食い逃げ妖精、月のチーズケーキをひとかじりする。
月が満ちる前の夜。
空の上では、白兎たちがチーズケーキを焼いていた。
丸い空の窯。
星の火。
雲を泡立てたクリーム。
夜露で冷やした白いチーズ。
それらを大きな銀の鉢で混ぜ、天の川の砂糖を加える。
できあがるのは、空いっぱいに浮かぶほど大きなチーズケーキだった。
表面は淡い金色。
縁だけが少し濃く焼けている。
切れば、中から白い湯気と甘い月の匂いが流れ出す。
白兎たちは、それを月と呼んでいた。
満月の夜。
地上から見える丸い月は、毎月焼かれる新しいチーズケーキなのである。
「そちらを持って!」
「傾けないで!」
「星屑を落とさないでください!」
十二匹の白兎が、大きな月を運んでいた。
前の六匹が押す。
後ろの六匹が引く。
月は銀の車輪がついた冷まし台へ載せられた。
焼きたての月は柔らかい。
すぐ空へ浮かべると、重みで楕円になってしまう。
そのため、夜明け前まで冷ましてから、空の中央へ運ぶことになっていた。
冷まし台のそばには、小さな札が立っている。
『満月になるまで、味見禁止。』
月焼き長の白兎は、札を確認した。
長い耳。
白い前掛け。
腰には、月を切るための銀のナイフが下がっている。
「今月もきれいに焼けました」
若い兎が月を見上げる。
「少し膨らみすぎでは?」
「冷めればちょうどよくなります」
「味見をして確かめなくても?」
「味見は禁止です」
「端だけでも?」
「端をかじれば、満月でなくなります」
若い兎は耳を伏せた。
月焼き長は、冷まし台の車輪へ銀の留め具をかけた。
「これで動きません。朝まで交代で見張ります」
そのころ。
地上では、タルムが山道を歩いていた。
大きな甲羅の上には、小さな家が載っている。
窓辺には、リリィが座っていた。
夜空を見上げる。
月はまだない。
星だけが細かく光っている。
けれど、風には甘い匂いが混じっていた。
焼けたチーズ。
焦がした砂糖。
少しだけ酸っぱい果実。
リリィは窓を開けた。
「タルム」
「なんだい」
「空からケーキの匂いがするよ」
「空には星しかないねえ」
「星の上」
「高いねえ」
山の頂上へ近づくほど、匂いは濃くなった。
リリィは家を飛び出した。
「見てくるね!」
「空までかい」
「匂いのところまで!」
山頂には、細い銀色の光が下りていた。
月を運ぶための道だった。
地上から空へまっすぐ伸びる、月の梯子。
リリィは光へ触れた。
固くはない。
けれど、羽を動かすと光の上を飛べる。
「道だ」
リリィは銀色の光を上っていった。
山が小さくなる。
森が小さくなる。
タルムが小さくなる。
甲羅の上の家だけが、窓の明かりで分かった。
雲を抜ける。
空気が冷たい。
星が近い。
甘い匂いは、ますます強くなる。
やがて、雲の上に白い屋根が見えた。
月焼き場だった。
丸い窯。
銀の冷まし台。
忙しく走り回る白兎たち。
その中央に、大きなチーズケーキがあった。
リリィは目を丸くした。
「月がお菓子だ」
見張りの白兎は、冷まし台の反対側を向いていた。
焼き長から居眠りしないよう言われたので、一生懸命星を数えている。
「一つ、二つ、三つ……」
星は多い。
数え終わることはない。
リリィは月の裏側へ降りた。
近くで見ると、表面には細かな焼き色がついている。
縁はふっくら盛り上がり、中央は柔らかそうに揺れていた。
リリィは月の周りを飛んだ。
札を見つける。
『満月になるまで、味見禁止。』
リリィは首を傾げた。
「もう丸いよ」
満月になっているように見えた。
だから、もう味見してもよいのだと思った。
縁へ近づく。
指で押す。
ふわり。
指の跡が残り、ゆっくり戻った。
リリィは表面を少しすくった。
口へ入れる。
なめらか。
チーズの濃い味。
天の川の砂糖が、舌の上で小さく光る。
「おいしー!」
金色の粉が、月の縁へぱらぱら落ちた。
月が、少しだけ震えた。
リリィはもう一度、縁へ顔を近づけた。
今度は、しっかりひとかじりする。
ふわっ。
柔らかな生地が口の中へ入った。
酸っぱい星果実の香り。
白いチーズ。
焼けた砂糖。
最後に、冷たい夜の味。
「おいしー!」
金色の粉が大きく広がった。
月の表面を流れる。
焼き色の上を走る。
銀の冷まし台まで届く。
冷まし台の留め具が震えた。
かちり。
留め具が外れた。
月は動かなかった。
リリィは、かじった跡を覗いた。
半月ほどの小さな穴が開いている。
中には白い生地。
底には星屑を混ぜた薄い土台。
「中もおいしそう」
リリィがもう一口食べようとしたとき。
月が、わずかに傾いた。
かじられた側が軽くなったのだ。
反対側へ重みが寄る。
冷まし台の車輪が動く。
ころ。
リリィは月の縁につかまった。
「動いた」
冷まし台がもう一度動く。
ころころ。
見張りの白兎が振り返った。
「え?」
丸い月が、銀の台ごと近づいてくる。
白兎は目を見開いた。
「月が動いています!」
月焼き場に鐘が鳴った。
からん。
白兎たちが窯から飛び出す。
月焼き長も走ってきた。
「留め具は!」
「外れています!」
「誰が外したのです!」
「分かりません!」
月焼き長は、月の縁に開いた小さな穴を見つけた。
穴の横から、金色の髪が少し見えている。
「誰かが月を食べています!」
リリィが顔を出した。
口元に白い生地がついている。
「おいしいよ」
「感想は聞いていません!」
月は速度を上げた。
冷まし台の端まで転がる。
白兎たちが一斉に押さえる。
十二匹が月へ飛びついた。
けれど、大きすぎる。
柔らかい月へ手足が沈む。
「止まりません!」
「押し戻してください!」
「足が抜けません!」
若い兎は腰まで月へ埋まっていた。
冷まし台の端には、銀の柵がある。
月がぶつかる。
ぐにゃり。
柔らかくへこむ。
柵が曲がる。
月は柵を乗り越えた。
「落ちます!」
白兎たちが叫ぶ。
月が空へ転がり出した。
下には地上ではなく、星空が広がっている。
月は落ちなかった。
空の上なので、そのまま転がった。
ころころ。
星と星の間を進む。
白兎たちは月にしがみついたまま運ばれる。
リリィも、かじった穴へ腕を入れてつかまっていた。
「速いね!」
「楽しんでいる場合ではありません!」
月焼き長が叫ぶ。
丸い月は星空を転がった。
小さな星を弾く。
星はくるくる回りながら遠くへ飛ぶ。
流れ星になった。
一つ。
二つ。
十。
月が通ったあとに、細い光の線が残る。
地上では、人々が夜空を見上げていた。
まだ満月の時刻ではない。
それなのに、大きな月が空の端から転がってくる。
満月には、小さなひと口の跡がある。
その後ろを、無数の流れ星が追っていた。
「月が走っている!」
「欠けているぞ!」
「兎が乗っている!」
村人たちは外へ飛び出した。
山道では、タルムも顔を上げた。
「ずいぶん急いでいる月だねえ」
月は空の中央を通り過ぎた。
本来なら、そこで留まるはずだった。
けれど止まらない。
星の川へ入る。
流れが月を押す。
さらに速くなる。
月焼き長は銀のナイフを抜いた。
「月を軽くします!」
「どうするの?」
リリィが聞いた。
「縁を切り落とします!」
「もったいないよ」
「落とすのではありません!」
月焼き長は、月の反対側へナイフを入れようとした。
けれど、月が揺れて狙いが定まらない。
ナイフの先が表面へ触れる。
柔らかな生地が少し切れた。
そこから白いクリームが噴き出した。
白兎たちの顔へかかる。
「見えません!」
「拭いてください!」
「手が月から離せません!」
月は星の川を抜けた。
その先には、空の塔があった。
夜を支える細長い塔。
塔の先には、大きな金色の鐘が下がっている。
月がぶつかれば、鐘も塔も壊れてしまう。
月焼き長の耳が立った。
「前方に夜の鐘!」
白兎たちが振り返る。
金色の鐘が近づいてくる。
「曲がれません!」
「月は丸いので曲がりません!」
「それは知っています!」
リリィは、月のかじり跡を見た。
穴は半月の形をしている。
月が回るたび、穴が上へ下へ動く。
そのたび、月の傾きも少し変わった。
リリィは反対側へ飛んだ。
「何をするのです!」
月焼き長が叫ぶ。
「こっちも食べる」
「やめなさい!」
リリィは月の反対側へかじりついた。
ふわっ。
大きな一口。
最初にかじった穴と、ちょうど同じくらい。
「おいしー!」
金色の粉が月全体へ広がった。
左右の重さが揃う。
月の揺れが止まった。
転がる速さが少し落ちる。
けれど、夜の鐘は目の前だった。
「まだ止まりません!」
リリィは二つのかじり跡を見た。
右と左。
両方が欠けている。
間に残った月は、少し細長く見えた。
「もっと食べれば軽くなるよ」
「食べないでください!」
「さっき切ろうとしてたよ」
「それとこれとは違います!」
月焼き長が叫ぶ間にも、リリィは月の縁をかじった。
少しずつ。
右から。
左から。
交互に。
かじるたびに金色の粉が舞う。
月の丸い輪郭が細くなる。
満月が、少しずつ三日月へ変わっていく。
白兎たちは耳を伏せた。
「今月の満月が!」
「細くなっていきます!」
「売り物になりません!」
「月は売り物ではありません!」
月焼き長が訂正した。
月は軽くなった。
速度が落ちる。
夜の鐘の直前で、ころんと横倒しになった。
細くなった月の先端が、鐘の紐へ引っかかる。
からあん。
金色の鐘が鳴った。
音が夜空へ広がる。
転がっていた星が止まる。
流れ星が空へ縫いつけられる。
月も、鐘の隣で静かに浮かんだ。
白兎たちは月から手を離した。
「止まった」
若い兎が言う。
月焼き長は、細くなった月を見上げた。
焼きたての丸いチーズケーキは、両側から大きく食べられている。
残った部分は、金色の細い弧。
「満月ではありません」
リリィは残った月の上へ座った。
「まだいっぱいあるよ」
「いっぱいあっても丸くありません!」
「細い月だね」
「あなたが食べたからです!」
地上では、人々が空を見上げていた。
丸かった月が、いつの間にか細くなっている。
金色の弧が、夜の鐘のそばに浮かんでいた。
その周りには、月からこぼれた白い生地の粒。
星のように光っている。
誰かが言った。
「きれいだ」
別の誰かも言った。
「舟みたいだ」
子どもたちは、細い月を指差して笑った。
タルムも山の上から見ていた。
「食べやすそうな形になったねえ」
月焼き長は、地上の声を聞いた。
細い月を見る。
丸い月とは違う。
けれど、悪くはなかった。
星空を渡る舟のようでもある。
夜の笑った口のようでもある。
「今月は、これを月ということにしましょう」
月焼き長が言った。
白兎たちは驚いた。
「満月ではありません」
「見れば分かります」
「王さまへ何と報告を?」
月焼き長は、リリィを見る。
「妖精に食べられました、と」
「怒られますよ」
「私がではありません」
月焼き長はリリィへ手を差し出した。
「食べた分の代金を払いなさい」
「ないよ!」
リリィは月の上から飛び上がった。
白兎たちが追いかける。
「待ちなさい!」
「月を二口どころではありません!」
「半分近く食べました!」
リリィは銀色の月の道へ逃げた。
細い月から地上へ伸びる光。
その上を滑るように飛ぶ。
白兎たちは途中まで追ったが、地上へ近づくと耳が重くなり、引き返していった。
リリィは山頂へ戻った。
タルムの甲羅の上。
小さな家の扉を開ける。
中へ飛び込む。
「おかえり」
タルムが言った。
「月、おいしかったよ」
「ずいぶん食べたねえ」
「ひとかじりしただけだよ」
タルムは細くなった月を見上げた。
「大きなひとかじりだねえ」
リリィは寝台へ横になった。
口元には白いチーズがついている。
「残りはまた今度」
それから、月は毎月少しずつ形を変えるようになった。
白兎たちが丸いチーズケーキを空へ浮かべる。
どこからか食い逃げ妖精が現れ、端を少しずつかじっていく。
月が細くなりすぎると、白兎たちは新しい生地を足す。
細い月は太くなり、やがてまた丸くなる。
満月の冷まし台には、今も札が立っている。
『満月になるまで、味見禁止。』
その下には、月焼き長が書き足した小さな文字がある。
『特に妖精。』
けれど、満月の翌朝には必ず、月の縁に小さな歯形がついている。
代金が置かれていたことは、一度もなかった。
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