した。
「私は決して、大王様の思い通りにはなりません」
「……っく。くくく…。はははははは!」
突如、ソンドが身を捩るようにして笑い声を上げた。心の底から可笑しいというように、込み上げる笑いを噛みしめるようにして笑い続ける。
「……そうか」
ゆっくりとヒャンに向き直り、今度は射殺すような鋭い目つきでヒャンを見据えた。それまでとは全く違った重い声が、ヒャンの耳朶に突き刺さる。
「果たして、本当にそのようなことができるかな……?」
「……っ! 何を……」
ヒャンが息をつく間もなく、一気に距離を詰めたソンドが小刀を握るヒャンの手を掴む。首筋から切っ先を引き剥がし、手首に指が食い込むほどに強い力で、ヒャンの腕を締め上げる。そのあまりの強さにヒャンは声も出せず、緩んだ指からするりと抜け落ちた小刀が硬い音を立てて床に転がった。
「どうだ? これでも自らの力でどうにかできると申すか?」
「……っ、放し……」
「ふん、放してほしければ放してやろう」
どすの効いたソンドの声が耳元で響く。にいっと笑う三日月の口が、痛みを堪えるように引き絞った視界の端に映った。
ソンドはヒャンの腕を締め上げたまま部屋の奥に引き立てていく。足に何かが当たり、よろめいたヒャンの背をソンドはそのまま何かの上に放り込んだ。さらりとした感触が、ついた手の下に広がる。目を見開いたヒャンは自分がいる場所に気づき、大きく体を震わせた。
肩越しに振り返った顔に、乱れた髪がかかる。驚愕に染まる瞳を大きく見開き、ヒャンはソンドを見上げた。
ヒャンに目線を合わせるようにしてしゃがみ込んだソンドが、喉の奥でくつくつと嗤う。
「実に良い眺めだな。我が夢に繋がる天命を持った女人が、私の寝台に横になっているというのは……」
低い声で嗤うソンドの目が細められ、倒れ込んだヒャンの頭の先から体、足先までを舐め回すように見つめる。悪寒が這い上がり、ヒャンは全身の血の気が引いていくのが分かった。
ソンドは広がったヒャンの衣の上にゆっくりと手をつき、じりじりとその自由を奪っていく。
「そなたの天命を活かせるのはあの男ではなく、この私だ。つまらぬ義理など捨て、私のために三景を統一する子を産め」
「―――――」
うっそりと嗤うその顔に、ぞくりと背筋が凍る。髪を這う指がゆっくりと顎を伝い、首筋に触れ、耳元にかかったその生温い感覚に戦慄する。それでも、ヒャンは唇を噛みしめ、ソンドから顔を背けた。
「申し上げたはずです。私は天命よりも夫を選ぶと」
「ふん、まだ言うか。……ならば、教えてやろう」
そう言うと、ソンドはふいにヒャンの耳元に口を近づけた。そして囁くように低い声で嗤う。
「そなたの夫ファン・ユノは、もはやこの世の者ではない」
鼓膜に響いた言葉に、どくりと一際大きく鼓動が跳ねた。軋む首をなんとか動かして、ソンドを見上げる。変に息が上がって、からからに乾いた喉がはりついた。
そんなヒャンの様子を嘲笑うかのように、ソンドが目を細める。
「何をそれ程に驚く。そんなことは分かりきっていたことではないか。だからそなたも、別れの挨拶をするために先程牢まで参ったのであろう?」
それは―――。
違うと反論したいのに、はくはくと動く口からは呼気しか漏れない。そもそも、なぜソンドがそのことを。
「違うと言いたいのだろうが、事実は変わらない。―――ファン・ユノは、私がこの手で殺した」
「―――――――!」
瞬間、大きな音を立ててヒャンの瞳が凍りついた。震える手でソンドを掴み、押しのけるように腕を動かす。瞬くことも忘れた瞳に涙が溢れ、ゆらりと視界が大きく揺れた。
「……ユノ様……っ」
そんな、ユノがもうこの世にいないなんて。そんなことが信じられるわけがない。
「……ユノ様! ……ユノ様―――――!!!
次第に激しさを増すヒャンの抵抗を押さえるように、ソンドが馬乗りになる。
「呼んだとて、もう届かぬ。ゆえにそなたは、私の手に落ちるしかないのだ」
「ユノ様……! 嫌あ―――っ!!!!」
泣き叫ぶヒャンににたりと嗤って、その白い首筋を追っていたソンドの視線が、ふいに胸元で止まる。途端に、ぶちり、と大きな衝撃がヒャンの首に走った。咄嗟に目を向けると、ソンドの手に何かが握られているのが見える。
光を受けて輝いたのは、鴉の白玉が翼を広げる銀の首飾り。それは、最後にユノから預かった、大切な―――……。
ヒャンが必死に指先を伸ばそうとする中、ソンドは首飾りを掴んだ手を寝台の外に突き出した。手を離れた首飾りが宙を舞い、からんと乾いた音を立ててそのまま見えなくなる。
見開かれたヒャンの瞳から、大粒の涙がこぼれる。声にならない悲痛な叫び声が、殿閣に響き渡った。
―――――――………




