下
昨日の夜の出来事を、よく覚えていないところもバカだと思った。
手練れさんの優しい手の温もりと、いくつかの言葉しか記憶に残っていない。
いつものような気取った朝食を作る元気はなくて、今日は袋から出しただけのバターロールとルイボスティーのみがテーブルの上に並んでいる。
意識高いと思われたくて買ったルイボスティーは、体には良くても味の癖が強い。
いつもならハムやら野菜やらを挟んで、彩り良くカフェ風にアレンジさせていたバターロールは、温められてもいないし、なんだかやけに硬い。味も随分そっけない。
モシャモシャとパンをかじってはため息をつき、クセの強いお茶を流し込んではため息をつき。
「生姜焼きか……」
大輝が食べているところを、見たことがなかった。
いつもパスタとか、キッシュとか、男の人も大満足のボリュームサラダとかそんなのばかり作ってきたし、外食でも選んでいたから。
素のバターロールはなかなかすすまなくて、半分になったところでお皿に戻される。
ため息をまた吐き出したところで頬杖をつくと、部屋のちらかり具合が目に入った。
自撮り画像を上げるのに、しょっちゅう同じコーデでは格好がつかないから、高見えのプチプラ着回し力強め服を大量に買って、しまいきれずにそこらへんに積み上げてを繰り返してきたから。
服の山はでこぼこと並んで、まるで連峰のよう。
プチプラの高見え連峰が、涙でしわりと霞んでいく。
昨日あげてもらった部屋とは、なにもかもが正反対。
手練れさんの家はきれいだった。殺風景なほどになにもなくて、スッキリしていた。
部屋の雰囲気からして、独身なのだと思う。
けれどそれがなんだというのだろう。
手練れさんが優しいのは、きっと人生のいろいろを乗り越えてきたからで、あの角刈りだって彼女の美学の一つに違いないのだ。
自分の薄っぺらさが情けなくてたまらなくて、ため息と一緒に涙が溢れて、テーブルの上に落ちていく。
体の芯が震えて、どうしたらいいのかわからなくなっていく。
過去は消せない。あのこっぱずかしいSNSの投稿も、会社のものだから勝手に消去するわけにはいかない。
どうしたら大輝にこの気持ちを伝えられるのか、伝えられたところで許してもらえるのかもわからない。
震えながら息を吐き出し、目をぎゅうっと閉じて、涙を絞り出していく。
なんの音もしないリビングで、彩香はバターロールと一緒にカピカピに乾いていく。
いつもなら家を出る時間をすっかり過ぎた頃、やっと涙は止まった。
時計を見ても気力がわかなかったけれど、会社に連絡はしておくべきだろう。
遅刻するのか、休むのか。今日、自分はどうすべきなのか。スマホを手に取って、ぼんやりと考える。
考えていると、ふっと、昨日の夜、最後に言われた言葉を思い出した。
「あのね、もしうまくいかなくても、やるべきことをやればまた前に進めるよ。ちゃんとやった自分になれば、失敗だっていい経験になるからね」
ハスキーな優しい声が心の中にこだましていって、彩香は背筋をゆっくりと伸ばしていった。
「ちゃんとやった自分に……」
「とりあえず三日間の有休」をとって、彩香は動き続けた。
まずはドラッグストアに走ってゴミ袋を大量に購入。
しょーもない買い物の山を片付け、服を捨て靴を捨て、健康にいい食品類を捨てて断捨離を進めた。
スマホを手にとってはSNSをチェックしたい誘惑と戦い、何度も勝利を収めた。
レシピを調べて、食材を買ってきて、生姜焼きを何度も作って、味見をした。
百円均一の店で買ってきた使い捨ての弁当箱に生姜焼きとおにぎりを入れて、いざ出陣。
修羅場の現場である大輝の家の前に、帰宅推定時刻頃にたどり着き、インターホンを押す。
返事はなく、では、しばらく待たなくてはいけない。
静かな住宅街の夜はほとんどなんの音もしない。
かすかに虫の声が聞こえるくらいで、彩香の心を穏やかに沈めていく。
もし今日会えなくても、手紙を書いて入れてきている。
一時間待っても戻ってこなかったら、ドアノブにひっかけて帰ると決めていた。
もしも、新しい彼女を連れて戻って来たら、その時は笑顔で去る。
どうしても謝りたかったと言って、復縁を乞うような真似はしない。
私は、優遇されて当たり前じゃない。
そう理解するまでに、あまりにも時間がかかり過ぎた。
後輩に追い抜かされた、してやられたなんて考えて、勝手に敗北感に打ちのめされて。
あんなに仕事できる女を気取っていたのに、負けたと思った瞬間、恋人にすがりついた。
結婚しようって言ってくれた人なんだから、優しくしてくれるのが当然だなんて、思いあがっていた。
恥ずかしさに打ちのめされるという荒行に、彩香は耐えた。
ちゃんとやった自分になる。
恥ずかしくても、悔しくても、みっともなくても。
ちゃんと謝って、態度を改めて、過去を消せなかったとしても、これからどうすべきか考えなきゃ。
手練れさんはこう続けた。
人生は、まだ続いていくんだから――。
「あやちゃん」
聞きなれた声に、おそるおそる顔を上げていく。
アパートの廊下に、大輝は一人で立っている。
ゆっくりと顔を上げた彩香の様子を見て、驚いた顔をしてみせた。
「どうしたの」
「謝りたくて」
部屋の前で待っていたしょんぼりの権化をどう評価したのか、大輝は部屋の鍵を開けて、彩香に入るよう促した。
電気をつけて、小さな二人用のテーブルまで進んで、カバンを置いて、彩香に座るように告げる。
大輝も向かいに座って、彩香は生姜焼き入りの袋をテーブルの隅に置くと、まず頭を下げた。
「本当に、調子に乗ってて……。落ち込んでた反動もあったと思うけど、浮かれちゃって、大輝のこと大切にしなくて、本当にごめんなさい」
天板とガッツリ向き合ったまま、彩香は続ける。
「大輝の言う通りだった。全部、大輝の言う通りだった。私、すごくしょうもない人間だった」
「それは言い過ぎじゃない?」
「ううん、本当に恥ずかしい。自分のことばっかりで、もう、全部わたしわたしわたし! だったから。大輝に許してもらえなくても仕方ないって思ってる。だけど謝らずに逃げたら、私は本当にサイテーになっちゃうから、だから、ごめんね。すごく勝手だけど、謝らせてください。本当に失礼なことばっかりして、勘違いしちゃって、嫌な女だった。いっぱい不愉快な思いをさせて、ごめんなさい」
甘えてました。軽んじてました。
思いつく限りの反省を続ける彩香の後頭部を、大輝の手が触れる。
「わかったから、もういいよ」
「でも……」
「顔あげて。その袋の中身、なに?」
彩香はゆっくりと顔を上げて、目の前にいる大輝を見つめた。
「いい匂いがするけど」
「生姜焼き作って来たの」
すると大輝は小さく笑い声を上げて、優しい微笑みを浮かべた。
「俺が好きなの、覚えててくれた?」
彩香はつられて笑顔を作ったが、はたと気が付いて、視線を逸らし、こう白状した。
「手練れさんが教えてくれたの。ダイくんは、生姜焼きが好きなんじゃないかって」
あの夜の出来事について包み隠さず話すと、大輝は驚いたようだが、最後にはニヤリと笑ってこう答えた。
「言っただろ、素敵な人だって」
「うん」
心の中で角刈りの女神に感謝しながら、彩香は決意を固めていく。
「私、手練れさん目指して頑張る。ダイくんが素敵だなって思ってくれたら……」
いや、違う。言葉を探して、改めて、彩香はつづけた。
「素敵だって思ってくれたら、嬉しい」
控えめな結論をだした彩香に、大輝は大きく頷いている。
「角刈りにするのはまだ早いんじゃない?」
こんな言葉に二人は朗らかに笑い合って、生姜焼き弁当をテーブルの上に並べてた。
大輝の評価はまずまずの七十五点で、ほどけかけていた二人の赤い糸を、再び優しくつないでくれた。