後悔
夜の村は、どこか異様な静けさに包まれていた。
虫の声すら遠く、風が木々を揺らす音だけが耳に残る。
教会裏の小屋。その灯りの下に、3人の人影が集まっていた。
「…見回りは終わりました。ですが、確たる証拠は得られませんでした」
ラクトが腕を組みながら言う。声音は低く、緊張と警戒を含んでいる。
「気になる場所が2軒。今はもぬけの殻ですが、まるで何らかの合図を受けて、一斉に姿を消したようでした」
フィギルが椅子から身を乗り出し、低く問いかける。
「確実に、外から来た者だったのか?」
「…街道整備で来ていた者に貸し出していた小屋です。入れ替わりは多かったですが、外部の者で間違いありません」
「私の方でも確認できた者が2人」
そう言ったのは、静かに佇むレアだった。
教会での穏やかな顔とは違い、今は冷静で鋭い眼差しを向けている。
「片方は行商人を名乗っていた男。もう一方は井戸の近くに住み始めた女。どちらも昨夜のうちに姿を消しました。痕を残さぬよう急いでいたと、村人が」
フィギルの拳が、テーブルの上で強く握られる。
「――遅かった。完全に手を回されていたんだ。王女が攫われる前から、準備されていた!!」
額に汗がにじみ、目には焦りと怒りが宿る。
「街道整備で人の出入りが激しくなっていたこの領地だ! 仕掛けるのは楽だっただろう! ……思えば、護衛団の行いがこの村まで伝わっているのも不自然だ。故意に広めた奴らがいる!」
自ら行った政策が、まるごと利用された。
怒りは収まらない。
「このままでは、領地そのものが共犯と思われかねない。いや、もうすでにそう見られているかもしれない! 我々はこのまま指をくわえて――」
「どうか、落ち着かれてください、フィギル様」
レアが静かに、しかし厳しい声で制した。
「焦りは判断を鈍らせます。責任の重さは承知しておりますが、今ここで取り乱されては、進むべきことも進みません」
「……っ」
言い返そうとしたフィギルは口を閉ざし、静かに椅子に身を引いて座り直す。
「……すまない。頭に血が上っていたようだ」
ラクトが静かに口を開いた。
「お気持ちは察しております、フィギル様。ですが今は、南の森へ向かった者たちに希望を託すしかございません。ライアさんもすでに森へと入られました。あの人なら、何かしら手がかりを見つけてくださるはずです」
「ライアが…」
フィギルの表情に、一瞬だけ安堵の色が差す。
「ならば、なおさら無事を祈らねばなりませんね」
レアは胸の前で手を組み、静かに言った。
「彼女一人で行かせたわけではありませんが、夜の森は危険です。誰であれ、早く王女に追いついてほしい…隣の領地に入られては、手が出せません」
フィギルは深く息を吐き、夜の闇へと目を向けた。
ランプの灯に照らされ、壁に映る3人の影が揺れる。
風が木々を揺らし、闇の奥から何かが潜む気配を運んできていた。
3人はそのまま、沈黙の中で長い夜の静けさを見つめ続けた。
#
風の止んだ夜。
見張り台の近くで、イザークとエリーが焚き火を挟んで腰を下ろしていた。
少し離れた木陰には、ウルとオニクの姿もある。
虫の声と焚き火の弾ける音だけが、静かな夜に溶け込んでいた。
だが、その静けさとは裏腹に、不安は胸の奥底で渦を巻いていた。
「なあ、エリー」
イザークが焚き火を見つめたまま、ぽつりと呟く。
「なに?」
「やっぱ、おかしくねぇか?」
エリーは火をつついていた手を止め、彼を見た。
「…どの話?」
「王女が攫われたこともだけど…最近村にいた連中の中に、変な奴いなかったかって話」
「変な人…?」
イザークは眉を寄せ、少し考えてから続けた。
「俺たち、この村に来て半年近く経つだろ? 冬も越して、畑も手伝って、顔くらいはほとんど覚えてる」
「うん。今いる人たちなら、名前も大体わかる」
「でもな。この前、街道整備で来てた連中の中に――見覚えのない奴が数人いた。しかも、やたら“南の森”に詳しかったんだ」
エリーの表情がわずかに変わる。
「…湿地は避けた方がいい、とか、東に高台があるとか、話してた人?」
「それ、それ!」
イザークが食いつく。
「最初は、作業員が事前に下見でもしたのかと思った。でも森の奥の地形なんて、普通は知らねえだろ?」
「…確かに変だね。奥に入るなら護衛が必要なはずだし、そんな勝手な行動はさせないはず」
エリーが焚き火を見つめたまま、ぽつりと呟いた。
「その人、名前も名乗らなかった。作業隊と一緒にいたから、てっきり仲間だと思ってたけど…」
ウルが木陰から姿を現し、声をかける。
「今の話、本当か?」
「ウルも聞いてたの?」
「姿ははっきり覚えてないけど、“湿地”とか“岩棚”とか…妙に詳しい話が出てたのは確かに聞いた。それに、護衛団が勝手ばっかして、子爵も止めねぇって愚痴も。子爵たちが来る前からな」
「オニクは?」
焚き火の向こうでオニクが手を挙げた。
「僕も護衛の時に似たような話を聞いた。でも、あの時は“どこかの村から来た情報通”くらいに思ってた。今考えると、確かに変だね」
エリーが立ち上がる。
「その人、今はもう村にいないのよね?」
「間違いない。作業隊が引き上げた日に一緒に出て行った」
イザークの声が低くなる。
「でも、そいつと話してた奴ならまだいる。俺たちが警備してた時に見かけた。村からは出てないはずだ」
エリーはうなずき、きっぱりと言う。
「フィギル様に報告しよう。この情報、放っておけない」
「だな。小さな違和感でも、今は全部拾っていくべきだ」
イザークたちは焚き火を消し、手早くその場を後にした。
――今の“ささいな気づき”が、やがて追跡の糸口になるとも知らずに。
#
夜の闇が濃く満ちるなか、割り当てられた一室で、フィギルは険しい表情のまま立ち尽くしていた。
机の上には、ここ数日の動きをまとめた報告書が散らばっている。
街道整備とともに人が流入し、見慣れぬ者たちとの間で、騒ぎや小さな揉め事が増えていること。
森の周辺――街道沿いや畑付近に現れる魔物の数が、例年を大きく上回っていること。
そして、ハーピーのような未知の魔物が出現したこと。
(…街道に魔物が増えたのは、自然環境の変化ではなかった。誰かが意図的に森に、本来いない魔物を放ったのだ)
机の隅に置かれた湯飲みはすっかり冷めていた。
(…狙いは最初から、ジーナ王女だった? なぜ?)
そのとき、扉がノックされる。
「どうした」
問いかけに応じて、私兵長のミリオンが姿を現す。
「失礼します。冒険者の者が、至急お伝えしたいことがあると――」
言い終える前に、イザークたちが勢いよく部屋へ飛び込んできた。
「入るぞ! フィギルさん、思い出した! 南の森の話をしてた奴ら、街道整備隊と行動を共にしてた! 名前も名乗らず、動きもどこか妙だった!」
「賊の一味か。続けてくれ」
「昼の警備には姿を見せなかったけど、そいつと親しげに話してた男がまだ村にいる! 何か掴めるかもしれねぇ!」
フィギルは奥歯を噛みしめ、拳をぐっと握った。
「よし。すぐに捕らえる。そいつは村の人間か?」
「いや、ここに住んでる村人じゃない。整備作業か、交流目的で来てるよそ者だ」
「なら、村の貸家にいるはずだ」
そのとき、背後の扉が勢いよく開く音がした。
振り向けば、護衛団長のガーリンが無言のまま踏み込んでくる。
「子爵様。我らにも手を貸させていただきたい」
先ほどの粗野な態度は鳴りを潜め、彼も部下たちも、表情を引き締めていた。
「……こうした汚れ仕事には、慣れております。今は賊の計画を明らかにするのが先決。お任せください」
「わかった。感謝する」
フィギルは短く頷き、一同を率いて民家の捜索へと向かった。
#
民家に到着した一行は、村人ではない者たちを次々に叩き起こし、広場へと集めさせた。
そこには、シスターのレアとベティ、ラクトの姿もあった。
「では、頼む」
フィギルの一声で、イザークが前に出る。
「おう!…さてと」
一人ひとりの顔を覗き込みながら進む。
すでに護衛団と自警団が取り囲んでおり、逃げ場はない。
「――そうそう。お前だよ」
ニヤリと笑って足を止めた先、一人の男が不安そうな顔を上げる。
「な、なんですか? こんな時間に…」
「お前、南の森に詳しい男と仲よく話してただろ? 知り合いか?」
問いかけに、男は怯みながらも反論を返す。
「…話すくらいはするだろ。作業中、誰とも口をきくななんて命令はされてねぇ」
そして突然、フィギルを鋭く睨みつけ、声を張り上げた。
「そもそもこれは、貧民対策で始めた政策だろ!? だから参加しただけの俺が、なんで疑われなきゃなんねぇんだよ! おかしいだろ!? なぁ、皆! 寝てるとこを無理やり連れ出されて、今度は誘拐犯の仲間扱いだぞ!? 冤罪で吊るされて、自分は助かろうって魂胆だろうよ、子爵様! なにが“貧民に寄り添う領主”だ!」
「たしかにやりすぎじゃないか?」「子どもまで起こすのは…」「信じてたのに、こんな仕打ちって…」
ざわめきが広がっていく。
「――静かに」
フィギルの冷ややかな声が、場の空気を一変させた。
群衆が一斉に黙りこみ、彼は男に向かって歩み寄る。
「簡潔に聞く。何か知っていることはあるか」
「…あぁ? だから知らねぇって言ってんだろ!」
「そうか。残念だ。――ガーリン」
合図を受け、ガーリンが一歩前へ出る。
手には長鞭が握られていた。
「お任せを」
「はっ、見たかよ皆! 証拠もなしに鞭で叩いて、無理やり口を割らせようって魂胆だ! しっかり見ててくれよ! どこが“清廉な貴族”だってんだよ!」
広場の人々が、フィギルを睨んでいた。
――結局こいつも、他の貴族と同じじゃないか。
そんな視線が突き刺さる。
しかしフィギルは一言だけ呟いた。
「……時間がない」
目で合図を送り、ガーリンが動こうとした、そのとき――
「だめですよ。そのやり方は」
レアの声が響いた。
「…これしかない。この者の目は、貧者のものじゃない。間違いなく何かを知っている。今はそれを聞き出すことが先決だ」
「ですが、無理やり引き出した言葉に信憑性はあるんですか? こちらが不利なのに、更に偽情報を掴まされたら終わりですよ」
「――ならどうしろと!? 女神が啓示でも与えてくれるのか!? 何を企み、何を狙っているのかを!」
声を荒らげるフィギルに、ベティが涼しい口調で返した。
「だめですよ〜。女神様は〜、そんなことを教えてくれる存在じゃありません〜」
「なら黙っていろ! ガーリン!」
「だから駄目だって…はあ」
嘆息とともに、レアが男のもとへと歩み寄る。
目の前に立ち、穏やかに言った。
「驚かせてしまってごめんなさいね。でも、私たちも焦ってるの。少しだけ、失礼するわ」
そう告げると、彼女は男の頭上に手をかざし、静かに術を唱えた。
白い光が、男をやさしく包む。
――光が消えたあと、男は膝を折り、苦しげにうめいた。
「な、なんだよこれぇ…! なにをしたんだよ…!」
「――あなたのした事の結果よ」
レアの声は静かだった。
「自分の過去、その行いがどんな未来を生むか。あなたの心がそれを見せただけ。あなた自身に罪の意識がなければ、この術は何も起きないわ」
「お、俺は、下っ端だ! 命令されて動いてただけで…あんなことまで、してない!」
「…あなたが何をしたかまでは、私にもわからない。でも、“結果”には“原因”があるのよ」
レアは男の目線に合わせて膝を折り、微笑みかけた。
「この術が効くということは、あなたに“後悔”があるという証拠。ならば、聞かせて?あなたの知ることを」
「う、うぅ…! 俺、別の領地で勧誘されて、よくわかんないまま入ったんだ! まさか、こんな酷いことしてたなんて…! あの子たち…うわぁああ!!」
「…本来なら懺悔を聞くべきですが、今は急ぎましょう。ジーナ王女はどこに?」
「ぐずっ…俺は、扇動役だった…護衛団の横暴や、子爵への不満を煽って…土台をつくるのが仕事だったんだ」
「――“土台”? まさか…狙いは…」
「そうだよ…フィギル子爵、あんたさ。王女はただの駒。ここで王族が死ねば、責任を問われるのは“あんた”なんだって…そう言ってた…」
(…前提が違った! 狙われていたのは王女じゃない、私だったのか!)
「それで! ジーナ王女はどこへ!?」
「…南の森の中に、いくつか開けた場所を作ってある。そこを抜けて、デオール領に向かってる。途中で追われにくいように、雇い主からもらった魔物を領土中にばら撒いてある…冒険者がすぐに対応できないように…」
「じゃあ、この村じゃなくても、計画は実行されてたってことね?」
「そう…ここに来なけりゃ、バルナバを出たあたりで襲ってたよ。どこでもよかったんだ、あんたが“責任者”でさえあれば」
(…なんてことだ。やつらにとって、ここは格好の舞台だった…!)
「この中に、まだ仲間はいるのか?」
「…あの女」
男が震える手で指さす。
その先には、子どもを抱いた女の姿があった。
「…は、はぁ?」
「一緒に噂を広める係だった。…まだバルナバやカルララ村にも何人かいる…全部、教えるから…」
「ちっ…!」
女が懐からナイフを取り出し、抱えた子どもに刃を向けようとしたその瞬間――
「おっと、危ないぜ?」
イザークが一瞬で距離を詰め、その腕をねじ伏せた。
「この子もどこかからさらってきたか…子どもまで巻き込むんじゃねぇよ」
怒りに満ちた声で吐き捨て、女を気絶させる。
「イザーク! 君たちも森へ向かってくれ! この村は護衛団と自警団で守る。警戒を強めるように!」
フィギルが命じる。
「了解。今すぐ準備する。それまでに、そいつに“開いた場所”を地図に書き込ませておいてくれ!」
イザークたちは即座に広場を後にした。
その場に残された男は、うつむいたまま呟く。
「…俺、許されるかなぁ。あの子たち…生きてるのかなぁ…」
「…あくまで“予兆”です。今すでに起きているかもしれないし……もっとひどい未来かもしれない」
「うぅっ…!」
ベティが静かに言葉を添える。
「…心の底から悔い改めるのです〜」
――夜空の月が、白く静かに光を放っていた。




