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食い逃げ妖精、指名手配中

食い逃げ妖精、月のチーズケーキをひとかじりする。

作者: 堀吉 蔵人
掲載日:2026/07/27

 

 月が満ちる前の夜。


 空の上では、白兎たちがチーズケーキを焼いていた。


 丸い空の窯。


 星の火。


 雲を泡立てたクリーム。


 夜露で冷やした白いチーズ。


 それらを大きな銀の鉢で混ぜ、天の川の砂糖を加える。


 できあがるのは、空いっぱいに浮かぶほど大きなチーズケーキだった。


 表面は淡い金色。


 縁だけが少し濃く焼けている。


 切れば、中から白い湯気と甘い月の匂いが流れ出す。


 白兎たちは、それを月と呼んでいた。


 満月の夜。


 地上から見える丸い月は、毎月焼かれる新しいチーズケーキなのである。


「そちらを持って!」


「傾けないで!」


「星屑を落とさないでください!」


 十二匹の白兎が、大きな月を運んでいた。


 前の六匹が押す。


 後ろの六匹が引く。


 月は銀の車輪がついた冷まし台へ載せられた。


 焼きたての月は柔らかい。


 すぐ空へ浮かべると、重みで楕円になってしまう。


 そのため、夜明け前まで冷ましてから、空の中央へ運ぶことになっていた。


 冷まし台のそばには、小さな札が立っている。


『満月になるまで、味見禁止。』


 月焼き長の白兎は、札を確認した。


 長い耳。


 白い前掛け。


 腰には、月を切るための銀のナイフが下がっている。


「今月もきれいに焼けました」


 若い兎が月を見上げる。


「少し膨らみすぎでは?」


「冷めればちょうどよくなります」


「味見をして確かめなくても?」


「味見は禁止です」


「端だけでも?」


「端をかじれば、満月でなくなります」


 若い兎は耳を伏せた。


 月焼き長は、冷まし台の車輪へ銀の留め具をかけた。


「これで動きません。朝まで交代で見張ります」


 そのころ。


 地上では、タルムが山道を歩いていた。


 大きな甲羅の上には、小さな家が載っている。


 窓辺には、リリィが座っていた。


 夜空を見上げる。


 月はまだない。


 星だけが細かく光っている。


 けれど、風には甘い匂いが混じっていた。


 焼けたチーズ。


 焦がした砂糖。


 少しだけ酸っぱい果実。


 リリィは窓を開けた。


「タルム」


「なんだい」


「空からケーキの匂いがするよ」


「空には星しかないねえ」


「星の上」


「高いねえ」


 山の頂上へ近づくほど、匂いは濃くなった。


 リリィは家を飛び出した。


「見てくるね!」


「空までかい」


「匂いのところまで!」


 山頂には、細い銀色の光が下りていた。


 月を運ぶための道だった。


 地上から空へまっすぐ伸びる、月の梯子。


 リリィは光へ触れた。


 固くはない。


 けれど、羽を動かすと光の上を飛べる。


「道だ」


 リリィは銀色の光を上っていった。


 山が小さくなる。


 森が小さくなる。


 タルムが小さくなる。


 甲羅の上の家だけが、窓の明かりで分かった。


 雲を抜ける。


 空気が冷たい。


 星が近い。


 甘い匂いは、ますます強くなる。


 やがて、雲の上に白い屋根が見えた。


 月焼き場だった。


 丸い窯。


 銀の冷まし台。


 忙しく走り回る白兎たち。


 その中央に、大きなチーズケーキがあった。


 リリィは目を丸くした。


「月がお菓子だ」


 見張りの白兎は、冷まし台の反対側を向いていた。


 焼き長から居眠りしないよう言われたので、一生懸命星を数えている。


「一つ、二つ、三つ……」


 星は多い。


 数え終わることはない。


 リリィは月の裏側へ降りた。


 近くで見ると、表面には細かな焼き色がついている。


 縁はふっくら盛り上がり、中央は柔らかそうに揺れていた。


 リリィは月の周りを飛んだ。


 札を見つける。


『満月になるまで、味見禁止。』


 リリィは首を傾げた。


「もう丸いよ」


 満月になっているように見えた。


 だから、もう味見してもよいのだと思った。


 縁へ近づく。


 指で押す。


 ふわり。


 指の跡が残り、ゆっくり戻った。


 リリィは表面を少しすくった。


 口へ入れる。


 なめらか。


 チーズの濃い味。


 天の川の砂糖が、舌の上で小さく光る。


「おいしー!」


 金色の粉が、月の縁へぱらぱら落ちた。


 月が、少しだけ震えた。


 リリィはもう一度、縁へ顔を近づけた。


 今度は、しっかりひとかじりする。


 ふわっ。


 柔らかな生地が口の中へ入った。


 酸っぱい星果実の香り。


 白いチーズ。


 焼けた砂糖。


 最後に、冷たい夜の味。


「おいしー!」


 金色の粉が大きく広がった。


 月の表面を流れる。


 焼き色の上を走る。


 銀の冷まし台まで届く。


 冷まし台の留め具が震えた。


 かちり。


 留め具が外れた。


 月は動かなかった。


 リリィは、かじった跡を覗いた。


 半月ほどの小さな穴が開いている。


 中には白い生地。


 底には星屑を混ぜた薄い土台。


「中もおいしそう」


 リリィがもう一口食べようとしたとき。


 月が、わずかに傾いた。


 かじられた側が軽くなったのだ。


 反対側へ重みが寄る。


 冷まし台の車輪が動く。


 ころ。


 リリィは月の縁につかまった。


「動いた」


 冷まし台がもう一度動く。


 ころころ。


 見張りの白兎が振り返った。


「え?」


 丸い月が、銀の台ごと近づいてくる。


 白兎は目を見開いた。


「月が動いています!」


 月焼き場に鐘が鳴った。


 からん。


 白兎たちが窯から飛び出す。


 月焼き長も走ってきた。


「留め具は!」


「外れています!」


「誰が外したのです!」


「分かりません!」


 月焼き長は、月の縁に開いた小さな穴を見つけた。


 穴の横から、金色の髪が少し見えている。


「誰かが月を食べています!」


 リリィが顔を出した。


 口元に白い生地がついている。


「おいしいよ」


「感想は聞いていません!」


 月は速度を上げた。


 冷まし台の端まで転がる。


 白兎たちが一斉に押さえる。


 十二匹が月へ飛びついた。


 けれど、大きすぎる。


 柔らかい月へ手足が沈む。


「止まりません!」


「押し戻してください!」


「足が抜けません!」


 若い兎は腰まで月へ埋まっていた。


 冷まし台の端には、銀の柵がある。


 月がぶつかる。


 ぐにゃり。


 柔らかくへこむ。


 柵が曲がる。


 月は柵を乗り越えた。


「落ちます!」


 白兎たちが叫ぶ。


 月が空へ転がり出した。


 下には地上ではなく、星空が広がっている。


 月は落ちなかった。


 空の上なので、そのまま転がった。


 ころころ。


 星と星の間を進む。


 白兎たちは月にしがみついたまま運ばれる。


 リリィも、かじった穴へ腕を入れてつかまっていた。


「速いね!」


「楽しんでいる場合ではありません!」


 月焼き長が叫ぶ。


 丸い月は星空を転がった。


 小さな星を弾く。


 星はくるくる回りながら遠くへ飛ぶ。


 流れ星になった。


 一つ。


 二つ。


 十。


 月が通ったあとに、細い光の線が残る。


 地上では、人々が夜空を見上げていた。


 まだ満月の時刻ではない。


 それなのに、大きな月が空の端から転がってくる。


 満月には、小さなひと口の跡がある。


 その後ろを、無数の流れ星が追っていた。


「月が走っている!」


「欠けているぞ!」


「兎が乗っている!」


 村人たちは外へ飛び出した。


 山道では、タルムも顔を上げた。


「ずいぶん急いでいる月だねえ」


 月は空の中央を通り過ぎた。


 本来なら、そこで留まるはずだった。


 けれど止まらない。


 星の川へ入る。


 流れが月を押す。


 さらに速くなる。


 月焼き長は銀のナイフを抜いた。


「月を軽くします!」


「どうするの?」


 リリィが聞いた。


「縁を切り落とします!」


「もったいないよ」


「落とすのではありません!」


 月焼き長は、月の反対側へナイフを入れようとした。


 けれど、月が揺れて狙いが定まらない。


 ナイフの先が表面へ触れる。


 柔らかな生地が少し切れた。


 そこから白いクリームが噴き出した。


 白兎たちの顔へかかる。


「見えません!」


「拭いてください!」


「手が月から離せません!」


 月は星の川を抜けた。


 その先には、空の塔があった。


 夜を支える細長い塔。


 塔の先には、大きな金色の鐘が下がっている。


 月がぶつかれば、鐘も塔も壊れてしまう。


 月焼き長の耳が立った。


「前方に夜の鐘!」


 白兎たちが振り返る。


 金色の鐘が近づいてくる。


「曲がれません!」


「月は丸いので曲がりません!」


「それは知っています!」


 リリィは、月のかじり跡を見た。


 穴は半月の形をしている。


 月が回るたび、穴が上へ下へ動く。


 そのたび、月の傾きも少し変わった。


 リリィは反対側へ飛んだ。


「何をするのです!」


 月焼き長が叫ぶ。


「こっちも食べる」


「やめなさい!」


 リリィは月の反対側へかじりついた。


 ふわっ。


 大きな一口。


 最初にかじった穴と、ちょうど同じくらい。


「おいしー!」


 金色の粉が月全体へ広がった。


 左右の重さが揃う。


 月の揺れが止まった。


 転がる速さが少し落ちる。


 けれど、夜の鐘は目の前だった。


「まだ止まりません!」


 リリィは二つのかじり跡を見た。


 右と左。


 両方が欠けている。


 間に残った月は、少し細長く見えた。


「もっと食べれば軽くなるよ」


「食べないでください!」


「さっき切ろうとしてたよ」


「それとこれとは違います!」


 月焼き長が叫ぶ間にも、リリィは月の縁をかじった。


 少しずつ。


 右から。


 左から。


 交互に。


 かじるたびに金色の粉が舞う。


 月の丸い輪郭が細くなる。


 満月が、少しずつ三日月へ変わっていく。


 白兎たちは耳を伏せた。


「今月の満月が!」


「細くなっていきます!」


「売り物になりません!」


「月は売り物ではありません!」


 月焼き長が訂正した。


 月は軽くなった。


 速度が落ちる。


 夜の鐘の直前で、ころんと横倒しになった。


 細くなった月の先端が、鐘の紐へ引っかかる。


 からあん。


 金色の鐘が鳴った。


 音が夜空へ広がる。


 転がっていた星が止まる。


 流れ星が空へ縫いつけられる。


 月も、鐘の隣で静かに浮かんだ。


 白兎たちは月から手を離した。


「止まった」


 若い兎が言う。


 月焼き長は、細くなった月を見上げた。


 焼きたての丸いチーズケーキは、両側から大きく食べられている。


 残った部分は、金色の細い弧。


「満月ではありません」


 リリィは残った月の上へ座った。


「まだいっぱいあるよ」


「いっぱいあっても丸くありません!」


「細い月だね」


「あなたが食べたからです!」


 地上では、人々が空を見上げていた。


 丸かった月が、いつの間にか細くなっている。


 金色の弧が、夜の鐘のそばに浮かんでいた。


 その周りには、月からこぼれた白い生地の粒。


 星のように光っている。


 誰かが言った。


「きれいだ」


 別の誰かも言った。


「舟みたいだ」


 子どもたちは、細い月を指差して笑った。


 タルムも山の上から見ていた。


「食べやすそうな形になったねえ」


 月焼き長は、地上の声を聞いた。


 細い月を見る。


 丸い月とは違う。


 けれど、悪くはなかった。


 星空を渡る舟のようでもある。


 夜の笑った口のようでもある。


「今月は、これを月ということにしましょう」


 月焼き長が言った。


 白兎たちは驚いた。


「満月ではありません」


「見れば分かります」


「王さまへ何と報告を?」


 月焼き長は、リリィを見る。


「妖精に食べられました、と」


「怒られますよ」


「私がではありません」


 月焼き長はリリィへ手を差し出した。


「食べた分の代金を払いなさい」


「ないよ!」


 リリィは月の上から飛び上がった。


 白兎たちが追いかける。


「待ちなさい!」


「月を二口どころではありません!」


「半分近く食べました!」


 リリィは銀色の月の道へ逃げた。


 細い月から地上へ伸びる光。


 その上を滑るように飛ぶ。


 白兎たちは途中まで追ったが、地上へ近づくと耳が重くなり、引き返していった。


 リリィは山頂へ戻った。


 タルムの甲羅の上。


 小さな家の扉を開ける。


 中へ飛び込む。


「おかえり」


 タルムが言った。


「月、おいしかったよ」


「ずいぶん食べたねえ」


「ひとかじりしただけだよ」


 タルムは細くなった月を見上げた。


「大きなひとかじりだねえ」


 リリィは寝台へ横になった。


 口元には白いチーズがついている。


「残りはまた今度」


 それから、月は毎月少しずつ形を変えるようになった。


 白兎たちが丸いチーズケーキを空へ浮かべる。


 どこからか食い逃げ妖精が現れ、端を少しずつかじっていく。


 月が細くなりすぎると、白兎たちは新しい生地を足す。


 細い月は太くなり、やがてまた丸くなる。


 満月の冷まし台には、今も札が立っている。


『満月になるまで、味見禁止。』


 その下には、月焼き長が書き足した小さな文字がある。


『特に妖精。』


 けれど、満月の翌朝には必ず、月の縁に小さな歯形がついている。


 代金が置かれていたことは、一度もなかった。

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