第十一話 家制度の亡霊
年が明けた。美咲は赤いニットのワンピースを着て夫とともに守谷に向かう。美咲の胸には不平が渦巻いていたが、結婚して初めての正月、挨拶がてら泊まらなければとの気持ちもあり、おとなしく夫に従った。
茨城県は寒かった。新年のあいさつもそこそこ、
「うちに来るのにそんなにおしゃれしてこなくて良いのよ」
と姑。確かに義姉たちはみなトレーナーとジーンズと言う軽装だ。
「美咲おばちゃんが来たわよ」
姑は孫に呼びかける。
「さあにいなちゃん。美咲おばちゃん抱いてもらいましょう」
姑は義姉から零歳児のにいなを奪うと、美咲に押し付ける。重い、美咲は思う。
「そろそろ美咲さんも赤ちゃんを産むんだから、予行練習よ」
「そんな予定はありませんけれど」
「もう三十過ぎでしょう。早くしないと高齢出産よ」
余計なお世話だと美咲は思う。それよか、この赤ん坊重いよ。どこかに置いちゃいけないかな。そんな時に義姉が、
「私、そろそろ授乳を・・・」
あー助かった。美咲は義姉に赤ん坊を返す。
「けい子さん授乳?じゃあここでしなさいよ」
と姑。
「いえいえ失礼ですので、二階をお借りします」
「いいのよここで。家族なんだから」
授乳ぐらいゆっくりやらせてあげればいいのに。この家ではけいこのことを誰も助けない。
けいこは何とか姑を振り切って二階へ。
「さあてと、お食事の準備をしなくっちゃね」
姑は台所へ向かう。
「お手伝いしますわ」
と長男の嫁。美咲も仕方なく台所に入った。
「美咲さんエプロンは?」
姑は聞いた。持っていませんと美咲は答える。
「だからうちに来るのに着飾ってこなくてもいいのよ。エプロンを貸すわ」
義姉たちが軽装なのは、労働要員だったからだ。女たちが台所で働いている間、義父や健悟達はこたつに当たりながら、近況を話している。美咲は冷たい水に手を晒しながら、大根を洗って大根おろしを作ったり、鍋を洗わされたりする。姑は酢飯を作り、おこわを炊き、その上赤飯まで作っている。大量の米飯を炊いた後の圧力釜や飯台を誰が洗うんだと美咲は恨めしくなる。
「新婚のお正月はどうですか?」
にいなの母親のけいこがいつの間にか授乳を終えて台所に入ってきていた。母親が無給奉公の間、赤ん坊は舅のおもちゃになっている。
「大掃除して年賀状を書いたら、年明けはすぐ仕事です」
「うちも同じー」
と長男の嫁、さわが口を挟む。姑を中心として、けいこも長男の嫁も、手を動かしつつも口も動かし、しっかり笑顔にまでなって喋っている。大量の洗い物を片付けている美咲にはとてもそんな余裕はない。しかしさわと言う女は元来親切な女なのか、やたらと美咲に話を振ってくるのだ。美咲は質問に答えるだけで精いっぱいだ。
やっと食事の用意が出来て、食卓がにぎやかになる。総勢十三人。美咲は「嫁の席」ともいえる小さなテーブルに座らされて、まったく血のつながりのない女たち三人と顔を付き合わせた。あまりに疲れて美咲は大きなため息をつく。さわが低い声で、
「疲れたね」
と言う。台所にはよく冷えたビールが二本出ていた。よし屠蘇代わりに飲むか。美咲は立ち上がりビールを嫁の席と家長の席に運ぶ。
「みんなのところにお料理は行ったかしら」
と姑。
「美咲さんが嫁にきてくれて、健ちゃんもやっと一人前に家庭を持てたわ。来年のお正月は是非赤ちゃんを抱いてうちにきてちょうだいね、美咲さん」
なんか嫌だなぁ。美咲は思う。新生児を抱いて真冬の守谷に来いということか。育児に疲れた顔で嫁の席に座る自分が目に浮かんだ。
「お母さんがまたいっぱいご馳走を作ってくれたぞ。みんな食べよう」
と言う舅の声で速水家の面々は箸をとった。美咲はビールの栓を開け、
「わからない事ばかりなので色々教えて下さいね」
と言いながらさわやけいこにビールを勧めた。けいこは
「私は授乳中なので・・・・・」
さわは
「帰りの運転が」
などと言いビールを飲まなかった。美咲が遠慮勝ちに自分でグラスにビールを満たすと、
「あらやだ、ビールを二本出した筈なのに」
と姑が声をあげた。どうやら台所のビールは日本とも家長の席のものだったらしい。嫁はビールを飲むなと言うことか。美咲は姑の本意に気づかない振りをしてグラスのビールを飲み干した。
食事が終わり、美咲は汚れたお手拭きを回収した。洗濯機に持っていこうとすると、姑は
「お手拭きは手で洗って外に干しておいてちょうだい。夜も使うんだから」
美咲は言われた通りにお手拭きを流しで洗って、サンダルをつっかけて、勝手口から外に出た。日の陰った一月の午後は寒い。北風が容赦なく濡れた手に吹き付け、美咲の体温を奪った。
美咲が手をこすり合わせながら台所に入ってくると、居間でうたたねをしている健悟の姿がいやおうなしに目に入って来た。女たちはまたもや口と手を動かして、喋りながら水仕事である。楽しい振りなんかできない、美咲は思う。こんな家を抜け出して、多聞に会いに行けたら。
山のような洗い物が終わって、やっと台所から解放された。美咲がハンドクリームを塗ろうとバッグを開けると、子どもたちが一斉に寄って来た。化粧品の入ったポーチを取り出すと、
「なーんだ化粧品かぁ」
とレオ。どうやらお年玉を待っているらしい。レオの言葉を合図にして、お年玉の交換会が始まった。健悟はこの時ばかりは立ち上がって、笑顔で子どもたちにお年玉を配っている。子どものいない美咲には何も貰えない。貴重な休みを取られ、労働力まで提供し、更に金まで搾り取られるのか。
「田舎者の正月」
美咲はそっと声に出して言ってみた。
「そろそろお茶にしましょうか。コーヒーを入れるから手伝ってちょうだい」
と姑は当然のように嫁たちを台所に再び呼ぶ。食器棚から大人の人数分カップと受け皿を出し、カップに一杯抽出型のフィルターを被せ、湯を注ぎ、スプーンを添える。子どもたちにはジュース。更に個別に取り分けたケーキ。台所とダイニングを何度も往復して給仕する。
「さあさあコーヒーでも飲んでゆっくりしましょうよ」
と姑が呼びかける。ゆっくりさせたいのならばコーヒーなんて淹れさせるなと美咲は心の中で毒づく。今度は嫁たちも食卓に呼ばれた。席に着いた美咲はため息を押し殺す。
コーヒーを飲みながら、舅は美咲たちの結婚式のビデオを流す。もちろん目的は孫のピアノ独奏を観るためだ。
グランドピアノに向かい白い衣装でショパンを奏でるあんりは、早水家にとって本当の主役である。私はここにいる必要はないんだな、でも何でここにいるんだろう。美咲はうつむいてそっとあくびをする。これが結婚か、これが嫁か。愛人の一人でもいないことには、この退屈さ、やっていられない。
「来年はおもちをつきましょうよ。つきたてのおもちを美咲さんに食べてもらいたいわ」
と姑。餅つきだって?また嫁の仕事を増やす気か。美咲が返事をしないでいると、孫たちがおもち、おもちと騒ぎ出した。姑は、
「今年は餅つき機を出すのを忘れちゃったの。来年やろうね。約束よ」
来年の正月は絶対にここには来ない、美咲は胸に誓った。
お茶の時間が終わり、大量の食器をまた洗い終わると、今度は夕飯の準備である。すき焼き用に大量の野菜を洗い、ざくざくと切る。
「庭に干しておいたお手拭きを取り込んでちょうだい」
姑の言いつけを美咲はそっくり自分の夫に伝えた。健悟は嫌な顔をしたが、美咲はもう自分が寒い庭に出る気はなかった。健悟がしぶしぶ勝手口から出て、半乾きのお手拭きを持ってくる。
「あら、あんたが取り込みに行ったの?」
姑は大げさに驚く。
「洗面所で濡らしておいてね。人数分よ」
美咲は鋭く夫に命じた。
すべてが終わり、健悟が入浴している間、美咲は一人で二階に上がる。気分が悪くてたまらない。こき使われた腹いせに、携帯から多聞に電話してみた。私を舐めるな、浮気だって出来るんだから。しかし多聞は電話に出なかった。正月はスキーだと言っていたことを思い出す。メールを打っている途中で健悟が二階に上がって来た。
「風呂に入っていいよ」
美咲は携帯を閉じて、風呂場に向かった。
風呂からあがって、再び二階へ。
「ずっと台所に立ちっぱなしで本当に疲れたわよ」
健悟を睨みつけながら美咲は言う。
「しょうがないだろう。おふくろ一人にやらせるわけにもいかないし」
「私たちが来るから、食事の用意の負担が増えるんじゃない。あなたのおうちにはもう来ないとは言わないけど、せめてほかの親戚と別の日にしようよ」
「親戚みんなと会わないならば、正月の意味がないだろう。それに子どもが出来たらいとこ同士交流させたいし」
「長いお休みはお正月ぐらいしか取れないから、旅行とかスキーとか行きたいなぁ」
「まず無理だね。親父とおふくろが許さない」
「許さないって・・・・」
その時美咲の携帯が鳴った。健悟は携帯の画面に多聞の名前が表示されているのを見やりつつ、
「さっきからかかって来ているけど」
美咲は電話に出なかった。
「出ないの?」
「いいわよ別に」
美咲はうつむいて、自分の頬が緩んでいくのを隠した。多聞との世界には、親戚だの餅つきだの、そんな年寄りじみた言葉は無関係だ。多聞の存在が美咲を強くさせた。
美咲は健悟との話を打ち切って布団に入り、健悟に背を向けて多聞にメールを打つ。
「大した用があったわけじゃないけれど、おめでとうコールをしてみたんだ。スキーは楽しい?いいなー」
返事はすぐに来た。
「今部屋でみんなと飲んでいるところ」
添付された写真には、大学の同期が映っている。美咲の知っている顔もあった。
「私も仲間に入れてほしいなぁ」
「いいよ。今度行くときに美咲も誘うよ」
美咲が楽しくメールのやり取りをしているのを健悟は気にしている風だったが、そのうち寝息を立てて寝てしまった。美咲は多聞とのやり取りを削除するか迷ったが、健悟にとがめられるほどのことは書いていないだろうと思い直し、そのままにして、携帯の画面を閉じた。
明朝、早くから階下で人が動く気配がしている。起きて台所を手伝わなくてはと思いつつも、また寒い台所で冷たい水を触らなくてはならないことを考えると、どうしても起き上がる気にはなれなかった。健悟が目を覚まさないのを幸いに、結局九時過ぎまで布団の中にいた。
「すっかり寝坊して、申し訳ありません」
すでに朝食の準備がされている階下にばたばたと降りていく。
「いいのよ、疲れていたんでしょう」
姑が言う。美咲は口では謝ったが、もうただ働きさせられることはごめんだった。
「もっと早く起きなさい。お母さんは六時半に起きて食事の用意をしてくれていたんだぞ」
舅。これを機会に出入り禁止にしてくれないかなと美咲は思う。




