決戦
石畳の上を馬車が走る。
馬の蹄がやけに大きく響くのは馬車が行きかう場所を過ぎたからだ。
フレイアは馬車に設えられた窓から城を見上げた。
馬車は城門を過ぎた。
ここからエウロ妃……メナーディアのいる離宮まではもう少しかかるだろう。
日も昇らないほど早朝からメアンを始め、マナーハウスの侍女たちに磨かれた身体は自分でも驚くほどにうつくしい。
鏡の中の自分は静謐な表情を浮かべていて。以前ルフェウスに贈られた髪飾りと母から譲り受けた首飾りを違和感なく自分のものにしていた。
視線を落とすと溜息の出るようなドレスの広がりが目に映る。
領地に居る間に仕立てたドレスは美しい紺碧で。銀糸の刺繍があしらわれ、ちいさなダイヤモンドや真珠が精緻に縫い込まれた、逸品だ。
そんな気後れしてもおかしくないドレスについて考える余裕が、今日はない。
鼓動が高鳴っているかと思って自分の内に意識を向けるけれど。鼓動も呼吸もおちついている。
自分の覚悟が決まっていることを確信してフレイアは微笑んだ。
そして、城の前で馬車が止まる。
伯爵家の御者が扉を開くと正装したルフェウスが当然のように居て、乗り込んでくる。
「おはよう、とても綺麗だ、フレイア」
「おはようございます、ルフェウス様。メアン達が頑張ってくれました」
「そう言わないで。君はずっと綺麗だよ」
ルフェウスの言葉にフレイアは淡く微笑んだ。
お世辞ではなく本心から言っていることがわかるのはその眼に宿る熱と微かに上気した頬からわかる。
「こんな状況じゃなきゃ王城の庭園にでも誘ってお茶でもしたいくらいだ」
「ふふ、こんなドレスでは汚すのが怖くて寛げませんよ」
「そうだね、いまはコルセットもあるしせっかくなら気楽な格好でまたどこかに出かけてもいいね」
ルフェウスの言葉にフレイアは曖昧に微笑んだ。
いまはきっと、口数が少なくても、言葉を濁しても不自然ではない。
「ひどいことにはならないし、させないからね」
不安を感じていると思ったのだろう。
ルフェウスが手を握ってくれる。
馬車はゆっくりと進む。
そのぬくもりにそっと応えるとルフェウスが見覚えのあるビロードの箱を取り出した。
ウルカンが託してくれた憑依を防ぐ、耳飾りだ。
「綺麗ですね」
馬車の柔らかな光の中で耳飾りを見たフレイアは偽らざる本音を零した。
光が滴るように見えるほど瑞々しい宝石に、優しい煌めきを映えさせ揺れるたびに散らす、触れれば切れそうなほど細い、白銀の繊細な鎖。
「あぁ、君を護るものだ……付けてあげるよ」
そう言いながらルフェウスは耳飾りを取って促してくる。
流石に気恥ずかしさを感じながらフレイアはそっと首を傾けた。
ルフェウスのすらりとした指が耳殻に触れ、耳朶に小さな金属が食い込む感覚。
知らず止めていた息を吐くとルフェウスと目が合った。
今日……これから自分は死ぬ。
ルフェウスとこんなにも傍で言葉を交わすのもこれが最後。
黙って……誰に対しても何も言わないまま、自分は微笑んで死ぬのだ。
この、直向きにこちらを見つめて微笑んでくれる綺麗な人を、生涯置いていく。
長い長い孤独の中に。幸せになって欲しい、と自分勝手な願いだけを残して。
「ありがとうございます、ルフェウス様」
微笑むと何故か、ルフェウスが言いようのない、焦ったような、怖がるような顔をする。
何か、漏れてしまっただろうか、とひやりとするものの。
もう決めたことなので自分は後戻りしないのだとフレイアはただ笑みを深めた。
馬車の外にはうつくしい庭園の風景。
薔薇が咲き乱れ、木々が色づいた葉を風に舞わせながら、冬を待つように佇んでいる。
馬車はもう止まるだろう。
間もなく自分は自分の足で歩き始める。
「フレイア……」
不安そうなルフェウスの声に応えるように微笑むと縋るように手を握られたので握り返した。
そして馬車が止まる。
ルフェウスがもう一度、そっと手を握ってから馬車を降り、そつなくエスコートしてくれる。
隣を歩きながらフレイアは自分の心が体の中心に定まったのを感じた。
もう何も怖くない、と思いながら。
きっと母も同じだったのだろうとなんとなく確信した。
庭園のそばにある離宮に足を踏み入れる。
満ちていた花の匂いがゆっくりと押しやられ、爪先から震えがくるような感覚に足取りは自然と重くなる。
離宮から臨む庭園はどこから見ても天国のようなのに。
離宮に等間隔に佇む女官達の顔には生気がない。
息をひそめるような空気が余計に離宮の中の空気を重くしている。
突き当りの扉の前にはメアン……いいやメリナが立っていて。並び立つルフェウスとフレイアを見て仄かに微笑んだ。
お二人とも綺麗ですよ、と声に出さずとも伝わってくる表情に思わず場違いな笑いがこみ上げてくるけれど。重厚な扉を前にするとその感情もすっと凪いでいく。
「ルフェウス殿下、並びに婚約者であらせられるフレイア・ルーンベル伯爵がお越しです」
メリナが声を出す。
庭園から切り離されたように離宮の中が静かだからだろう。
その声はやけに大きく響いた。
「入れ」
室内から、女性の声が返ってくる。
ゆっくりと重厚な扉が開き。うつくしい紗が幾重にもかかった、室内が見えた。
同時に押し寄せてくる酒精にフレイアは思わず息を詰めた。
甘く、苦く、かぐわしいのに肺の奥に纏わりつくような香りはこんな状況でなければ酔いしれるほどの良い香りだったのかもしれない。
けれど今はそのすべてが本能的な嫌悪と恐怖を喚起した。
扉の向こうの謁見室は広かった。
天国のような庭園の風景と光を取り込む窓からは光が差し込んでいて。
紗を透かした光が室内を柔らかな光で満たしていた。
そこに、場違いなものがある。
豪奢な寝台だ。
寝台には女がひとり、腰かけている。
髪を結わず、正装はおろか、肌すら露わな女。
不摂生の結果だろう。
痩せていて目は落ちくぼみ、酒精を漂わせている。
蜘蛛を思わせる手が酒瓶を掴んで傾ける。
琥珀色の液体が女の口から溢れて浮いた鎖骨に溜まるのが見えた。
「お前がルミルの娘、フレイアか」
ちらりとこちらを一瞥した女……エウロ妃に憑いたメナーディアが声を上げる。
「お初にお目にかかります、エウロ妃殿下」
フレイアはむせ返るような酒精を堪えながら、カーテシーを返す。
「正直私はお前のことなどどうでもいい。『私の息子』と結婚するなら好きにすればいい。子を孕む、それだけ成し遂げればな」
こちらを一瞥したきり、エウロ妃はこちらを見もせずにそう言い放つ。
フレイアはそっと一歩を踏み出した。
傍らに佇んでいるルフェウスが慌てたようにこちらを見つめるのがわかる。
一歩、一歩。傍に寄り。
とうとう紗の向こうの寝台に腰かけるエウロ妃……いいやメナーディアが見える位置まで来る。
此方からメナーディアが見えているということは。メナーディアからも自分が見えているということだ。
「お久しぶりですね」
フレイアは微笑んで。そっと耳飾りに手をかける。
ちいさく、繊細な耳飾りを掌の中におさめる。
最後に耳に触れられた、ルフェウスの手の感覚が蘇って。また、場違いな気恥しい気持ちになりながら、為すべきことを成そうとする。
「九年前のことを憶えていませんよね?」
「フレイア」
背後からルフェウスの声がする。
咎めるような、戸惑うような、懇願するような?
いったいルフェウスはどんな顔をしているのだろう。
わからないことが怖くて、救いでもあった。
「戯言を。面倒だ、殺すぞ」
フレイアはメナーディアの言葉に微笑む。
「あなたは神様じゃない」
声に出す。
魔力が反応するけれど、損耗している感覚はない。
確かに母は、この存在から神という座を剥奪したのだ。
「あ……ぁぁあ……あぁぁああ……」
不意にメナーディアがこめかみを押さえて呻く。
「フレイア!」
引き留めるように、後ろから肩を掴まれる。
その手のぬくもりにフレイアは微笑んだ。
緊張の為か、いつの間にか自分の手は冷えきっていて。それを恥ずかしく思いながらもフレイアはメナーディアを見下ろした。
「訳のわからない小娘が……ちょうどいい。この『身体』ももう限界だ。お前は『ギフト』を持たず魔力だけは豊富だそうだな。死ぬ運命にある、取るに足らないルミルの娘……その身、私に差し出すが良い!」
そして。寝台の上で叫んだエウロ妃が倒れ。酒瓶と共に絨毯の上に無造作に転がる。
悲鳴を上げた侍女たちが駆け寄る様を見ながら。
フレイアは掌の中に握り込んだ耳飾りの硬い感触を感じながら……心の底から笑った。
途端に肩が重く、重くなって。思わず膝をつく。
膝をついた痛みも。ルフェウスの焦った声も遠くて。
まるで抗いがたい眠気に苛まれた時のように意識が消えそうになるのを……どうにか堪える。
呼吸を続けても止めても入り込んでくる感覚は止まらない。
胸の奥を、焼かれるような妄執と融け落ちそうな倦怠感と歪んだ万能感が満たしていく。
自分が、自分ではなくなっていく感覚。
不快。不快。けれど、これがいつものこと。
はは、と笑う。口端が、つりあがるのがわかった。
私が、消えて。私が、なくなる。取られる。奪われる……
何かを握り込んだ掌が燃えるように熱くて。思わず手を振ると煌めきながらふたつの耳飾りが硬い、微かな音を立てて転がった。
光を受けて耳飾りが輝く。
蒼穹を思わせるうつくしい蒼。優しく繊細な輝きの、白銀。
大好きな……ふたりの色。
お母様。
ルフェウス様。
「メナーディア」
声を出す。
膨大な魔力を、乗せる。
それだけで神経が末端からはじけ飛ぶようなおぞましい感覚がある。
ああいまはすべて、じぶんのもの。
すべてはいま、主導権を握った、じぶんのもの。
そうだ。自分が自分ではなくなる前に。自分は為すべきことを成す。
このために……愛してくれる人も、信じてくれる人も、支えてくれる人も裏切ったのだから。
「あなたは私と一緒に死ぬのよ」
そして。
『ギフト』は発動した。
なにもかもがぶつかって、凪いでいく。
力なく床に倒れながら何を言っているのか感じ取れないけれど、こちらを見て叫び、肩を支えるルフェウスを仰ぎ見る。
それだけで、胸の奥の、硬い殻にひびが入って。
ずっと押し込めて、気づかないふりをしていた感情が溢れてくる。
ああ。私は……ちゃんと……ルフェウス様を……
気づいて微笑む。
ずっとみていたいのに、ルフェウスの顔が暗く、視界が閉ざされ……
そして。何もかもが無明の闇に落ちていった。
【第一章 完】
ここまでお付き合いいただき、誠にありがとうございます!
これにて第一章 完となります
間を開けず第二章に取り掛かりますのでお付き合いいただけると嬉しいです
ハッピーエンド野郎なのでそれだけ信じていただけたら……




