第13話 別
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白み始めた空が、夜の終わりを告げている。
這い出るようにして寝台を降りた足に、冷たく硬い感触が当たる。薄闇に青白く映るその首飾りを拾い、そっと胸に抱いた。
熱を持ったように体が気怠く、少し動いただけで息が上がる。
ソンドの居室を抜け出たヒャンは、壁に身を預けるようにして体を支えた。自らの意志に反して砕けそうになる腰に反吐が出るほど気分が悪くなり、四肢や体を何度も搔きむしる。
ヒャンは壁を伝いながら、重い体を引きずるようにして一歩一歩前へと進んだ。
ともすればふらつく足をなんとか踏ん張り、懸命に歩を進める。荒い呼吸を繰り返す胸が痛み、喉が熱く焼ける。
心にあるのはただ一つ、ユノのことだけだ。
あの温かな手がもうこの世に無いなんて、信じられない。
今まで、ユノが約束を違えたことは一度も無い。そのユノが、必ず迎えにいくと言っていた。きっと、その約束を守ってくれる。だから、ソンドの言葉など絶対に信じない。
ヒャンはよろけそうになる足を叱咤し、外へと伸びる回廊の先を見据えた。この向こうに、ユノがいるはずの牢がある。
力の入らない手に、それでもきつく握りしめた首飾りの重さが、下を向きそうになる心を奮い立たせる。
道が開け、牢を囲う塀が見えてきた。そして。
ふいに、ヒャンは足を止めた。
牢の入口は、もうすぐそこに見えている。そこに、中から姿を現した者がある。
何の感情も見えないその双眸に鎧を纏った身を翻して、牢から出てきたその男が後ろを振り返る。その目の先に、何かを運び出す数人の兵の姿が続いているのが見えた。
強張った喉が、ひくりと音を立てる。
ヒャンは、氷の手で撫でられたように、胸の奥がすう……と冷えるのを感じた。
兵が進むたびに重そうに左右に揺れるそれは、ちょうど人一人分の長さ。少し離れたここからでも、筵がかけられているのが分かる。
どくり、と胸の鼓動が不自然に跳ね上がった。
近くで、今にも消えそうな小さな火を残した篝火が、最後の力を使い果たすようにぱきり……と音を立てて崩れる。
見たくない。見てはいけない。
そう思っているのに、瞬きすることさえできない瞳が、徐々に大きく見開かれていく。そこに縫い止められたように、盛り上がった筵を捉えたまま離さない。
そんなこと、あるわけがない。きっと何かの間違いだ。
そう言い聞かせるのに、体からはどんどん血の気が引き、底冷えするほどに熱が下がっていく。意に反して、がちがちと歯の根が合わない。
振り返ったギテの前で足を止めた兵が、筵がかけられたものを持ち直した。そのひょうしに、筵の中から何かが落ちる。
ぱたりと落ちたそれを見て、ヒャンは息を詰めた。
ゆらりと無意識に出た足は、鉛のように重い。
時が止まったように、ヒャンはただそこを凝視した。見開いたままの瞳から、つ……と涙が伝い、頬に冷たい筋を描いていく。
小さく震えた唇がその名を紡ぐが、短い息が漏れるばかりで音にならない。
力なく垂れ下がっているのは、漆黒の腕。僅かに見える指先が朱い血で汚れているのが、まだ完全に闇が晴れきっていない中でもはっきりと分かる。
握りしめた首飾りが、掌に食い込んだ。前へと進む力をくれるものは、もはや手の中の小さな存在しかない。
ふらり、ふらり、と歩み出る度に、涙が頬を伝っていく。
ふらつきながら現れたヒャンに、ギテはその静かな双眸に僅かに剣を宿らせた。左に手にした太刀の柄に右手を伸ばしかけ、だが途中でその動きを止めると、ゆっくりと視線を動かした。兵が運ぶものに目をやったギテは、ヒャンを阻もうと同じように太刀を構えた別の兵を片手で制し、それを地に下ろさせる。
ギテに目を向けることなく、ヒャンはかくりとそれの前に膝をついた。
違うと信じたいのに、喉に力を込めても堪えきれない嗚咽が、次第に大きくなっていく。垂れたまま動かない手にのろのろと視線を這わせ、血に濡れたその手を両手で包み込んだ。
「……っ」
どうしてだろう。よく知っている手は、本当に温かくて。こんな風に、地に投げ出されるような手じゃないのに。
なのに、この手は確かにあの人のものだと頭のどこかが告げている。
ヒャンは握っていた手を離し、かけられた筵にそっと触れた。指を這わせ、その端にそろりと指の先をかける。震える手に力を込め、ゆっくりと筵を捲った。
「……はっ、……は……っ」
衝撃に息が継げず、短く繰り返すしかできない浅い呼吸が、内から胸を苦しめる。
直視できない現実に目を向けることができず、拒むように眉を歪めて首を振る。その瞳から、ぱたり、ぱたり、と涙が落ちた。
「……ユノ……様……」
そろそろと視線を落とした先に、硬く瞼を閉じたまま動かないユノが映る。その端に、血の気を失った口元が大量の血で濡れているのが見えた。
からん―――と、握りしめていた首飾りが手から離れる。
ヒャンは紙のように白い顔に手を伸ばし、頬に触れた。氷のような冷たさが肌に伝わる。堰を切ったように涙が溢れ、何も見えなくなる。
「ユノ様……!」
約束したのに。預けるだけだと。あとで必ず返してもらうと、言っていたのに……。
冷たい頬を温めるように、両手を這わせる。指が震えてしっかりと包むことができない。
「どうして……どうしてこんなに……、冷たいのですか………?」
瞬く度に落ちる涙が、血で染まった漆黒の衣の上に消えていく。
「……ユノ様……、ユノ……様……!」
いくら呼んでも、返事は返ってこない。ユノはもうこの世の人ではない、と言ったソンドの言葉が、冷たく脳裏に蘇る。でも。
「……違う! 違う……! そんなはず―――……!」
ヒャンはユノの存在を確かめるようにして、頬に触れていた手を首、襟元へと動かした。血を被り、もはやそれとは分からない銀の刺繍に指をかける。力の入らない手で精一杯に襟を握りしめ、胴を揺さぶった。
「………ユノ様……!」
襟を掴む手が、乾き切っていない血に染まっていく。
止め処なく、嗚咽が漏れる。溢れる涙が視界を覆い、刃を突き立てられたようにぎりぎりと胸が痛んだ。
腰を折り、血に濡れたユノの首に腕を回す。冷えた体から消えていくものを繋ぎ留めるように、ヒャンはその体を掻き抱いた。
悔やんでも、悔やんでも、悔やみきれない。
なぜ自分は、あの場を離れてしまったのか。最期まで共にいようとしなかったのか。
最後のあの時、ユノはどんな顔をしていた。どんな声をしていた。
掻き消えそうになる最後の姿を心に刻み留めるように、必死に思い描く。
消えないで。逝かないで。忘れたくない。失いたくない。
なのに、指の間からこぼれ落ちていく―――。
白んだ空から、ぽつり、と雫が落ちた。
硬く閉じられたユノの瞼に、ぽつり、ぽつり、と重なる滴が、二度と開かれることのない睫毛を濡らし、まるで涙のようにこめかみへとゆっくりと滑り落ちていく。
ぽつぽつと降り注ぐ雨粒はやがて大きくなり、ヒャンの長い髪を濡らして、血に染まるユノの体を洗い流していく。
ざあっと激しく降り始めた雨に、すがるような悲痛な慟哭は掻き消されていった。
事実は往々にして勝者によって捻じ曲げられるもの。
真実がどこにあるかなど、誰も気にはしない。ただ歴史に残った事項のみが、事実として後世に語り継がれることになる。
『南の獅子と称された光海国の首長ファン・ユノは、無条件での降伏を認めた紫微国の大王クァク・ソンドに対して突如反旗を翻し、謀反を企てる。だが、妻ヒャンの告発により謀反は未然に防がれ、自らの企ての失敗を悟ったファン・ユノは自害。大王クァク・ソンドは命を救われたとして、本来ならば夫の連座に問われるべきヒャンに情けをかけ、自らの側室として新たな人生を歩むことを命じる』
光海国と紫微国にまつわる争いの終焉は、このように語り継がれることになる。
こうして、光海国の名は歴史の表舞台から姿を消した。
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