南の森③
朝の光が、森の梢の合間から差し込んでいた。
湿った土の匂いと、草木のざわめきが混じる静かな空間。
アイオンはしゃがみ込み、指先で地面をなぞる。
わずかに押しつぶされた下草、削れた苔の跡――
そしてそのすぐ先、落ち葉の間に埋もれていた小さな金属片が、光を反射していた。
(…これは)
拾い上げると、それは青い布地に金の縁取りがついたボタンだった。
間違いない。昨日拾ったものと同じだ。
豪奢ではないが、控えめな装飾が施されている。
(ちぎれて落ちたんじゃないな…引きちぎったんだ)
布ごと剥がされた跡がある。
力任せに引っ張られた証拠。
緊急時か、抵抗したか――あるいは、道を知らせるためか。
(この先に向かったんだな)
そう確信し、立ち上がる。
だが足跡は、少し先で急に乱れていた。
複数の足取りが重なり、枝や葉で痕跡をかき消すようにされている。
(消してるな…しかも、周到に)
その痕跡もやがて完全に断ち切られた。
ただの獣道にしか見えない地形に変わり、風の気配さえ止んでいる。
手詰まりだった。
まるで、ここで追跡を諦めさせるための終着点。
アイオンは目を細め、森の静寂に耳を澄ませる。
遠くの木の葉が、わずかに揺れる音。水の流れるような気配。だが、確信には至らない。
そのとき――
ひらり、と視界の端を白い影がよぎった。
小さな白い蝶だ。陽光を浴びて半透明に輝き、ふわりふわりと宙を舞っている。
蝶は森の奥へと、滑るように飛んでいく。
そして、ときおり振り返るように、ゆるやかに旋回した。
(案内のつもりか…?)
あり得ないはずの直感が、確信のように胸を打つ。
アイオンはわずかに息を整え、蝶の進む方角へと歩を進めた。
雑木の間を抜け、湿った草を踏みしめ、薄暗い木陰の中を黙々と進む。
やがて蝶の姿は消えたが、その先には明らかな“人の痕跡”があった。
地面が踏み固められ、草が押し倒されている。
木の根元には焚き火の跡。消し残った灰が、風に舞っていた。
(野営地…まだ時間は経ってない)
新しい。煙の匂いがかすかに残っている。
物音ひとつない静寂の中、アイオンはわずかに剣へと手を伸ばした。
そのとき――
「誰だ!」
木々の間から怒声が響いた。
振り向くより先に、矢のような影が飛びかかってくる。
双剣の男だ。鋭い踏み込みと同時に、腹部めがけて斬撃を浴びせてきた。
「っ!」
即座に身体強化し、身を消す。
一瞬で姿を掻き消し、背後の木の陰へ飛び退く。
しかし――
「そこだ!」
もう一人の男が、振りかぶった斧を木陰に叩きつけてきた。
ギリギリでかわしながら、地面を転がる。
(見えてる!?)
「その技、甘いな!」
双剣の男が嗤う。
「こいつは“気配読み”が得意でな」
(超速度に対応する…命の取り合いか)
二人は訓練された動きだった。
双剣の男が先手を取り、斧の男が反応して追撃する。 攻守のバランスが取れ、死角のない挟撃。
(数もあっちが上。でも、やるしかない)
次の瞬間、二人が挟み込むように突っ込んでくる。
アイオンはその動きを見極め、一瞬の間を計って跳んだ。
(まず片方を無力化する)
双剣の男の動きがわずかに速い。
先に飛び出してくる勢いに乗じ、アイオンは真正面から切り込む。
「――オラッ!」
振るわれた刃を弾き、反転して背後に回り込む。
男の膝へ、踵を叩き込んだ。
バキィッ――!
鈍い音が響き、双剣の男の脚が逆の方向に折れ曲がる。 悲鳴が上がるより早く、さらに追撃。
アイオンの剣が、男のもう一方の足の腱を斬りつけた。
「ぎゃああああっ!!」
「サミィッ!!」
叫び声と同時に、斧の男が迫る。
渾身の勢いで斧を振り下ろしてきた。
「はああッ!!」
地を蹴り、アイオンは横に飛ぶ。
刃は地面にめり込み、土と小石が飛び散った。
(今だ――)
地面に足をついた一瞬の隙。
アイオンはその足元へ滑り込み、斧の男の脚へ斬撃を叩き込む。
「――ぐ、うああっ!!」
膝から下が、ぶら下がるように崩れる。
続けざまに反対の脚も斬りつける。
斧の男が地面に倒れ、呻いた。
「っ、なに、がっ、こいつ…!」
アイオンは構えを解かず、荒い息を整えながら二人を睨む。
二人とも足を潰され、もはや立てる状態ではなかった。
「聞きたいことがある」
淡々とした声が、森の静けさに溶けた。
「攫われた王女はどこに?」
双剣の男が口を開こうとして、歯を食いしばる。
だが、斧の男が、汗と血にまみれた顔で呻いた。
静寂の森に、アイオンの荒い呼吸だけが残る。
しばらくして、倒れた斧の男が苦しげに答えた。
「…先に行った…この先の崖の方だ…だが、予定が狂って…川に沿って登っている…」
「他に何人?」
「三人…まだ…仲間が…」
意識が遠のき、男は沈黙した。
アイオンは剣を収め、血の付いた手で額の汗を拭う。
(…ただの賊だと思ったけど、護衛団よりよっぽど強い。…こいつらは下っ端のはず。強いやつが、王女と一緒か)
立てなくし、血も流れ続けている。
止血の術がなければいずれ死ぬし、運よく生き残っても、血の匂いに誘われた魔物に対処できない。
同情することもなく、持ち物を漁る。
飲み物と回復薬を回収し、今持っている鋼の剣より上物の双剣を奪った。
(長いこと世話になったけど、ここらで限界だったから丁度いい)
二刀を両腰に下げる。
(双剣術は、ライアとの打ち合いで散々見た)
師の剣を思い出し、少し笑う。
そして、川の方へ。
慎重に、だが足早に駆け出した。
(あの白い蝶…クソ女神の干渉か。助かった…)
お節介な女神に、ほんの少しだけ感謝しながら――。
#
賊とジーナたちは、崖沿いの細道を歩いていた。
大きく予定は狂ったが、この川を越えてさらに森を抜ければ、いずれデオール領内に入る。
そこを抜け、目的地に辿り着けば、仲間の馬車が待っているはずだった。
密生した木々が進路を狭め、傍は切り立った崖。
そのはるか下、轟々と水が流れている。
「…なあ、あの二人、まだ追いつかねえのか?」
一人の賊が不満そうに口を開く。
粗末な布を巻いた腕で汗を拭い、立ち止まった。
「サミィとドガだろ? もう痕跡は十分に消してる頃じゃねぇか?」
「ていうかさ、痕跡なんてわざわざ消す必要あるか?この森の奥まで、誰が来るってんだ。あのへなちょこ護衛団か?」
「王女の身柄を攫ってるんだぞ。向こうがヘボでも、探しに来るフリくらいはするさ」
そう言ったのは、先頭を歩くリーダー格の男だった。
黒い外套を羽織り、足取りは無駄がなく、警戒を忘れない。
「で、それが痕跡消しとどう関係あるんだよ?」
「逆に考えろ。向こうが“そこそこ優秀なやつ”を本気で追わせてきたらどうする?森の地形を理解していて、嗅覚の鋭い追跡屋だったら、野営地の匂いや焚き火の跡なんて、すぐに嗅ぎつける」
「へぇ」
「だからあの二人がやってるのは、“護衛団対策”じゃない。万が一“本物”が来た時の保険だ」
「なるほどな。そりゃ丁寧に消しといた方がいいわけだ」
「途中で見失わせれば、引き返すしかなくなる。あの近くまで迫れる者なら、闇雲に探したりはしない」
「それに、二人が合流してないってことは――それだけ丁寧にやってるってことだ」
ジーナは、その会話を無言で聞いていた。
無理に逃げれば、即座に反応される距離。
まだ動ける状況ではない。
けれど、言葉の端々から、“自分が傷物にされる予定ではない”ことだけは理解できた。
(…フィギル子爵に恨みを持つ者が、私を生かしたまま、どうしようというの? 飼う…? なんのために?)
依然として全貌は見えない。
だが、自分が何らかの「駒」として利用されていることは確かだった。
「王女様、お疲れじゃないですかぁ? ご休憩でもなさいます?」
軽薄な声がまた響く。
ジーナは無言で歩を進めた。
応じなければ余計な刺激は与えずに済む――そう判断した上での沈黙だった。
男たちはそれを“気取り”と受け取り、くすくすと笑う。
「やっぱ気高ぇわな、王族ってのは。黙ってるだけで偉そうに見える」
「その気高さも、あの方に会ったらどうなるかね」
無遠慮な声に、ジーナの瞳がわずかに揺れた。
川音が次第に大きくなる。
崖はますます急になり、足元も湿り気を帯びて滑りやすくなっていく。
「降りられそうなとこ、ねぇな」
「こんな地形とはな。…予定の道なら、もっと楽に下りられたんだが」
「どっかに下り口があるはずだ。この川、ずっと流れてるしな――」
「でも、この川の行き先って、結局オルババ村の方だろ?…下ってた方がよかったんじゃ?」
「"あいつ"の影響が想定よりも強い。ハーピー達が入り口近くまで生息地を広げたのは、その影響だろう。…なるべく離れたほうがいい」
そう言いながら、一行は再びゆっくりと歩き出す。
川へ降りるには、もうしばらくこの崖道を進む必要がある。
そんな状況の中、ジーナはふと目を伏せた。
(この高さ、激流…もしもの時は、飛び込めば…)
希望と絶望、その両方になり得る考えが、脳裏をよぎる。
(…このまま生かされるくらいなら…いっそ)
胸に浮かぶのは、恐れでも、悲しみでもない。
ただ、覚悟だった。
だが――
「――警戒しろ」
リーダー格の男が、低く、鋭く命じた。
彼は外套の内側から細身のナイフを抜き出す。
朝日を受けた刃が、鋭く光をはじいた。
続けて、軽薄な男が口元を歪めながら長剣を抜く。
その動きには、焦りも迷いもない。
いつでも斬れるという自信だけがあった。
もう一人の男はジーナの腕を掴み、盾のように自身の前に引き寄せる。
その手には杖。魔力の粒が、先端に淡く集まりはじめていた。
「魔物か?」
軽薄な男が眉をひそめる。
「いや、違うな――」
――刹那、ナイフと刃がぶつかる鋭い音。
「ッ…このガキッ!」
ナイフを掲げていた男が、飛び込んできた黒い影の一撃を受け止める。
体勢を崩しながらも、跳ね返す。
視界に飛び込んできたのは、黒髪の少年。
両手に剣を握り、こちらを真っ直ぐに睨み据えている。
迷いのない足取り。
その瞳には覚悟、そして――
「てめぇ! それは、サミィの剣だろ!!」
怒鳴り声が響く。
だが、少年は何も答えなかった。
「――オルババ村の、護衛団をのしたガキか」
尚も返事はない。
けれどジーナは、ただその姿を見つめていた。
(…あの子、来てくれたの?)
苦痛も、恐怖も、すべてが一瞬遠のいた。
胸の奥に、淡い熱が灯る。
(…来てくれた。私のために…)
思いもよらなかった。
誰かが、自分のために、命のやりとりの場へ飛び込んできてくれるなんて。
嬉しかった。
でも、それと同時に――申し訳なさもあった。
(…こんな、私を…)
声にならない想いが、胸の奥で静かに揺れていた。




