表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
72/152

二人の夜

洞窟の中には、微かな風と、岩肌を伝う水の滴る音だけが響いていた。


アイオンは荷物を開き、中の保存食を取り出す。


「やっぱり駄目ですね」


干し肉も乾パンも、ナリアから渡されたクッキーも、水を吸ってぐずぐずになっていた。


バッグの底には濁った水が溜まり、もう食べられる状態ではない。

瓶詰めの回復薬は無事だったのは救いだが、本数は心許ない。


「ちょっと外に出ます。何か食べられるものがないか、探してきますね」


そう言って立ち上がったアイオンは、ふとジーナの方を見る。

彼女は洞窟の隅で座り込み、濡れた服の裾をそっと握っていた。


「火、起こしておきますね」


手早く火打ち石と麻糸を取り出す。

入口近くに積んであった乾いた枝を掴み、石を打つ音が洞窟に響く。


火花が走り、すぐに細い糸に火が移る。

小枝へ、そして少し太い薪へと、炎は順に広がっていった。


やがて、ぽうっと暖かな光が洞窟の中を照らす。


「これで少しは楽になるはずです。服、絞って乾かしておいてください。まだ体が冷えているはずですから」


ジーナは驚いたように彼を見つめたが、やがて小さくうなずいた。


「…ありがとう」


アイオンは何も言わず、入り口の方へと歩き出す。

その前で一度だけ振り返り、静かに言った。


「すぐ戻ります。何かあっても、火のそばから離れないように。それでは」


そう言い残し、アイオンは岩の裂け目をくぐって森の中へと消えていった。


洞窟には、焚き火の赤い光が静かに揺れていた。

ジーナはじっと火を見つめ、濡れた袖にそっと手を当てる。


火のぬくもりが、少しずつ身体に戻ってくる。


やがて、アイオンが消えた入り口の方へと視線を向けた。

蔦が揺れ、外の光が遮られ、洞窟はやや薄暗くなる。


だが、その暗さはなぜか――ほんの少しだけ安心を運んでくれた。



蔦を下ろし、岩の裂け目を抜けたアイオンは、ひんやりとした森の空気に小さく息をついた。


夕暮れはすでに終わり、あたりは淡い闇に包まれはじめている。


(まずは、撹乱からだな)


これまでの地形を思い浮かべながら、素早く乾いた枝葉をかき集める。

火は目立つ――ならば、それを逆に利用する。


洞窟から離れた茂みの中、目立ちにくい場所を選んで、いくつかの焚き火の支度を整える。

火打ち石を使い、それぞれに火を点けていく。


ぱち、と乾いた音と共に、小さな炎が次々と闇の中に浮かび上がった。


(これで、追っ手も多少は混乱するはずだ)


風下に煙が流れるように配置された焚き火は、洞窟とは無関係の方向を示している。


十分な数を確認すると、アイオンは静かに立ち上がり、今度は食料の確保に移った。


夜行性の魔物が動くにはまだ早い。

だが、木の根元には果実の実った低木があった。


(…悪くない)


熟しすぎていない実をいくつか摘み、慎重に香りを確認する。

毒性なし。形も匂いも記憶にある安全なものだ。


さらに奥へ進み、朽ち木の下に小さなキノコの群生を見つける。

これも安全圏内。

女神に与えられた知識に感謝する。


(とりあえず、今夜と明日分は確保できたか)


果実、キノコ、山菜。

水は、洞窟に滴る岩清水で賄える。


一通りの採集を終えると、アイオンは一度振り返り、火を灯した一帯を確認した。

煙は風に流れ、闇の中でかすかに揺れていた。


(…しばらくは持つ。その間にオルババ村に戻る)


再び静かに森の中へ戻っていく。



蔦を押し分け、洞窟の中へ戻ると、焚き火の炎がほのかに揺れていた。


その火のそばに座るジーナが、背を向けて膝を抱えている。

肩越しに、岩壁に干された濡れた服が見えた。


(…あ)


アイオンは、思わず半歩だけ立ち止まった。

ジーナは下着姿だった。


衣服はすべて干され、布地の薄い肌着だけを身にまとっている。

焚き火の赤い光が、彼女の白い背中と首筋をほのかに照らしていた。


気まずくならぬよう、あえて平然とした声で告げる。


「戻りました。火の番、ありがとうございます」


ジーナが少しだけ肩をすくめた。


「そっち向いてて。…今、着替えるから」

「了解です」


アイオンは即座に背を向ける。

後ろでは、服を手に取る音と、濡れた布と格闘する気配が続いていた。


だが――


「っ、ちょっと!」

「どうかしました?」


「…ボタンが引っかかって…!」


どうやら乾ききっておらず、うまく通らないらしい。

焦ったような吐息と、もどかしげな呻きが微かに漏れる。


アイオンはため息をひとつこぼし、声をかける。


「手、貸しましょうか?」

「だ、大丈夫…! あっ、来ないでってば!」


ジーナは服を胸元で押さえながら、焚き火の奥へ慌てて身を引く。


アイオンはその手前で立ち止まり、肩越しにそっと目をそらした。


「見てません。というか、見るほど興味もないのでご安心を」

「…あなたって人は…!」


顔を赤らめながら、ジーナは背中を向けて着替えを続ける。


しばらくして――


「もういいわよ」


アイオンが振り返ると、彼女はどうにか服を着直していた。

髪はまだ濡れていたが、表情には少し張りが戻っている。


「すみません。妹の着替えを手伝うことはありましたが…不躾でしたね」


「…妹さん、何歳?」

「もうすぐ9歳です」


「――一緒にしないでほしいわね!」


ジーナの声が、焚き火の奥に響く。


アイオンは笑いをこらえながら、果実とキノコを岩の上に並べた。


「こんな物で申し訳ありませんがご容赦を。文句は受け付けません」

「…ええ、もう十分よ」


ジーナはむくれた頬のまま、そっと果実に手を伸ばした。

焚き火が静かに揺れ、湿った衣服が少しずつ乾いていく。


小さなハプニングの名残が、わずかな距離感と照れ臭さとして、二人の間に残っていた。


だがその空気も、やがて落ち着いた夜の静けさに溶けていった。



焚き火は静かに揺れていた。

夜の空気はひんやりと冷たく、洞窟の中にも薄く湿り気を運んでくる。

だが、火のそばだけは、やわらかなぬくもりに包まれていた。


アイオンは岩に背を預け、ぼんやりと炎を見つめていた。

その向こうで、ジーナがぽつりと呟く。


「――私に価値なんてあると思う?」


アイオンは目を動かさず、静かに応じた。


「どういう意味です?」


「…昔からずっと、“必要のない飾り物”としてしか扱われなかったの。何を言えばいいのか、どう振る舞えばいいのか、どう笑えばいいのか――全部、否定されてきた。私は、“ジーナ”じゃなくて、“役に立たない王族”として育ってきたのよ」


声は淡々としていたが、その奥に滲んだ思いは確かだった。


「何かをしたいと言っても、“する必要はない”って止められて。怒っても、泣いても、笑っても、意味のないものとして扱われる。…私は、ずっと、何者でもなかった」


焚き火に視線を落としたまま、ジーナは続けた。


「それでも、どこかで自分には意味があるって、価値があるって…少しは思えそうだった。でも、“ただの貢ぎ物”なんて言われたら…また全部が空っぽになって、何が残るのか分からなくなる。…自分を受け入れてみよう。って、思えてたのに」


ぱち、と焚き火が小さくはぜる。


「私は、何のために生まれてきたのか――そんなことばかり考えてると、自分が透けていくようで…正直、怖いのよ」


一瞬の沈黙。

そのあと、アイオンが静かに口を開いた。


「…結局は、自分で決めるしかないと思いますよ」

「え?」


ジーナがわずかに顔を上げる。


アイオンの声は変わらず落ち着いていた。


「誰がどう言ったかじゃなくて、自分がどう在りたいか。誰かに“価値がない”って決めつけられても、それを受け入れるかどうかは、自分で決められます。他人の物差しで納得できるならそれでいい。でも、納得できないなら――どうするかを選ぶのは、自分です」


焚き火の光が、アイオンの顔を柔らかく照らしていた。


「…俺が言えたことじゃないですが。…殻に閉じこもっていては、見えないものはたくさんあります。もしかしたら、もうすでに“あなた自身”を見ている人がいるかもしれない。…ただ、それに気づけていなかっただけかも」


ジーナは黙って、彼の言葉に耳を傾けていた。


「人と関わるのは…怖いです。ひとりの方が気は楽だし、受け入れて生きていれば、余計な希望も生まれません。…でも、そうやって“息をして生きるだけ”が本当に望むことなのか?まぁ、それはあなたの自由ですけどね」


その声には、忠告のような、救いのような優しさがあった。


「…まるで、自分はそうだったって言ってるみたいね」

「どうでしょうね。少なくとも、今は違うと言えますが」


「ふふっ…やっぱり変わってるわ、あなた」


ジーナの笑みに、かすかな疲れと、ほんのわずかな温かさが混ざっていた。


「…厳しいのね。旧女神教徒って」


「?」


「女神教――新女神教ではね、“こうすればいい”“これでいい”って道を示してくれるの。“その迷いも女神様の試練だ”って教えられた。だから、悩むんじゃなくて受け入れなさいって。…何年も教えを受けてないけど、最後にそう言われて…それから、諦めてしまったの」


「…間違っても、俺は女神教徒じゃないですけど」


アイオンは苦笑を浮かべた。

それは、どこか皮肉めいていて、少しだけ寂しげで、嬉しそうだった。


「ク…女神はきっと、そんなの鼻で笑うと思いますよ。勝手に“試練”扱いされても困る、と。“自分で決めてこそ人生だ”って、そう言いそうです」


「…まるで、女神が知り合いみたいに話すのね」


ジーナがくすりと笑った。


「……忘れてください」


そう言って顔をそらすアイオンに、ジーナはさらに興味を持ったようだった。


「ねぇ、あなた、いくつなの? 名前しか知らないわ。あなたのこと」

「14です」


「同い年じゃない。…なら、敬語はやめていいわよ」


「すみません。俺、人と話す時は基本的に敬語なんです。あなたにだけ特別というわけじゃなくて」


「…賊にもそうだったわね。じゃあ、“王女”はいらないわ。“ジーナ”って呼んで」


「…不敬罪で捕まりたくないので、遠慮しておきます」


「じゃあ、二人の時だけでいいわ。それなら誰に聞かれても平気でしょ?」


「…前向きに検討し、善処します」

「なにそれ?」


焚き火の灯りが、ふたりの間に残る静けさをやさしく照らしていた。


それは、眠れぬ夜の、ささやかな会話だった。

けれど、その中には、確かに心を揺らすものがあった。


アイオンはゆっくりと立ち上がり、焚き火に薪をくべながら言った。


「…そろそろ、休んでください。しばらくは俺が見張ります。交代で休みましょう」


「…誰に言ってるの?」


「…休んでください。…ジーナ」


ジーナは満足げに小さくうなずき、焚き火のそばに身を沈める。


外の風はまだ冷たかったが、洞窟の中にはかすかな安らぎが灯っていた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ