その顔が
朝靄がまだ地面を這う頃、オルババ村の門が静かにきしんだ。
ライアを先頭に、イザークたち四人が姿を現す。
五人とも目立った怪我はない。
しかし、衣服の端には乾いた血がこびりつき、背負った荷物はずっしりと重そうに肩へ食い込んでいた。
夜通し歩き続けた疲労も隠しきれず、誰もがどこかくたびれた顔をしている。
門の見張りに立っていたロッチとボブは、帰還した一行を見て目を丸くした。
「随分とお疲れだな」
ロッチの声に、ライアは片手を軽く挙げて応じる。
「ただいま。子爵たちは今どこにいるかわかる?」
「教会です」
「そう。ありがとう」
礼を告げたライアは、後ろを振り返ってイザークたちに尋ねた。
「あなたたちはどうする? 一緒についてくる?」
ほとんど休むことなく歩き続けてきた四人の顔には、さすがに疲労の色が濃い。
できることなら、一刻も早く身体を休めたいところだろう。
イザークは少し考えてから、仲間たちへ視線を向けた。
「俺が行くよ。三人は先に休んでてくれ。ライアさんだけじゃ、子爵も話を信じねーだろうしな。一緒に報告しとく」
「わかったわ。じゃあ、私たちは休ませてもらうわね。ウルとオニクは、イザークが借りてる家でいいわよね?」
「……どこでもいいよ」
「俺は湯浴みしてから休みたいわ」
それぞれに返事をした三人は、どこか気の抜けた笑みを交わし、村の中へと歩いていった。
その背中を見送ってから、ライアは教会の方角へ向き直る。
「それじゃ、行きましょうか」
「おう」
二人も歩き出した。
朝の冷たい空気が、夜通し歩いた身体に心地よい。
疲れは確かに残っていたが、足取りが乱れるほどではない。
何より、村へ戻ったことでようやく一区切りついたという安堵があった。
その途中、二人は荷物を抱えて歩いてくるカーラと出くわした。
「あ、イザーク。ライアさんも」
「ずいぶん朝早くから動いてるのね」
「それ、何だ? 飯か?」
イザークの視線が、カーラの腕に抱えられた荷物へ向く。
「ああ。森の前にいる自警団の人たちに渡す朝食だよ。交代要員が出発する前に用意しなきゃならないからね」
そう答えたカーラは、ふと思い出したように二人の顔を見比べた。
「……あのさ、アイオンに会った?」
その問いに、ライアはわずかに表情を和らげた。
「会ってはいないわ。でも、たぶん無事よ。今日中には戻ってくると思う」
「本当ですか!? どうして、会ってないのにわかるんです?」
驚くカーラの反応は当然だった。
しかし、そう聞かれても、ライアには明確な根拠を示せない。
戦場に残された痕跡から導き出した推測と、冒険者として培ってきた勘。
それらを合わせた結果、アイオンは生きていると確信しているだけだ。
とはいえ、正直に勘だと答えたところで、納得してもらえるとは思えなかった。
「俺たちが捜索してて、無事に切り抜けたと思える痕跡があったんだよ。ただ、まだ周りには広めんなよ? まずはフィギル子爵に報告してからだ」
イザークが、さりげなく話を引き取った。
カーラは少し考えるように二人を見つめたあと、こくりとうなずく。
「わかった。じゃあ、私は行くから!」
それだけ言い残すと、朝食を届けるために足早に去っていった。
その背中を見送りながら、ライアは小さく息を吐いた。
「助かったわ。あの目で見られたら、勘だなんて言えないもの」
「あいつ、アイオンのことになると怖いからな。下手なこと言ったら、こっちが問い詰められそうだ」
イザークは苦笑し、再び教会へ向かって歩き出す。
「さっさと報告を済ませて、俺たちも休もうぜ」
「そうね。さすがに私も、そろそろゆっくりしたいわ」
ライアもその後に続いた。
疲労は隠しようもなかったが、二人の足取りには迷いがない。
あとは、アイオンとジーナが無事に帰ってくるのを待つだけだった。
#
教会の扉を開けると、レアとベティがすでに起きており、奥の祭壇を清めていた。
扉の音に気づいたレアが振り返り、帰還した二人の姿を認めて目を見張る。
「あら、おかえりなさい」
「ただいま」
ライアは短く答えると、肩に食い込んでいた荷物をそっと床へ下ろした。
中に入っているのは、ヒュドラから採取した貴重な素材だ。
持ち帰るために厳重に包み、瓶詰めにした内臓もある。
ベティが二人のそばへ歩み寄り、荷物へ視線を落とした。
「お疲れ様でした〜。ライアさんもイザークさんも、大変でしたね〜。……ところで、それは何です〜?」
「それも含めて、子爵に報告したいの。まだ休んでいるようなら、起こしてもらえる?」
ライアがそう頼んだ直後だった。
まるで話を聞いていたかのようなタイミングで、教会の入口から足音が響く。
現れたのはフィギル子爵だった。
寝間着の上から外套を羽織っただけの姿だが、二人の帰還を目にすると、すぐに事情を察したように近づいてくる。
その顔には、ここ数日まともに休めていないことがはっきりと表れていた。
「戻ったか。……王女の姿がないということは、見つけられなかったのか」
ライアは静かにうなずいた。
「ええ。私たちはね。でも、じきに戻ってくるわ」
「それは、どういう意味だ?」
フィギルの眉間に深い皺が刻まれる。
行方不明の王女は、まだ見つかっていない。
それなのに、ライアはまるで無事が確定しているかのように話していた。
彼女はそんなフィギルの反応を気にする様子もなく、軽く肩をすくめる。
「こっちが聞きたいくらいよ。ただ、森の中で痕跡を見つけたの。川の分岐点でね」
そう言って、隣に立つイザークへ視線を向けた。
「え? ああ、そうそう。大きな川から村の方へ分かれる支流があるだろ? そこの近くに、こいつがいたんだ」
イザークは背負っていた荷物を下ろし、中から瓶詰めを取り出した。
その中には、見慣れない禍々しい色をした内臓が収められている。
「……何なの、これ?」
レアが思わず声を漏らした。
隣のベティも、フィギルも、瓶の中身を見つめて怪訝そうに顔をしかめる。
そんな三人を前に、イザークは妙に得意げな笑みを浮かべた。
「驚くなよ? ――ヒュドラの内臓だ! めちゃくちゃ高く売れるぞ!」
「「「え?」」」
三人の声が重なった。
ライアが補足するように説明を加える。
「未成熟な個体だったけどね。討伐は済んでいたわ。近くには賊の死体もあったから、そちらも片づけてきた。残ったヒュドラの死骸は焼いて埋めておいたけど、念のため、村人にはしばらく近づかないように伝えておいて」
「そんな化け物まで野に放していたのか、あの賊どもは……!」
フィギルの声が怒りに震えた。
賊が村の近くに潜伏していたことだけでも問題だった。
そこにヒュドラまで加われば、被害はどこまで広がっていたかわからない。
ライアは険しい表情で続ける。
「もし成長したヒュドラが南の森だけでは満足できず、外へ出ていたら……この村なんて、あっという間に滅ぼされていたでしょうね」
「こ、怖いですよ〜……。まだ、ほかにもいるんじゃないでしょうか〜?」
レアとベティの顔に不安が広がる。
フィギルはすぐさま踵を返し、教会の外へ向かって声を張り上げた。
「ミリオン! 村長宅へ走れ! バルナバに伝令を! 冒険者ギルドに、領地全域の緊急探索を依頼する。これまで確認されていない魔物の発見を最優先とし、発見しても戦闘は避けるよう伝えろ!」
「はっ!」
呼びかけに応じた私兵長のミリオンが、すぐさま駆けていく。
指示を終えたフィギルは、改めてライアたちへ向き直った。
「それで、このヒュドラを倒したのは誰だ? 君たちか?」
ライアは小さく笑い、首を横に振る。
「違うわ。さっきも言ったでしょう? 私たちが見つけた時には、すでに討伐されていたのよ。それに、王女の姿もなかった。だから、誰かに助け出されて、今はその人物と一緒にいるんじゃないかと考えたの」
「……君以外に、そんなことができる者がいるというのか?」
フィギルは理解できないといった顔で、瓶詰めとライアを交互に見た。
「未成熟とはいえ、B級以上の脅威だぞ。普通の冒険者が相手にできる魔物ではない。そんな相手を倒した者が、王女を連れて森の中にいると? ありえない」
「ね? ありえないわよね」
ライアは同意するようにうなずいた。
「冒険譚の中でしか聞いたことのないような奇跡だもの。……ね?」
そう言って、レアとベティへ意味ありげな視線を向ける。
二人は顔を見合わせ、何かを察したように微笑んだ。
「……なるほどね。修行の成果が出た、ということかしら?」
「傷だらけになっても頑張ってたのに、何の成果もありませんでした〜、なんてことになったら、ライアさんの指導力を疑わなくちゃいけませんからね〜?」
どこか楽しげな二人の様子に、ライアも笑みを深める。
しかし、話についていけないフィギルは、ますます困惑するばかりだった。
「何を言っている? 誰か心当たりがあるのか?」
レアが穏やかな声で答えた。
「この村の住人ですよ。アイオン。子爵も会ったことがあるでしょう?」
「……あの少年が? 馬鹿な!」
フィギルは即座に否定した。
確かにアイオンは、以前、護衛団を相手に圧倒的な力を見せた。
しかし、それとこれとは話が違う。
賊を倒し、さらにヒュドラまで討伐したというのか。
しかも、王女を救い出して無事に連れ帰ろうとしている。
到底、信じられる話ではなかった。
「確たる根拠はあるのか?」
「ないわ。ただの勘よ」
「勘だと? それだけで、君たちは捜索を切り上げて戻ってきたのか? もう探す必要はないと判断したのか?」
フィギルの声には、苛立ちが露わになっていた。
王女の安否がかかっているのだ。
確かな証拠もないまま捜索を打ち切るなど、納得できるはずもない。
だが、ライアは一歩も引かなかった。
「何が起きたのかは、本人たちにしかわからないわ。でも、あの子は無事よ。私にはそう思える。……女神様に誓ってね」
その言葉を聞き、レアが小さく微笑んだ。
「あら? そこまで言ってしまっていいのかしら。もし外れていたら、あなたの食事を抜かなくちゃいけなくなるわね」
「私が間違っていると思う? ねえ、ベティ?」
「いいえ〜。私もライアさんと同じ意見です〜」
二人の返答に、ライアは満足そうにうなずく。
対照的に、フィギルは頭を抱えたくなるような顔をしていた。
「馬鹿馬鹿しい! 納得できる根拠が何一つないではないか!」
声を荒らげるフィギルを、レアが静かにたしなめる。
「フィギル子爵。私たちにできることは、信じて待つことだけではありませんか? ならば、祈りましょう。二人が無事に戻ってきてくれることを」
「そうだぜ、子爵。今のあんたにできるのは、結果を待つことだけだ」
イザークは大きく伸びをした。張り詰めていた空気など気に留める様子もない。
「――てなわけで、俺はもう休ませてもらう。今日中には帰ってくると思うから、あんたも少し休んで待ってなよ。そんな顔してたら、王女様が戻ってきた時に怖がられちまうぜ。それじゃ、ベティさん。また!」
言いたいことだけ言い切ると、イザークは軽快な足取りで教会を出ていった。
その背中を見送ったライアも、申し訳なさそうに肩をすくめる。
「……私も、そろそろ休ませてもらっていいかしら? 夜通し歩いてきたから、さすがにクタクタなの。湯浴みもしたいし」
「はい〜。いつ戻られてもいいように、お湯は温めてありますから〜」
「ありがとう。じゃあね、フィギル」
ライアはひらりと手を振り、教会の奥へと姿を消した。
残されたフィギルは、しばらく何も言わずに二人の去った方を見つめていた。
「……馬鹿げている。多少腕が立つ程度の少年が、そんなことを成し遂げた? どうして、そこまで信じられるのだ……」
こぼれ落ちた呟きに、レアとベティは答えなかった。
ただ、顔を見合わせて微笑むと、何事もなかったかのように祭壇の掃除へ戻っていく。
レアは手元の布を動かしながら、そっと祭壇の奥を見上げた。
そこには、穏やかな微笑みを浮かべる女神像があった。
(……きっと平気。ですよね?)
胸の内で問いかけながら、レアは再び女神像へと目を向ける。
その微笑みは、いつもと変わらなかった。
#
――同時刻。
空がわずかに白みはじめ、野営地を囲む木々が朝風にそよいでいた。
枝の間から小鳥の囀りが聞こえてくる。
アイオンは、自然と浅い眠りから意識を浮かび上がらせた。
焚き火はほとんど燃え尽き、灰の中に残った熾火が、かすかな赤みを保っている。
細い煙が立ちのぼり、冷えた空気の中へゆっくりと溶けていった。
隣では、ジーナが穏やかな寝息を立てていた。
昨夜までの緊張が嘘のように、寝顔には安らぎが浮かんでいる。
眉間に刻まれていた不安の名残も、今は見当たらなかった。
(よく眠れてるみたいだな)
アイオンは起こさないよう注意しながら上体を起こし、周囲へ意識を巡らせた。
魔物の気配はない。
深夜にも一度、野営地の周辺を確認している。
その時も異常はなかったが、夜が明けるまでは油断できなかった。
幸い、森は今のところ静けさを保っている。
アイオンは焚き火のそばに置いていた水袋を手に取り、喉を潤した。
冷たい水が乾いた喉を通り抜ける。
顔を上げると、草葉に残った夜露が淡い朝の光を受け、ところどころで小さく輝いていた。
(そろそろ起こすか)
今日中には村へ戻りたい。
アイオンは水袋を元の場所へ戻すと、ジーナのそばに膝をついた。
声をかけようとして、ほんの少しだけ手を止める。
彼女は王女だ。
本来なら、こんな森の中で地面に身を横たえ、焚き火の残り火を頼りに眠るような立場ではない。
身の回りを整える者がいて、食事も寝床も不自由なく用意される。
それが、彼女にとって当たり前の日常だったはずだ。
けれど、今こうして眠っている姿を見ていると、そんな身分の違いさえ、どこか遠い話のように感じられた。
アイオンは小さく息を吐き、そっと彼女の肩に手を添える。
「ジーナ、起きてください。朝ですよ」
軽く揺すると、ジーナのまぶたがゆっくりと開いた。
「ん……もう、朝……?」
まだ眠気の残る声だった。
「はい。そろそろ出発の準備をしましょう。今日中には村まで戻りたいですから」
「そうね……」
ジーナは数度まばたきを繰り返し、ぼんやりしていた意識を少しずつ取り戻していく。
やがて状況を思い出したのか、アイオンの顔を見て、照れくさそうに笑った。
「そうだったわね。慎重に、だったわ」
「そうです。急いで戻りたいところですが、無理は禁物ですからね。まずは食事をして、それから……必要なことを済ませて出発しましょう」
アイオンは言葉を選びながら、わずかに視線をそらした。
この二日間で、彼は一つ学んでいた。
トイレの話題は、想像していた以上にデリケートだということを。
わざわざ口にする必要はないと。
曖昧な表現にとどめたのだが、ジーナには十分伝わったらしい。
「……そうね。いろいろと」
彼女もまた、少しだけ視線を泳がせながらうなずいた。
短い沈黙が二人の間に落ちる。
気まずさを感じたのは、ほんの一瞬だった。
これまでの二日間を思い返せば、互いに気を遣う場面などいくらでもあった。
けれど、それももうすぐ終わる。
今日、村へ戻れば、ジーナは再び王女としての生活に戻る。
アイオンもまた、自分の暮らしへ帰っていく。
それぞれの場所へ戻れば、今のように二人きりで過ごす時間は、そう簡単には訪れないだろう。
そのことに気づいたジーナの胸に、名残惜しさがそっと広がった。
(……攫われてよかった、なんて思わない)
あんな恐ろしい目に遭いたかったわけではない。
死ぬかもしれないと思った。
何もかも失うのだと絶望した。
助けを求めることさえできず、自分の無力さを思い知らされた。
それでも――。
ジーナは、食事の準備を始めたアイオンの横顔を見つめた。
少年の顔立ちは整っていて、どこか少女めいている。
けれど、その姿からは想像もつかないほどの強さを秘めていた。
自分の命を顧みずに戦い、どれほど傷ついても立ち上がり、最後まで生きようとしていた。
その背中を、ジーナは忘れられそうになかった。
(でも……)
肉とキノコを焼くため、アイオンが焚き火のそばで手を動かしている。
その何気ない姿を眺めながら、ジーナは胸の奥に生まれた想いを確かめるように、静かに目を細めた。
(この人と一緒にいた、この二日間が……私の人生で、一番――)
言葉にするには、まだ少し恥ずかしい。
けれど、心の中には確かな実感があった。
自分で何かを選ぶことも、誰かと本音を交わすことも、ただ明日を楽しみにすることさえ、これまでのジーナには遠いものだった。
それが、この二日間にはあった。
恐怖も、苦しさも、命の危険さえもあった。
それでも、アイオンと過ごした時間は、彼女がこれまで生きてきたどんな日々よりも鮮やかに感じられた。
――輝いて見えた。




