第十話 冬物語
会社の忘年会を一次会で抜け出して、美咲は十条に向かう。タシの店には多聞を待たせてあるのだ。店に入り、タシに再会のあいさつをし、多聞のテーブルについた。多聞はビールを飲んで待っていた。
「やっと十条行きが実現したわね」
「忙しかったしね、お互いに」
多聞は自分の受けごたえが、結婚をした美咲に嫌味にならないかと気になった。多聞に会ったらこれを話そうこれも聞こうと美咲は思っていたが、多聞の顔を見たら何にも言えなくなってしまう。
美咲もビールを頼んで、多聞とグラスを合わせた。美咲はもじもじしたまま、顔を上げることが出来ない。ふと多聞と目が合うと、多聞は暖かい目で美咲を見つめる。美咲は自分を甘い匂いに誘われた小さな虫のように思う。捕獲されると知りつつ、じりじりと距離を縮めてしまう。もう逃げられない。
「多聞君は何年生を持ったの?」
「二年生。多分来年も受け持つと思う。進路指導とかしないとね」
「しっかり先生しているのね」
でも先生は人妻と会っているのねと美咲は思う。今日の美咲はダイヤの指輪を左手の薬指に輝かせている。多聞と会う前に指輪は外そうかとも思ったが、物欲しげに見えないように、いつも通りに着けたままにしておいた。
互いに入店するのが遅かったので、すぐに閉店時間になってしまう。勘定は多聞が多く払い、店を出た。レジに立つタシは何かを感じたのか、美咲と目を合わせない。
この前みたいなことになったらどうしよう、美咲は黙ったまま身を固くする。暗い神社の前で多聞は美咲の手を取った。その瞬間、自分はこれを望んでいたのだと美咲は思う。多聞が美咲を抱き寄せるのと、美咲が多聞の胸に飛び込むのは同時だった。互いにしがみつくようなキス。多聞は美咲の頬に自分の頬を付けたまま、
「今日、こっちに来いよ。実家に泊まっちゃえば?」
もちろん泊まるのは実家ではない。
「今日は帰らなくっちゃ」
「誰にも邪魔されないところに美咲と行きたいんだ。じゃあクリスマスは?こっちに帰ってくればいいじゃないか」ね
美咲はちょっと考えてから、
「年末か年始にそっちに行くわ」
そして、
「多聞は嫌じゃないの?私が結婚しているのに」
「そんなの関係ないよ」
その多聞の言葉を、美咲はやや鼻白んだ気持ちで聞いたのだ。多聞の胸から身を離し、
「男って人妻大好きだよね」
そっちだって夫一人じゃ満足していないじゃないかと多聞は思ったが、
「そんなことはないさ」
と否定しただけだった。
駅でもう一度キスをして、二人は逆方向の電車に乗る。別れた後に、一人多聞は苦笑する。人権だの研究だの言っていた美咲が間男を持つようになるとは。そして俺は人妻をベッドに引きずり込もうとしている。箱根の守護神と呼ばれた俺が。
クリスマス前の日曜日、多聞は美術館の喫茶店であやを待った。年末の忙しい時期に絵画の鑑賞をする人間は少ないらしく、喫茶店は空いていた。以前あやと二人でよく来た美術館だった。あやからの誘いの電話があり、お茶ぐらいならば飲めると多聞が答えたら、あやはこの喫茶店を待ち合わせ場所に指定したのだ。
あやはすぐにやって来た。髪の毛の色は真っ黒になり、マニキュアを施していない指は白く、細い。茶色のダッフルコートの下は白いセーターとチェックのスカートだ。薄い化粧も相まって、女学生のように見えた。
「元気そうだね」
多聞は言った。
「バイトも始めたの。多聞にはずいぶん迷惑をかけちゃってごめんね」
あやはぺこりと頭を下げる。
「謝ることないよ」
あやは去年のクリスマスに多聞が贈った指輪を付けてきていた。
「アルバイトは疲れない程度に抑えて、空いている時間は絵を見たり、自分でも描いたりしているんだ。多聞は?忙しいの」
「忙しいね。今年は担任を持ったから、平日も週末も忙しいよ」
「多聞は優しい先生だろうね」
「そんなことはないよ。時々雷を落とすもん。最近のこどもは全然言うことを聞かないからな」
あやはちょっと黙った後に、
「多聞は私に楽しい時間をいっぱいくれたのに、私は自分のことで頭がいっぱいだった。今は何でつまらないことに囚われて、足踏みをしていたのか分らない。社会に出て、色々あるじゃない?変な部署に行かされたり、怖い上司にぶつかったり、自分が意外と仕事が出来ないと分ったり。そういううまく行かないことを全部自分の親のせいにして、親を困らせるためにバカなことをやっていたのだと思う」
あやは一度言葉を区切り、考え考え、
「でもそれはとても幼いことだ」
と多聞を見ながら言った。多聞はどう返答すればいいのか分らず、黙っていた。
「他のみんながはたちでわかることを、私はこの年で気づいたんだよね」
「なんだかあやは次の段階に行っているって感じがするよ」
多聞の言葉にあやは嬉しそうな顔で小さく笑った。
「今日は話って程の話はなかったんだけど、元気だってことを伝えたくって多聞を呼んじゃった。忙しいのにごめんね」
あやは謝ってばかりだ。
「最近こんな絵を描いたの。多聞にあげる」
あやは茶封筒を多聞の前に置いた。多聞は、見ていい?と聞いてから、封筒からはがき大の絵を取り出す。
一面の銀世界が描かれていた。雪の表面にはラメが施されていて、リスやウサギなどの小動物が遊んでいる。寒い世界なのに、なぜか暖かい。
多聞が絵から顔を上げると、あやは出会った頃の笑顔を多聞に向ける。
「見た人が優しい気持ちになれる絵だね」
多聞はあやに気持ちが傾いていくのを感じる。しかし元の関係に戻れるとは思えなかった。あやが葛藤を乗り越えて次の段階へ進んでいるように、自分も違う道へと歩み始めているからだ。
「私、これから絵の仲間に会いに行かなければいけないの」
あやは言った。二人は喫茶店を出て、駅に向かう。別れ際、多聞は、
「さっきの絵、バンクーバーの景色?」
と聞いた。あやはさっと顔を赤らめて、
「そうだよ。あの時の気持ちで書いたんだよ」
あやがまだ元気な頃、二人で金を貯めて行った冬のバンクーバー。郊外のスキー場で二人が見た景色そのままだった。
「あの絵を見た瞬間、もうあやは大丈夫だって思ったよ」
あやの眼のふちに涙がたまっていく。
「あーやだやだ。今日は絶対に泣かないって決めていたのに」
あやは軽く目を拭って、わざと明るい声で、
「じゃあまたね。メリークリスマス」
と言って駆け足で改札を抜けて行った。家に帰った多聞はその絵を壁に貼っておいた。
クリスマスイブ当日は平日だった。多聞は持ち帰りの仕事を部屋でこなしつつ、美咲とメールでやりとりをする。美咲は帰宅途中らしい。ちょっと彼女と直接話してみたい気持ちになり、電話をかけてみた。美咲はすぐに出た。
「道を歩いているところ」
微かにクラクションの音が聞こえる。
「まさかとは思うけど、ベッドの隣で本妻が寝息を立てているんじゃないでしょうね」
美咲は言った。
「本妻?」
「無職の女の子よ」
「本妻なんかじゃないよ。それにもう会ってないよ」
結婚している君に言われたくはない、多聞は言葉を飲み込む。
「私、年末そっちに行こうかしら」
と美咲。
「飯でも食おうよ」
「じゃあ仕事納めの日に行くわ」
二人は夕方の時間に、多聞の家のそばで会うことに決めた。
美咲はパンツスーツで現れた。今日はダイヤの指輪はない。レストランの席に着くと、美咲は多聞にプレゼントの包みを渡した。中身はトレーニングウェアの上下だった。
「やっぱり体育教師はジャージじゃなくっちゃね」
「有難う。明日も部活だから着させて貰うよ。俺も美咲にプレゼントがあるんだ」
多聞は美咲に小さな箱を渡す。箱を開けた美咲は嬉しそうに中に入っていたネックレスを着けた。
「こんなので良かった?何を上げていいのか分らなくって、ネックレスにしちゃったけど」
「こういうの、好きよ。どう、似合う?」
「今日に服にぴったしだよ」
旦那に勘繰られるかな、と多聞はふと思う。
「お正月はどうするの?」
美咲は聞いた。
「大学時代の仲間とスキーに行ってくる。普段ものすごく忙しいから自分へのご褒美だ。美咲は?」
「年明けからすぐ仕事。あー学生に戻りたい」
料理はデザートまで出て、美咲は食後酒のグラッパを飲んでいる。場所を変えようとの多聞の提案に美咲は頷く。美咲が化粧直しに立った時、多聞は携帯の着信歴に気が付く。あやだった。
「渡したいものがあるので、今日会えませんか?」
午後六時半のメールだった。もう八時過ぎである。
「今日は無理です」
とだけ多聞は返事を返し、美咲を待った。
店を出て、
「俺の家でお茶でも飲む?酒でもいいけれど」
美咲はうーんと考えた後、
「行ってもいいけれど・・・・変なことしないで下さいよ。私も一応既婚者ですから」
しかし美咲は口ほどには嫌がっていないようで、機嫌よく多聞の家について来る。 二人がじゃれあいながらコンビニで飲料を買い、店から出ると、ダッフルコートを着て、白いニット帽をかぶったあやと出くわした。多聞の笑顔が凍り付く。
「そうなんだ・・・・」
あやがうつむいて小さく呟く。美咲は多聞の体に絡めていた自分の腕を外し、手を前に組んであやと同じようにうつむく。あやはやがて、子どもみたいに声を出して泣き出した。大人になってもこんなに大粒の涙を流して泣くこともあるんだな、美咲は変なところに感心してしまう。
「今日は帰るね」
美咲がそう言って二人から離れようとすると、
「帰らなくていい」
多聞が鋭く言った。その言葉で、あやの方が嗚咽を漏らしながら、帰っていった。
「追いかけなよ。泣いているじゃない」
「俺、別に約束していないよ」
「多聞のことを待っていたんじゃない」
「多分ね。会って欲しいと夕方メールがあった。でもずっと気が付かなくって、ついさっき無理だって返信したんだ」
「ものすごく傷ついているみたいだけど大丈夫かしら。精神の細い子なんでしょう?」
「それを言ってくれるな」
多聞は憂鬱そうにうなだれて、ため息をつく。
二人は多聞の部屋に帰り、多聞が暖房を付けたり飲み物の準備をしている間、美咲は壁に貼られた小さな絵を見つける。絵の隅にAYAとサインがしてあった。
「これ、さっきの子が書いたの?」
そうだと多聞は答える。
「描かれているのは二人の思い出の地?」
「そんなんじゃないけど・・・・」
多聞はグラスにアイスティーを満たして、美咲に座るように促す。美咲は浮かない顔でちゃぶ台についた。多聞が美咲の手を取っても、美咲は表情を変えず、多聞の方を見て、
「私、身を引きましょうか?」
「いや、そんな必要はないよ」
多聞は焦って言う。
「あんな涙を見ちゃうとねぇ。それに、私は結婚しているし」
多聞はしばし黙って、
「さっきの子、あやっていうんだけど、あやのことと美咲のことは関係ないんだ。ずいぶん前に、彼女に距離を置きたいと伝えてあったし」
「想像していた子とは違ったわ。多聞の話を聞いていて、もっと病的な子だと思っていたけれど、普通の子に見えた」
「確かに今は快方に向かっているみたいだけど・・・・」
その時、多聞の携帯が鳴った。多聞は飛び上がらんばかりに驚く。
「出た方がいいわよ」
「ああそうだな」
多聞はバッグをまさぐり、携帯を取り出す。表示を見て多聞は息をつく。
「教師仲間だ。出なくていいや」
携帯は留守番電話に切り替わった。多聞は肩で息をしてから、
「つまり、こういうことだよ。あやのことで俺はいつもびくびくしているんだ。俺には荷が重すぎる。三年間、俺なりにあやを支えたよ。でも、もう駄目だ」
「ふうん。まぁいいんじゃない。ここまで来たら、結婚して一生支えるか、すぱっと別れてあげるか、二つに一つだよ。あ、私、そろそろ帰るね。結構な修羅場を拝見しました」
美咲は立ち上がった。
「不愉快な思いをさせて悪かったね」
「不愉快なんかじゃないわよ。人にはいろいろ事情があるんだと思っただけ」
多聞は美咲を抱きしめてキスをした。美咲は多聞の背中に腕を回す。
「もう帰っちゃうの?」
「終電なくなっちゃうもん」
「せっかく家に来てくれたのに今日はキスだけ?」
多聞は美咲の体に触れる。美咲は笑いながら身をよじり、
「また年明けに来るわ」
と多聞の頬を撫ぜるのだった。二人でアパートを出て、駅で別れた。
電車の中で、美咲はネックレスを外す。多聞は泥の町だけの愛人だ。鏡で変なところに口紅が付いていないか確かめた。
帰宅すると、健悟はまだ起きていて、ベッドで洋書を読んでいた。美咲はすぐに風呂場に向かう。多聞の匂いを消すために。下着は洗濯機に放り込み、上から他の汚れ物を被せる。
「遅かったね」
「会社のそばで飲んでいたんだ。同期同士で話し込んじゃって」
明かりを消すと、健悟はすぐに美咲を自分のベッドに招いた。
「体がほてっているぞ」
と健悟。そりゃ愛人と過ごしていたからだと美咲は心の中で呟く。罪悪感もあり、美咲は丁寧に健悟を受け入れる。美咲は注意深く、そして愛情をこめて「健君、健君」と呼ぶ。決して名前を間違えてはならない。
落ち着いた頃を見計らい、美咲は健悟の胸で、
「健君は赤ちゃんのことを考えているの?」
「どうしたの急に?そろろう作ろうか?」
「今日聞いたんだけど、もしかして年明けから異動があるかも知れないんだって。だから赤ちゃんは待ってほしいんだ。それにもうちょっと二人だけの時間を楽しみたいし」
「うん、良いよ」
妊娠したら多聞との関係は終わりだ。
「おふくろが正月に帰って来いっていうから、二日から帰ろうぜ」
「そうね」
「兄貴たちも帰って来るって。レオ君たちにお年玉を用意しておいて」
「いいわよ。いくらぐらい」
「一人五千円で五人分」
美咲は思わず聞き返した。
「幼稚園児も赤ちゃんも五千円なの?ちょっと高すぎない?合計で二万五千円じゃない」
「早水家はそうなんだよ」
「うちは子どもがいないから、お年玉は免除してもらおうよ。それか、子どもたちがいない日に帰省しようよ」
健悟は暗がりでも分るほど嫌な顔をして、
「うちだけ別行動するわけにはいかないの。それにみんな二日の夜から泊まるんだし」
「まさか、うちも泊まるわけ?」
「おふくろに泊まるって返事しちゃった」
美咲はスリップ姿のまま上半身を起こし、
「泊まる必要なんかないじゃない。守谷でしょ?日帰りで十分よ」
「寒いから布団をはぐなよ。正月だから色々手伝うこともあるでしょ。美咲だって早く早水家になじんだ方がいいよ」
「人の予定を勝手に決めないでよ」
美咲が怒りをにじませて言うと、
「しょうがないだろう。親が望んでいるんだから」
健悟は美咲から体を離して、背を向ける。美咲はその背中に向かって、
「お年玉は家計費から出さないで。それから、守谷から戻ったら、私だって実家に帰るからね」
美咲は自分の冷たいベッドに戻った。さっきまであった健悟への罪悪感がみるみるしぼんで行った。




