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泥の町  作者: 山口 にま
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第十二話 君は早水夫人を知っているか

 年明けの最初の週末、美咲は迷うことなく多聞の部屋を訪れる。部屋のドアが閉まった瞬間、二人は互いの唇を求めあった。美咲は多聞の背中に自分の腕を回す。玄関に立ったまま、二人は長いこと抱き合った。

 多聞は美咲をリビングに導き、コートを脱がせ、ベッドに連れて行った。美咲は多聞の手を取って首を横に振る。

「ちょっとそれは・・・・」

美咲は多聞の下から逃げるように身を起こす。多聞はベッドの上に腰を下ろして美咲を後ろから抱きしめ、首筋に唇を当てながら

「何でお預けを食らわす?」

「ここから先はどうも日本では法律違反らしいよ」

「法律違反・・・・」

多聞が絶句していると、美咲は多聞の方を向いて、彼の服の中に手を入れた。

「私が銀座で多聞と久しぶりにあった時、どう思ったと思う?」

「どう思ったの?」

美咲は多聞にもたれ掛かる。そのまま二人は、今度は美咲が上になる形で再びベッドに横になる。

「すっごく女の扱いが上手そうな人だと思った」

「俺の上に来て」

多聞は美咲を自分の上にまたがらせた。

「想像通りだったわ」

「何が?」

「多聞の体」

「それは良いことなの?悪いことなの?」

「良いことよ」

美咲はいつの間にか多聞のシャツのボタンを外し、その胸筋に指を這わす。美咲は指の動きを止めたかと思うと

「今日はもう帰るわね」

と言って立ち上がって服を整えた。はいさようならと多聞が言えるはずもない。多聞の欲望は上り坂だ。多聞は強く美咲の手首を掴むと乱暴に彼女を組み敷いだ。そして美咲の拒絶に構わず彼女の体を開いて行った。多聞は彼女のすべての場所に手を這わせ、唇を付けて行った。

 美咲は最後の理性を振り絞って、何とか口先だけで拒絶の言葉を言う。多聞が欲しくて気が狂いそうだ。美咲は彼が強引に自分の体に割り入って来る事を望んだが、そこは中学校の体育教諭である。多聞は名残惜しそうに美咲も体を手放した。


美咲が消耗しきって帰ってくると、健悟はテレビを見ながらビールを飲んでいた。

「俺も一緒に行った方が良かったかな?」

「ううん、家族だけで話したかったし、健君は来なくてよかったよ」

健悟には実家に帰ったことにしてあるのだ。美咲は健悟の視線を避けるようにして、

「お風呂に入って来るね」

「君、そんなネックレスを持っていたっけ?」

美咲はとっさに多聞から贈られたネックレスを手で隠す。

「前から持っていたけれど」

健悟はふうん、とだけ答えて、視線をテレビに戻した。


 寝室の明かりを消すと、健悟は当然の権利のように美咲のベッドの入ってくる。

「避妊して」

美咲は言った。

「夫婦なのに?」

「赤ちゃんはまだ早いから」

美咲は身を引いて、夫から離れる。健悟は白けた顔をしてしぶしぶ避妊具を取りに行った。

美咲はまだ多聞の愛撫を反芻している。目を閉じて自分の上にのしかかって来るのは多聞だと想像する。美咲は強く健吾の背中に腕を回した。常よりも激しく身をくねらせる妻を見て、健吾は男としての自信を得るのだった。


 健悟はシャワーから戻ってくると言った。

「俺たちもそろそろ子どもを作ろうよ。年も年だし」

それだけはやめてほしい。子どもなんて作ったら、年がら年中守谷に行かされる。義姉たちと同じように笑顔を貼り付け台所に立ち、「おばさん」と呼ばれ年老いていく未来が目に浮かんだ。

健悟は更に言う。

「おふくろも心配しているし」

「何を心配しているのよ」

「何をって・・・・」

「私が子どもを産めるか心配しているの」

「まあそうだろうね」

「あなたのところ、ずいぶん失礼ね」

「失礼ってことはないだろう。家族だもん」

ああ、もういい。もうたくさんだ。美咲が健悟に背を向けると、健悟は自分のベッドに戻り、寝息を立て始めた。

 多聞と触れ合ったあとはいつも満たされた気持ちになるのに、健悟との後は決まって険悪になり、別々のベッドで寝ることになる。健悟の横顔を見ながら、美咲は思う。

 幸せになるために結婚したのにね。


 ある晩健吾がいつになく上機嫌で帰って来た。

「来週の土曜日空けといてよ」

健悟の言葉を美咲は重い気持ちで聞いた。

「また守谷?」

美咲が嫌な顔で聞くと、健悟は笑って違う違うと否定する。

「午後からパーティーがある。君も来てくれ」

「パーティー?」

健悟は勿体ぶった口調で

「物理学協会の受賞パーティーさ。僕の研究チームが受賞してね」

「あれ?健君がチーム主任じゃなかったっけ?」

「まあね」

健悟はここで胸を張る。

「良かったね!勿論私もパーティーに行くよ」

美咲は健悟に抱きついた。


土曜日の昼下がり、健悟と美咲は揃って九段のパーティー会場に乗り込む。美咲は薄い灰色の和風だ。更に黒い帯で全体をきりりとまとめ上げた。美咲は地味な色合いが却って自分の若さを浮き上がらせる事が分かっている。

会場には守谷から健悟の両親も来ていた。姑は薄桃色の和服だ。今日の姑は嫌味はない。息子の栄誉が嬉しくってならない様子だ。


健悟が壇上に登り、チームを代表して賞牌を受けた。そのまま短いスピーチ。いつも不機嫌に美咲を指図する姿とは全く違う。細い体も相まって若く駆け出しの研究者みたいだ。

乾杯に次ぐ立食パーティー。美咲は歓談する我が夫のそばで微笑んでいる。妻の美咲です、去年結婚したんですよと紹介を受けながら。


美咲は最初のうちこそ内助の功豊かな妻を喜んで演じていたが、話し相手のいないパーティーに次第に飽きて来た。

まだ美咲がQ国大学に在籍していた時分は、学会に後のパーティーで自らが飛び回って各大学、学研究所に顔を売ったものだ。互いの研究テーマを話し、情報交換も抜かりない。

今日のパーティーでは顔を売るわけにはいかない。顔なんて覚えられて多聞と一緒のところを見られたら。

主役でなければ脇役でさえないパーティー。透明人間になった気分だ。


美咲は回って来たウエイターから水割りを受け取った。飲むと臓器が冷えて行った。

クー先生の釈放は心で思っておけば良かった、美咲は思った。

Q国の学会から放逐されなければ今頃私は学会で華々しく研究成果を発表し、将来を嘱託された学者でいれたのに。海外で研鑽を積んで、日本に逆輸入される形で母校に就職。その計画がいつから破綻したのだろうか。

クー先生は行方不明になり、弟子として私は黙っていられなかった。Q政府に一矢報いてやりたかった。しかしその結果は?Q国の報復はどきつかった。クー先生は釈放されず、政府に楯突いた私は入国禁止処分だ。私のキャリアはここで終わり。


さっきから肋骨に帯板が当たって痛い。美咲はここから抜け出して外の空気を吸いたいと思った。学者としてに地位を剥奪された自分がなぜ他人の学者としての栄誉を称えなければならないのか。何かの罰ゲームか。健悟といるといつも罰ゲームばかりだ。


グラス片手に研究秘話を披露している健悟の背後に近づき、美咲はそっと耳打ちする。

「ごめん、気分が悪くなっちゃった。先に帰っていいかしら」

健悟は普段の夫に戻り、不機嫌な顔を美咲に見せた。

「もうちょっとで終わるから待っていてよ」

「でも二次会もあるんでしょう?私は行かないから健くんだけ楽しんで来てよ」

健悟がなお言い返そうとすると、

「おいおい速水君もついにノーベル賞に王手がかかったな」

と初老の男が話しかけて来た。

「大竹教授のご指導の賜物です」

と健悟はへりくだる。健悟は大竹に美咲を紹介した後、美咲に

「大学院の教授だ」

と説明する。師弟関係にある二人が話し込んでいるのを潮に美咲は健悟から離れた。地下鉄の駅に着いてから

「ごめん、本当に気持ちが悪い。盾と花束は私が持っていくから健君は楽しんで来て」

と夫にメールを打った。

時計を見るとまだ午後五時。夜は始まったばかりだ。楽しいことはこれからだ。美咲は多聞にメールを打った。


「夜にそっちに行っていいかしら みさき」

多聞は陸上部の指導を終えたところだった。更衣室で返信する。

「いいよ。何時に来られる?」

「時間がちょっと読めないの。多聞の家で待ち合わせでもいい?」

「了解」


 早々に生徒を帰らせて、多聞が部屋で待っていると、美咲はやって来た。灰色の和服を着て、大粒のダイヤの指輪を光らせている。

「結婚式でもあったの?」

美咲は首を横に振った。

「どうする?飯でも食いに行くか」

「今はおなかがいっぱい。後で行きましょう」

美咲は途中の駅で買って来た手土産を手渡した。床に置いた紙袋には花束が入っている。美咲からは香水の匂いやら酒の匂いやら整髪剤やらいろんな匂いが匂ってくる。

「のどが渇いちゃった。グラスを借りるわね」

美咲は持ってきたペットボトルの飲料を二つのグラスに注ぐ。

「飲んでいるの?」

「少しね。パーティーだったの」

「何の?」

美咲は答えなかった。その代り不機嫌な顔で

「退屈だったから、途中で抜け出してきちゃった」

「ま、そういうこともあるさ」

多聞が美咲の肩を抱くと、美咲はちょっとうれしそうな顔をした。笑顔を消した後は、口はへの字だ。

「何かあったの」

美咲は多聞の問いには答えず、自らベッドに上がり、体を横向きにして多聞に背を向けた。呼吸が乱れているのは泣いているせいだ。


 美咲はしばらく一人で静かに泣いていたが、気持ちが収まったらしく涙を拭ってから

「夫が物理の世界で大きい賞を取ったんだよね。今日はそれの受賞パーティーだったの」

多聞はどう返答すべきが分らず黙っていた。

「パーティーで夫はみんなに囲まれてお祝いさせれ、私まで知らない人たちにおめでとうって言われて、めまいがして来ちゃって先に帰らせてもらったんだ」

美咲は横になったまま、顔を手で覆い、

「私って本当に馬鹿だよね。私だって研究を続けたかった。学会で発表を控えた論文だっていっぱいあった。それなのに・・・・」

美咲は震える声で、

「特に去年は日Q国交正常化の節目の年で、共同事業も目白押しだった。日本サイドのスタッフにも半分決まりかけていた。・・・・良いの、自分が蒔いた種だもん。いい年して学生運動の真似事なんかして、Q政府を怒らせて」

多聞はベッドから身を起こし、美咲に毛布をかけてやった。言葉を選びつつ、

「デモさえしなければ、今頃美咲はQ国と日本を行き来して、学会の寵児だったのかも知れないのにね」

多聞の言葉を美咲は布団の中で頷いた。

「テレビにも出まくってさ」

「少なくとも悪くはない環境で研究は続けられた。Q国の農業支援のメンバーとして、それなりの職にもありつけたはずよ」

「でも人にクー先生のことを聞かれたら、どう答えるの?」

美咲は黙ってしまう。

「それとも、クー先生が釈放されたときに、何にもなかった顔で会いに行けるわけ?」

「研究室の仲間はみんな口先だけで心配していたんですよって言って、平気な顔で会いに行くわ」

美咲は噛みつくように言った。

「目の前のことだけ考えたら、見て見ぬ振りが一番利口だね」

多聞の言葉に美咲は大きく頷いた。

「ただ将来的にはどうかねぇ。お上には絶対に盾突かない学者どもか。クー先生だって、別に犯罪を犯したわけじゃないんでしょ?ネットで政府を批判しただけでしょ。そんな人をひっ捕らえて監獄にぶち込んで、学者仲間は黙っている。そっちの方がスキャンダルじゃないの」

「じゃあどうすれば良かったのかしら?」

「普通なら、大学や学会が政府に対して抗議文を出すんだろうね。抗議文一枚で政治犯が釈放されるわけはないけれど、何にもやらないっていうのは、対外的にカッコが悪すぎるよ。腹を見せた犬みたいだ」

美咲は大きくため息をつき、

「私もどっかで、デモのことがばれても、日本やQ国の大学が庇ってくれるだろうって、甘い期待があった。でも、みんな知らん顔。それが不思議だった」

「日本もQも社会がそんなに成熟していないんだろうな。君のしたことは恥ずかしいことじゃないんだから、堂々としていなさいよ。それよか、クー先生のことを見て見ぬふりした学者仲間の方が数倍問題だと思うよ」

 多聞はふと、

「美咲が抱えている問題を旦那は知っているの?」

「言っていない」

美咲は答える。

「何で?」

「聞かれたら言うつもりだったけれど、なかなか機会がなくって」

「ふうん。君たち変わっているね」

尤も普通の夫婦だったら、妻が新婚早々他の男の部屋に入り浸らないもんな、と多聞は思う。

 美咲は何かを考えている風だったが、ベッドから身を起こすと、

「今日は帰る」

と言って、着物を整えた。

「帰っちゃ駄目」

多聞は美咲の手を取って、再びベッドに戻した。そして美咲の和服の裾をめくり上げ、その中に顔を入れた。そっと下着の上から陰部に口をつけ、

「好きだよ、美咲。大好きだ」

美咲は足を広げたまま鼻白んだ声で

「一体どこに向かって言ってんのよ」

多聞は和服から顔を出し、照れ臭そうに笑った。

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