二人の夜
洞窟の中には、微かな風と、岩肌を伝う水の滴る音だけが響いていた。
アイオンは荷物を開き、中の保存食を取り出す。
「やっぱり駄目ですね」
干し肉も乾パンも、ナリアから渡されたクッキーも、水を吸ってぐずぐずになっていた。
バッグの底には濁った水が溜まり、もう食べられる状態ではない。
瓶詰めの回復薬は無事だったのは救いだが、本数は心許ない。
「ちょっと外に出ます。何か食べられるものがないか、探してきますね」
そう言って立ち上がったアイオンは、ふとジーナの方を見る。
彼女は洞窟の隅で座り込み、濡れた服の裾をそっと握っていた。
「火、起こしておきますね」
手早く火打ち石と麻糸を取り出す。
入口近くに積んであった乾いた枝を掴み、石を打つ音が洞窟に響く。
火花が走り、すぐに細い糸に火が移る。
小枝へ、そして少し太い薪へと、炎は順に広がっていった。
やがて、ぽうっと暖かな光が洞窟の中を照らす。
「これで少しは楽になるはずです。服、絞って乾かしておいてください。まだ体が冷えているはずですから」
ジーナは驚いたように彼を見つめたが、やがて小さくうなずいた。
「…ありがとう」
アイオンは何も言わず、入り口の方へと歩き出す。
その前で一度だけ振り返り、静かに言った。
「すぐ戻ります。何かあっても、火のそばから離れないように。それでは」
そう言い残し、アイオンは岩の裂け目をくぐって森の中へと消えていった。
洞窟には、焚き火の赤い光が静かに揺れていた。
ジーナはじっと火を見つめ、濡れた袖にそっと手を当てる。
火のぬくもりが、少しずつ身体に戻ってくる。
やがて、アイオンが消えた入り口の方へと視線を向けた。
蔦が揺れ、外の光が遮られ、洞窟はやや薄暗くなる。
だが、その暗さはなぜか――ほんの少しだけ安心を運んでくれた。
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蔦を下ろし、岩の裂け目を抜けたアイオンは、ひんやりとした森の空気に小さく息をついた。
夕暮れはすでに終わり、あたりは淡い闇に包まれはじめている。
(まずは、撹乱からだな)
これまでの地形を思い浮かべながら、素早く乾いた枝葉をかき集める。
火は目立つ――ならば、それを逆に利用する。
洞窟から離れた茂みの中、目立ちにくい場所を選んで、いくつかの焚き火の支度を整える。
火打ち石を使い、それぞれに火を点けていく。
ぱち、と乾いた音と共に、小さな炎が次々と闇の中に浮かび上がった。
(これで、追っ手も多少は混乱するはずだ)
風下に煙が流れるように配置された焚き火は、洞窟とは無関係の方向を示している。
十分な数を確認すると、アイオンは静かに立ち上がり、今度は食料の確保に移った。
夜行性の魔物が動くにはまだ早い。
だが、木の根元には果実の実った低木があった。
(…悪くない)
熟しすぎていない実をいくつか摘み、慎重に香りを確認する。
毒性なし。形も匂いも記憶にある安全なものだ。
さらに奥へ進み、朽ち木の下に小さなキノコの群生を見つける。
これも安全圏内。
女神に与えられた知識に感謝する。
(とりあえず、今夜と明日分は確保できたか)
果実、キノコ、山菜。
水は、洞窟に滴る岩清水で賄える。
一通りの採集を終えると、アイオンは一度振り返り、火を灯した一帯を確認した。
煙は風に流れ、闇の中でかすかに揺れていた。
(…しばらくは持つ。その間にオルババ村に戻る)
再び静かに森の中へ戻っていく。
#
蔦を押し分け、洞窟の中へ戻ると、焚き火の炎がほのかに揺れていた。
その火のそばに座るジーナが、背を向けて膝を抱えている。
肩越しに、岩壁に干された濡れた服が見えた。
(…あ)
アイオンは、思わず半歩だけ立ち止まった。
ジーナは下着姿だった。
衣服はすべて干され、布地の薄い肌着だけを身にまとっている。
焚き火の赤い光が、彼女の白い背中と首筋をほのかに照らしていた。
気まずくならぬよう、あえて平然とした声で告げる。
「戻りました。火の番、ありがとうございます」
ジーナが少しだけ肩をすくめた。
「そっち向いてて。…今、着替えるから」
「了解です」
アイオンは即座に背を向ける。
後ろでは、服を手に取る音と、濡れた布と格闘する気配が続いていた。
だが――
「っ、ちょっと!」
「どうかしました?」
「…ボタンが引っかかって…!」
どうやら乾ききっておらず、うまく通らないらしい。
焦ったような吐息と、もどかしげな呻きが微かに漏れる。
アイオンはため息をひとつこぼし、声をかける。
「手、貸しましょうか?」
「だ、大丈夫…! あっ、来ないでってば!」
ジーナは服を胸元で押さえながら、焚き火の奥へ慌てて身を引く。
アイオンはその手前で立ち止まり、肩越しにそっと目をそらした。
「見てません。というか、見るほど興味もないのでご安心を」
「…あなたって人は…!」
顔を赤らめながら、ジーナは背中を向けて着替えを続ける。
しばらくして――
「もういいわよ」
アイオンが振り返ると、彼女はどうにか服を着直していた。
髪はまだ濡れていたが、表情には少し張りが戻っている。
「すみません。妹の着替えを手伝うことはありましたが…不躾でしたね」
「…妹さん、何歳?」
「もうすぐ9歳です」
「――一緒にしないでほしいわね!」
ジーナの声が、焚き火の奥に響く。
アイオンは笑いをこらえながら、果実とキノコを岩の上に並べた。
「こんな物で申し訳ありませんがご容赦を。文句は受け付けません」
「…ええ、もう十分よ」
ジーナはむくれた頬のまま、そっと果実に手を伸ばした。
焚き火が静かに揺れ、湿った衣服が少しずつ乾いていく。
小さなハプニングの名残が、わずかな距離感と照れ臭さとして、二人の間に残っていた。
だがその空気も、やがて落ち着いた夜の静けさに溶けていった。
#
焚き火は静かに揺れていた。
夜の空気はひんやりと冷たく、洞窟の中にも薄く湿り気を運んでくる。
だが、火のそばだけは、やわらかなぬくもりに包まれていた。
アイオンは岩に背を預け、ぼんやりと炎を見つめていた。
その向こうで、ジーナがぽつりと呟く。
「――私に価値なんてあると思う?」
アイオンは目を動かさず、静かに応じた。
「どういう意味です?」
「…昔からずっと、“必要のない飾り物”としてしか扱われなかったの。何を言えばいいのか、どう振る舞えばいいのか、どう笑えばいいのか――全部、否定されてきた。私は、“ジーナ”じゃなくて、“役に立たない王族”として育ってきたのよ」
声は淡々としていたが、その奥に滲んだ思いは確かだった。
「何かをしたいと言っても、“する必要はない”って止められて。怒っても、泣いても、笑っても、意味のないものとして扱われる。…私は、ずっと、何者でもなかった」
焚き火に視線を落としたまま、ジーナは続けた。
「それでも、どこかで自分には意味があるって、価値があるって…少しは思えそうだった。でも、“ただの貢ぎ物”なんて言われたら…また全部が空っぽになって、何が残るのか分からなくなる。…自分を受け入れてみよう。って、思えてたのに」
ぱち、と焚き火が小さくはぜる。
「私は、何のために生まれてきたのか――そんなことばかり考えてると、自分が透けていくようで…正直、怖いのよ」
一瞬の沈黙。
そのあと、アイオンが静かに口を開いた。
「…結局は、自分で決めるしかないと思いますよ」
「え?」
ジーナがわずかに顔を上げる。
アイオンの声は変わらず落ち着いていた。
「誰がどう言ったかじゃなくて、自分がどう在りたいか。誰かに“価値がない”って決めつけられても、それを受け入れるかどうかは、自分で決められます。他人の物差しで納得できるならそれでいい。でも、納得できないなら――どうするかを選ぶのは、自分です」
焚き火の光が、アイオンの顔を柔らかく照らしていた。
「…俺が言えたことじゃないですが。…殻に閉じこもっていては、見えないものはたくさんあります。もしかしたら、もうすでに“あなた自身”を見ている人がいるかもしれない。…ただ、それに気づけていなかっただけかも」
ジーナは黙って、彼の言葉に耳を傾けていた。
「人と関わるのは…怖いです。ひとりの方が気は楽だし、受け入れて生きていれば、余計な希望も生まれません。…でも、そうやって“息をして生きるだけ”が本当に望むことなのか?まぁ、それはあなたの自由ですけどね」
その声には、忠告のような、救いのような優しさがあった。
「…まるで、自分はそうだったって言ってるみたいね」
「どうでしょうね。少なくとも、今は違うと言えますが」
「ふふっ…やっぱり変わってるわ、あなた」
ジーナの笑みに、かすかな疲れと、ほんのわずかな温かさが混ざっていた。
「…厳しいのね。旧女神教徒って」
「?」
「女神教――新女神教ではね、“こうすればいい”“これでいい”って道を示してくれるの。“その迷いも女神様の試練だ”って教えられた。だから、悩むんじゃなくて受け入れなさいって。…何年も教えを受けてないけど、最後にそう言われて…それから、諦めてしまったの」
「…間違っても、俺は女神教徒じゃないですけど」
アイオンは苦笑を浮かべた。
それは、どこか皮肉めいていて、少しだけ寂しげで、嬉しそうだった。
「ク…女神はきっと、そんなの鼻で笑うと思いますよ。勝手に“試練”扱いされても困る、と。“自分で決めてこそ人生だ”って、そう言いそうです」
「…まるで、女神が知り合いみたいに話すのね」
ジーナがくすりと笑った。
「……忘れてください」
そう言って顔をそらすアイオンに、ジーナはさらに興味を持ったようだった。
「ねぇ、あなた、いくつなの? 名前しか知らないわ。あなたのこと」
「14です」
「同い年じゃない。…なら、敬語はやめていいわよ」
「すみません。俺、人と話す時は基本的に敬語なんです。あなたにだけ特別というわけじゃなくて」
「…賊にもそうだったわね。じゃあ、“王女”はいらないわ。“ジーナ”って呼んで」
「…不敬罪で捕まりたくないので、遠慮しておきます」
「じゃあ、二人の時だけでいいわ。それなら誰に聞かれても平気でしょ?」
「…前向きに検討し、善処します」
「なにそれ?」
焚き火の灯りが、ふたりの間に残る静けさをやさしく照らしていた。
それは、眠れぬ夜の、ささやかな会話だった。
けれど、その中には、確かに心を揺らすものがあった。
アイオンはゆっくりと立ち上がり、焚き火に薪をくべながら言った。
「…そろそろ、休んでください。しばらくは俺が見張ります。交代で休みましょう」
「…誰に言ってるの?」
「…休んでください。…ジーナ」
ジーナは満足げに小さくうなずき、焚き火のそばに身を沈める。
外の風はまだ冷たかったが、洞窟の中にはかすかな安らぎが灯っていた。




