かつての自分に
森が朝日を浴びて、少しずつ温もりを帯び始めていた。
湿った土と木々の香りが漂う静かな野営地。
焚き火の跡には白い灰が残り、身支度を整える音だけが静かに響いていた。
アイオンはバッグを背負い、腰の双剣を確かめてから立ち上がる。
ふと傍らに視線を送ると、ジーナが黒の外套を羽織りながら、朝の冷気を払うように腕をさすっていた。
少しの沈黙ののち、アイオンが口を開く。
「…あの、ジーナ。ひとつ、お願いがあるのですが」
「ん? なに?」
ジーナは軽く首を傾げた。その表情には疲れも残っていたが、明るさがあった。
「今回のこと…できれば、“ヒュドラと賊が争って、その隙に救出された”ということにしてくれませんか?」
「…え?」
ジーナがまばたきをする。
「正直、目立ちたくないんです」
アイオンは視線を落とし、言葉を選びながら続ける。
「いろいろと、偶然や幸運が重なっての結果です。…それを実力のように扱われるのは、正直、恥ずかしいですし」
ジーナはしばらく黙ったまま、アイオンの顔をじっと見つめていた。
「あれだけのことをやったのに? …飾り物の王族でも、命を助けたとなれば報酬はあるし、評価もされるわよ?」
「いりません。そんなのが目当てでやったことでもないですし…分不相応です」
「そんなこと、絶対にないでしょ」
なおも納得できない様子のジーナ。
――どうにか説得しなければ。
「…では、こうしていただけませんか? そういった評価や報酬が必要なら、ぜひフィギル子爵に渡していただきたいんです」
「え? …なぜ?」
「あの方の政策で、領地は活性化し始めていました。それは国にとっても、オルババ村にとっても恩恵がある。…ですが今回の騒動で、彼は責任を問われる立場になってしまった。代わりの領主が来る可能性が高いでしょう?」
ジーナは腕を組み、少し考えてから答える。
「…そうね。私が助かったとしても、攫われたという失態は消えない。最悪、爵位を剥奪される可能性もあるわ」
(――引っかかった)
「それは困ります。今回の街道整備で、確実に領民の生活は良くなっています。たしかに政策を逆手に取られ、賊の侵入を許したのは落ち度ですが…この地方は長らくフィギル家が治めてきたんです。突然変わってしまえば、領民は戸惑います」
本音を言えば、フィギルがどうなろうと興味はなかった。
ただ、ジーナを納得させられればそれでよかった。
「それに…あの護衛団の中にも、略奪行為に加担していなかった者がいたと聞いています。とはいえ、ジーナの護衛を任されていた以上、罰を逃れるのは難しい。全員が同様に罰せられるのは、あまりに理不尽です」
俯き、視線を下に向けながら、静かに続ける。
「だからこそ、“フィギル子爵の指示で護衛団が助けに来た”という筋書きが最善なんです。ガーリンらの処分は避けられないでしょうが、声を上げられなかった者たちは救われます」
そして、目線をジーナに向け、まっすぐに目を合わせる。
「ヒュドラと賊が争っている中に、子爵の指示で護衛団が乱入。冒険者の力も借り、なんとか討伐に成功、ジーナ殿下を救出した。――それを王家に報告すれば、俺の名前は出ないはずです」
「…彼らが了承するかしら?」
「させます。幸い、ライアというB級冒険者がいます。彼女なら、未成熟なヒュドラを抑えられてもおかしくありません。…第一、護衛団は死刑の可能性が非常に高い。命が助かる可能性が上がるとなれば、受けるはずです」
ジーナは悩んだように目を伏せる。
たしかに、フィギル子爵も領主の座に留まれる可能性が出てくる。
ガーリンらも、最悪でも除籍処分で済むかもしれない。
声を上げられなかった2人の護衛も、処分されずに済むだろう。
「…あなたは、それでいいの? あなたがしたことを、私しか知らなくても…」
(きた!)
「もちろんです。ジーナ…あなたが知っていてくれるなら、それで十分です」
アイオンはジーナの目の前に一歩進み出て、
赤くなった彼女に気づかずに跪き、そっと手を取る。
「それに、ひとつ秘密が増えるだけです。どうか、お願いします――ジーナ」
「わかったわ! わかったから、離れて!」
慌ててアイオンから距離を取るジーナ。
背を向け、なにかを考えるように沈黙したあと、決意したように振り向く。
片目をつぶり、胸の前に指を一本立てて言う。
「わかったわよ。私とあなたの、2人だけの秘密ってことにしましょう」
「ありがとうございます! 恩に着ます!」
(…勝った! やっぱり、こういうのは淀みなく畳みかけるのが正解だ!正直、自分でも何言ってるのか途中から分からなかったけど…ジーナが納得したならセーフ!)
アイオンは心から安堵したように頭を下げた。
ジーナはその姿を見て、くすっと笑う。
「秘密が増えていくわね。…まあ、悪くないけど」
問題は解決した。
ジーナは新女神教と関わりのある王族。
女神との繋がりを少しでも疑われたら、大きなマイナスになる。
「本当は、秘密なんてない方がいいんですけどね…。護衛団への説得はフィギル子爵に任せましょう。レア様とベティさんにも協力してもらえたら、村の人達は理解してくれるはずです」
森の外の方へ目を向ける。
「そろそろ行きましょう。慎重に、外に向かいます」
「…エスコートは、なし?」
「何が出てくるかはわかりません。まだ安心はできませんから」
「…残念。行きましょう」
二人は静かに野営地を後にした。
朝の光が木々の隙間から差し込み、濡れた草を照らす。
鳥たちのさえずりが、ようやく一日の始まりを告げていた。
#
夕刻の光が、森の隙間から斜めに差し込んでいた。
木々の背が徐々に低くなり、湿り気を帯びていた空気が乾いた風へと変わっていく。
――森の出口は、もうすぐだ。
ジーナは黙ったまま歩を進めていた。
午前の軽口とは打って変わって、ここしばらく言葉は少ない。
だが、歩みが鈍いわけではない。
その背筋はまっすぐで、気品が自然と滲んでいた。
それでも――その横顔には、どこか影が差していた。
アイオンはしばらく迷った末、口を開いた。
「…緊張していますか?」
ジーナは少し驚いたように目を見開いたが、すぐに頷いた。
「――ええ。王都に戻れば、また“飾り物の王女”に戻るから」
そう呟いた声は、わずかに震えていた。
「『無事で何よりでした』『ご安心ください、王女殿下』…皆そう言うでしょうけど、内心ではどうでもいいと思っているの。…あそこは、私に興味なんてない」
アイオンは足を止め、ジーナに向き直った。
夕日に照らされたその瞳は、まっすぐだった。
「――ジーナ。あなたは、飾り物なんかじゃありません」
ジーナが、はっとしてアイオンを見る。
「少なくとも、俺の中では、ですけど」
ジーナの口が、わずかに開いた。
「でも、俺だけじゃないはずですよ。あなたのことを、ちゃんと見ている人は」
夕陽がジーナの頬に当たり、柔らかな影をつくる。
「…たぶん、また大変な日々が始まるんでしょう。でも、俺は信じています。あなたなら、ちゃんと前を向いて歩いていけると。流されず、誤魔化さずに。…だから、どうか、自分を諦めないでください」
思い出したように、アイオンは言葉をつなげる。
「“ただ息をして、時間を過ごすことを『生きる』とは言わない。何かを得て、何かを失って、心が揺さぶられる…それが『生きる』ということだ。その結果、夢を見なくなったとしても――”」
そして、微笑みながら告げる。
「――お互いに、自分の人生を生きましょう。来世なんていらない。と、死ぬ時に胸を張って言えるように」
しばしの沈黙。
ジーナは、そっと笑った。
どこか寂しげで、けれど優しい笑みだった。
「…不思議ね。こんなに安心できる言葉、誰もくれなかったのに」
アイオンは少し頬をかき、照れくさそうに目を逸らす。
「…余計なお世話でしたね」
「いいえ。――とても、嬉しかった」
ジーナが、足元の小石を蹴るように軽く歩き出す。
「…ありがとう、アイオン。あなたがいてくれて、本当によかった」
その背に聞こえない声でアイオンは呟く。
「…なら、よかったです。昔の自分を、助けられたようで…」
風が抜ける。
開けた空が、木々の先に見えてきた。
森の出口――帰還の先が、すぐそこにあった。




