南の森②
南の森の湿った土に、六人分の足跡が残されていた。
大小さまざまな靴跡が、一定の間隔を保ちながら森の奥へと続いている。
互いに大きく重なった形跡はなく、足取りも速い。
だが、踏み込む位置や歩幅には慎重さが滲んでいた。
アイオンはしゃがみ込み、そのうちの一つを指先でなぞった。
(賊と王女、だろうな)
足跡の大きさだけで断定はできない。
だが、ここまでの状況と照らし合わせれば、可能性は高かった。
静かに息を吐き、剣の柄に手を添えて立ち上がる。
足跡はさらに森の奥へと延びていた。
やがて、草や落ち葉が無残に踏み荒らされた場所へ差しかかる。
周囲の空気が変わった。
ひんやりとした湿気が重く淀み、木々の間に漂う気配までが異様に濃い。
この一帯だけ、森のほかの場所とは切り離されているかのようだった。
先ほどアーススパイダーが現れたのも、開けた場所の近くだ。
(この気配――来るな)
アイオンは剣を抜き、警戒を強めながら開けた場所へ足を踏み入れた。
頭上で、木の枝が不自然に揺れる。
次の瞬間、甲高い鳴き声が森に響き、黒い影が降ってきた。
数羽のハーピーが灰色の翼を広げ、低空から一斉に急降下してくる。
赤く濁った目は、最初からアイオンだけを狙っていた。
「っ!」
咄嗟に身体強化を発動する。
魔力が全身を駆け巡り、筋肉が熱を帯びた。
片手剣を構え、迫る一羽へ向かって跳躍する。
振り抜いた刃が翼を切り裂き、ハーピーは空中で体勢を崩した。
だが、そちらに意識を向けた隙を、別の個体が見逃さない。
背後から鋭い爪が迫る。
アイオンは身を翻し、振り向きざまに剣を走らせた。
刃が胴を裂き、黒い羽根が宙を舞う。
その直後、足元の土が弾けた。
硬質な甲殻をまとった巨大な蜘蛛――アーススパイダーが、八本の脚を巧みに操り、死角から襲いかかってきたのだ。
「二種類の連携か」
跳躍して攻撃をかわす。
だが、伸び上がった脚の先端が頬をかすめ、鋭い痛みが走った。裂けた皮膚から血が滲む。
さらに、地面すれすれを這うようにして、新たな影が滑り込んできた。
長くしなやかな胴体に、鋭い牙と鉤爪を備えた魔物――ダスクナーガ。
暗がりに身を溶け込ませながら、アイオンの着地先を狙っている。
「三種類が連携するって、嘘だろ?」
横へ跳んで突進をかわしながら、剣を振るう。
アーススパイダーの脚を断ち、追いすがるハーピーを迎え撃つ。
だが、反撃の直後にはダスクナーガが迫り、身を低くして避けたところへ、別のハーピーが爪を振り下ろしてきた。
速さでは負けていない。
それでも、攻め手が途切れない。
(冷静に。個々の動きじゃない。互いの攻撃を繋いでいるんだ)
一体を狙えば、残る魔物が隙を突く。
回避に専念すれば、包囲が狭まる。
まるで訓練された兵士のように、魔物たちは互いの位置と動きを利用していた。
左右からアーススパイダーの脚が迫る。
アイオンは後退するふりをして踏み込み、身体を捻りながら剣を突き込んだ。
鋭い切っ先が甲殻の継ぎ目を貫き、蜘蛛の巨体が崩れ落ちる。
しかし、倒れた個体を確かめる余裕はなかった。
ダスクナーガの牙が脇腹をかすめる。
熱を帯びた痛みが走り、衣服に鮮血が広がった。
「くっ……!」
傷の深さを確かめる暇もない。
アイオンは歯を食いしばり、再び全身へ魔力を巡らせた。
ここで押し切られれば、立て直す機会すら失う。
「そこっ!」
身体強化を限界近くまで引き上げ、一気に地を蹴る。
ハーピーの爪が空を切り、アーススパイダーの脚が地面を抉った。
アイオンはその間を縫うように駆け抜け、剣を振るう。
斬撃を受けたハーピーが墜落し、アーススパイダーの胴に深い傷が刻まれる。
ダスクナーガも刃を受けて身をよじった。
だが、倒れた魔物を確認するより早く、森の奥から別の気配が膨れ上がった。
空気が張り詰める。
新たなアーススパイダーが木々の陰から飛び出し、八本の脚を広げて襲いかかってきた。
ほぼ同時に、ダスクナーガが地を滑り、残るハーピーが上空から進路を塞ぐ。
再び、三方向からの攻撃。
だが、アイオンの表情に焦りはなかった。
「――そこは、俺の間合いだ」
視界が歪む。
次の瞬間、アイオンの姿がかき消えた。
アーススパイダーの脚が虚空を薙ぐ。
ダスクナーガも素早く首を巡らせたが、すでに標的を見失っていた。
甲殻が裂ける音が響く。
遅れて、別方向から迫っていたハーピーが悲鳴を上げ、地面へ墜ちた。
魔物たちの動きが乱れる。
目の前にいたはずの敵が消え、気づけば別の場所で仲間が斬られている。
視線を向けた先には何もおらず、次の瞬間には背後から刃が迫る。
アイオンは姿を見せる時間を最小限に抑え、敵の認識が追いつく前に位置を変えていた。
風の軌跡を思わせる移動。
一瞬だけ目に映った姿は、次の瞬間には残像となって消える。
「こっちだよ」
すぐ傍から声がした。
ダスクナーガが反応するより早く、剣がその胴へ深々と食い込む。
アイオンは刃を引き抜くと同時に身を翻し、背後から迫ったアーススパイダーの懐へ潜り込んだ。
振り下ろした剣が甲殻を割り、巨体が地面へ沈む。
残るハーピーが羽ばたいて距離を取ろうとする。
だが、その逃げ道をアイオンが先回りして塞いだ。
一閃。
翼を断たれた魔物が、悲鳴とともに地へ落ちる。
最後のダスクナーガが尾を振るったものの、捉えたのは空気だけだった。
アイオンの姿はすでに間合いの外へ移っている。
敵が向き直る。
その目の前に、再びアイオンが現れた。
「遅い!」
短い言葉とともに放たれた斬撃が、ダスクナーガの胴を切り裂く。
長い体躯がくねり、やがて力を失って地面へ崩れ落ちた。
――静寂が戻る。
荒い息を吐きながら、アイオンは剣を手に周囲を見渡した。
動く影がないことを確かめてから、ようやく肩の力を抜く。
「少しは、うまくできたかな?」
特訓の成果は確かに出ていた。
あえて姿を見せて敵の意識を引きつけ、次の瞬間には別の位置へ移る。
相手がこちらを認識し、動き出すまでのわずかな時間を利用することで、先手を取り続けられる。
ただ速く動くだけではない。
相手の視線と意識を誘導し、判断そのものを遅らせる。
それが、この移動法の強みだった。
「でも、思った以上に強化されてるな」
アイオンは剣を下ろし、魔力の流れを確かめる。
女神に与えられた異能。
その影響で、身体強化にはわずかなズレが蓄積していた。
もともと、この移動は繊細な魔力操作を前提としている。
速度を上げるほど制御の精度が重要になり、ズレが大きくなれば、狙った位置へ移動することすら難しくなる。
今回はどうにか制御できた。
だが、同じやり方を繰り返せば、いずれ限界が来る。
(魔物を殺し続けるより、気絶させたほうがいいか? でも、この森にいていいレベルじゃない。自警団じゃ対処できないし、村の脅威は減らしておきたい)
殺さずに無力化できれば、それに越したことはない。
だが、住民を襲う危険がある以上、手加減が新たな被害に繋がる可能性もあった。
結局、状況に応じて判断するしかない。
アイオンは小さく息を吐き、夜の森で身を休められる場所を探した。
しばらく進むと、大きな岩がいくつも組み合わさり、外からは内部が見えにくい空間を見つけた。
周囲を慎重に調べ、魔物の気配がないことを確認してから、その隙間へ身を滑り込ませる。
(……ここなら大丈夫そうだ)
外傷回復薬を取り出して傷口に使い、続けて魔力回復薬を飲み干す。
脇腹の痛みはまだ残っていたが、出血は落ち着きつつあった。
携帯食料と水で最低限の腹を満たし、剣を手の届く位置へ置く。
(今日はここまでだな。明日、日が出てからあの周辺を調べよう。何か手がかりが残っているかもしれない)
足跡が続いていた先には、まだ確かめるべきことが残っている。
魔物が不自然なほど連携していた理由も、王女がどこへ連れていかれたのかも、何ひとつ解決してはいない。
それでも、今夜これ以上動き回るのは危険だった。
アイオンは休息を取ることに決め、剣を握ったまま目を閉じた。
眠りは浅く、森の物音を聞き逃さないよう、意識の片隅を張り詰めさせたまま夜を過ごす。
#
焚き火の揺らめく光が、森の闇に五人の影を浮かび上がらせていた。
その中心で、手を縛られた王女ジーナが静かに座っている。
周囲を囲む賊たちは、彼女を監視しながら、時折、苛立たしげに森の奥へ目を向けていた。
「予定より遅れてる。これじゃ迎えを待たせることになるな」
リーダー格の男が、低い声で呟いた。
「仕方ないだろ。仕込んだ魔物が木を倒したりして、予定ルートが潰れたんだ」
「さすがに全部の行動までは操れねぇか。チッ!」
「文句を言っても始まらん。大事なのは、王女を無事に引き渡すことだ。それさえ果たせば問題ない」
男たちは不満を口にしながらも、命令そのものに疑問を抱いている様子はなかった。
「ったく、こいつの体調まで気にしてやらなきゃいけねぇのが面倒だ。どうせ、あの方に喰われるってのに」
若い賊が鼻で笑った。
ジーナは顔を上げ、男たちを見据える。
「……目的は、フィギル子爵と言っていたわね? 王女誘拐なんて事件が領内で起これば、彼は終わり。破滅への道よね」
自分を利用して子爵を追い詰める。
それが目的だろうと、道中の男達の会話で推理した。
だが、リーダー格の男は薄く笑うだけだった。
「俺たちの目的ではないがな」
その言葉に、周囲の賊たちも口元を歪める。
「……あなたたちの雇い主は、子爵に恨みでもあるの?」
「だったら何だ? お前を解放する気はねぇが、命は保証してやるし、手も出さねぇ。それだけでもありがたく思え」
男は焚き火越しにジーナを眺め、嘲るように笑った。
「お前はただの貢ぎ物だ。そのあとは『ペット』。それ以上の役目なんてないんだからよ」
別の賊が、面白がるように声を重ねる。
「王族だってのに、上に五人もいちゃな。それでも、何人か減ったらしいが……どうせ、どっかの貴族に嫁ぐか、他国に差し出されるだけだったろ? 『ペット』の方が、まだ大事にされるかもしれねぇぞ?」
下卑た笑いが焚き火の周囲に広がる。
ジーナは顔色を変えなかった。
男たちの言葉に反論したところで、状況が好転するわけではない。
今は、彼らが何を知り、どこまで命令を受けているのかを見極める方が重要だった。
「――静かにしろ」
リーダー格の男が鋭く制した。
「魔物が寄ってくる。完全に制御できるわけじゃないんだ、油断はするな」
その一言に、賊たちの表情から笑みが消えた。
彼ら自身も、森に放たれた魔物を思いどおりに操れるわけではない。
だからこそ、予定が狂い、移動に遅れが生じている現状に苛ついている。
リーダー格の男が、再びジーナへ視線を戻す。
「――王女様。あんたも、あんまり調子に乗るなよ。価値が下がるだけだ」
焚き火が風に揺れ、赤い光がジーナの瞳を染めた。
「……私の、価値」
その言葉が、胸の奥に沈んでいく。
自分の価値は、自分で決める。
そう誓ったはずだった。
生まれや立場によって定められるのではなく、自分の意思で選び、自分の足で立ちたい。
そのための決心を、あの時にしたはずだった。
けれど、今は手を縛られ、見知らぬ男たちに囲まれている。
自分の行く先すら決められず、彼らの口から語られる言葉を聞くことしかできない。
強くあろうとする意思だけで、この状況を覆せるわけではなかった。
胸の内に広がる孤独を押し返すように、ジーナは唇を引き結ぶ。
弱さを見せるつもりはない。
それでも、小さな肩は夜風にかすかに震えていた。




