南の森①
南の森の入り口。陽の光は届かず、すでに深い影に包まれていた。
湿った空気と、かすかな獣の匂い。風が梢を揺らし、遠くで鳥の羽ばたく音が聞こえる。
その中を、アイオンは進んでいた。
足音を極力殺す。
森に入って少し後、人の気配を察知する。
「――あれ、あんた!」
木の根元、藪の陰から姿を見せたのは、ビアンカだった。服は汚れ、額には汗がにじんでいる。
「アイオン!? 一人?」
後ろには他の若者の姿もあった。皆一様に息を乱し、顔に緊張が浮かんでいた。
「ええ。何故まだこんな場所に?」
「そこでハーピーが出てるのよ。さっき、トーゴが腕を引っかかれの」
「大丈夫です! でも、あいつら、空飛びながら襲ってくるし、こっちは全然届かないんです!」
トーゴという男が興奮気味に叫ぶ。腕に軽い切り傷があり、女の子が必死に布で巻いていた。
(…やっぱり、仕組まれたと考えるのが妥当だな。いつからかはわからないけど)
「とりあえず、俺は行きます」
ビアンカは険しい顔でうなずいた。
「正直、この先に私たちが入るのは無理。でも、あなたなら平気よね?」
「ええ。対処しますよ」
アイオンの目に迷いはなかった。
そのときだった。
――キィィィィッ!!
鋭い叫び声が、上空から響いた。
「来たっ!」
誰かが叫ぶより早く、枝葉を裂いて一体のハーピーが飛び込んできた。
灰色の羽、鉤爪のような脚、そして赤く濁った目。
「伏せて!」
アイオンが声を張り上げ、自警団たちをかばうように前へ躍り出る。
ハーピーは滑空しながら、鋭い爪でアイオンを薙ごうとした。
「――甘い!!」
アイオンの片手剣が、風を裂いた。
刹那、空中で金属音が鳴り響く。
ハーピーがひるみ、翼を翻して距離を取る。しかし、アイオンの足は止まらなかった。
(飛ぶ敵、もう3回目だ。届かないなら――)
「――引きずり下ろすだけだ!」
次の瞬間、アイオンは地を蹴り、跳躍。
斜面の木を足場にし、空中へ――
見上げていたビアンカたちが、息を呑む。
空中で一閃、刃がハーピーの翼を掠め、バランスを崩させる。
ハーピーが叫びながら墜ちたその瞬間、アイオンはすかさず追い打ちをかけた。
「はああっ!!」
――ズン。
森の地面に、重い音が響いた。
ハーピーは動かない。
その中心に立つアイオンの呼吸は荒く、しかし眼差しは静かだった。
「お、おい…今の…」
トーゴが呆けたように呟いた。
「なに、あれ…一瞬だったじゃない…」
女性の声も震えていた。
ビアンカだけが、目を細め、ゆっくりと頷いた。
「…やっぱり、あんた、只者じゃないわね」
アイオンは剣を納めると、振り返りつつ短く言った。
「ここから先は、俺が行きます。皆さんは別の場所に行ってください。恐らく、この森から他領に行くと、フィギル様は判断しました。北の森からこっちに来る人達と合流して、広範囲に探してください」
「でも――」
「あなたたちと一緒じゃ足手まといです」
その言葉に、誰もが返す言葉を失った。
やがて、ビアンカが静かに頷いた。
「…わかった。気をつけて。何があっても、死ぬんじゃないわよ」
アイオンはそれに答えず、再び森の奥へと駆け出していった。
#
ハーピーを倒した後、太陽はすでに頭上を越えていた。 湿気を帯びた風が木々を揺らす。
(…やっぱり。たき火の跡があるな)
森の中を進んでいたアイオンは、先日発見した開けた場所に出た。
木々は切られ、足元の草は踏み荒らされている。
そしてたき火の跡。
何者かの痕跡が色濃く残っていた。
次の瞬間――
「っ!」
ざざっ、と草の音が跳ねた。
音のした方を振り返ったその時、木立の影から、黒い塊が飛び出した。
――ギギギギィッ!!
蜘蛛のようなシルエット。
全身を硬い甲殻に覆われ、節のある足が八本。
C級の魔物――アーススパイダー。
しかも、1体だけではなかった。
「2体っ!?」
反応する間もなく、左右から同時に突撃が始まる。
まず1体が正面から跳ね上がり、鋭い脚で突き刺すように迫る。
避けようとした瞬間、もう1体が脇から飛び出し、横薙ぎの脚を振りかぶった。
「くっ!」
間一髪で飛び退いたが、地を抉った刃のような脚が、頬をかすめた。
鋭い痛みが走る。薄く血が滲んだ。
(囲まれる! アラクネよりマシだが!)
脚の連携は、まるで訓練された兵士のように正確だった。防御も回避も間に合わない――
次の攻撃が来る前に、アイオンは叫ぶように言葉を吐いた。
「ナメるなッ!!」
――身体強化。
風が爆ぜるような衝撃が、全身を走り抜けた。
思考より先に、体が動き始める。
(避けろ――っ!)
跳ね上がるように後方へ回避。
蜘蛛の脚が地をえぐる前に、間合いを取った。
呼吸が荒い。
強化の反動ではなく、焦燥によるものだった。
(今のは発動してなかったら、やられてた…!)
魔物たちは間を置かずに襲いかかる。
一体は高く跳び上がり、もう一体が下から足を伸ばしてくる。
だが、もう遅い。
アイオンは片足をひねり、一気に速度を加速させた。
――ズバッ!
一閃。
宙から降ってくる蜘蛛の腹部に、鋭く剣を突き立てる。
「っらああ!!」
甲殻を裂き、内部に届く手応え。
蜘蛛が奇声を上げながら、体勢を崩して落ちた。
続けて、地上の一体へ。
(距離を詰める! 一気に!)
脚に風を纏い、縦に跳ねながら斜めから斬りつける。
脚が迫る。だが――
「お前の軌道は、もう見切った!」
その言葉と共に、蜘蛛の前脚を滑るように抜け、懐へ。
弱点である下腹部へ、踏み込んで一太刀。
――グシャッ!
刃が深く食い込み、身体の中心を断ち割った。
鈍い音とともに、もう1体も崩れ落ちる。
アイオンは肩で息をしながら、周囲を警戒した。
だが、追加の敵は現れなかった。
「…ふう。2体同時は、強化なしじゃきついな…」
額の汗を拭いながら、森の先を見据える。
(ハーピーだけじゃなく、あんなのまで…。正直ナメてた。…どうやって連れてきたんだ?)
剣を構え直し、アイオンは再び歩みを進めた。
風は止み、森の緑が、深く沈んでいく。
#
森の奥――。
木々が茂り、外の光も風も届かないその場所で、少女は無言で歩いていた。
足元は不安定な根や岩だらけの斜面。何度も足を取られながらも、ジーナは倒れることなく進む。
その後ろから、二人の男が無言でついてくる。
「もう少し早く歩け。そこの開けたところまでだ」
前を行く男がそう言い、背中の短剣をちらつかせた。
賊の一人は、革鎧にフードを被った長剣の男。もう一人は、ずんぐりとした体格の男で、杖を背負っている。
(彼らの足音は一定。慣れてる…山か森での行軍に。兵士じゃない、でも訓練は受けてる)
ジーナはそう観察しながらも、表情を変えない。
(このまま黙って連れていかれるしかない。下手に逆らえば、私じゃなく、他の誰かに危害が及ぶ)
枝を避け、泥濘を踏み越えながら進む。
だが、ふと、後ろの賊のひとりがつぶやいた。
「ここまでは順調だな」
「ああ。やっぱり魔物をばら撒いてて良かった。自警団レベルじゃ対処なんてできねーよ」
「……!」
(魔物を…?)
言葉を交わす賊たちの声音には、焦りも緊張もなかった。ただ、軽く笑うだけだ。
「ま、オルババ以外で実行してても同じ事だな。こちらにはあの方がついてる。魔物なんて多少の苦労でバラ撒ける」
「…けどこの王女様はちと面倒だな。傷つけちゃいけないってのが」
ジーナの腕を引くように、賊が背中を押した。
「触らないで」
ジーナの声は静かだった。だが、その瞳は鋭い光を帯びていた。
一瞬、賊の男が目をすがめる。
「…ふん。王女様は気位だけは一丁前だな。おとなしくしとけ」
ジーナは、何も返さなかった。
(あの方…誰かに雇われてる?)
ゆっくりと、森の中の風が動く。
その奥――小さな崖の向こうに、仮設の天幕がいくつか見えてきた。
木の根を利用して偽装された簡易な野営地。
その手前に、数体の魔物が、うごめいているのが見えた。
「――あれは」
ジーナはわずかに息を呑んだ。
「魔物をどうやって…?」
男の一人が笑った。
「こいつらは卵から運んできた。ハーピーもそう。元は調教して、ショーに使うもんなんだと。…お前ら王族も観に来るらしいぜ?」
(ショー?魔物で?)
森の静けさの中で、どこかで何かが動く音がした。
森の空気が、昼とは思えぬほど濃く重たくなっていく。
#
アーススパイダーを倒した後、アイオンは再び森の先へと足を踏み入れていた。
戦闘の余韻を振り払うように深く息を吸う。
だが、吸い込んだ空気は湿っていて、肺の奥にじっとりと貼りついた。
木々の密度がさらに増し、空からの光はほとんど届かない。
踏みならされた痕跡はわずかに残っているが、それもいつ消えてもおかしくなかった。
(…歩幅は広い。複数人…いや、馬は使われてない。担がれていたか、誰かの足で歩かされてる)
靴跡、草の踏まれ具合、枝の折れ方。
細かな違和感を丹念に拾い上げながら、アイオンは足を止めずに進んでいく。
汗が背を伝い、手のひらがじっとりと湿っていた。
やがて足元がぬかるみ始める。
(…湿地帯に入ったか。ここから先はあんまし行ったことないんだよな)
見失いかけたそのとき、倒れた木の根元に、火を使った痕を見つける。
「…たき火跡。灰が冷たい、もう半日以上は前か」
その周囲には、空き袋、欠けたナイフ、靴底の削れた破片――
痕跡が集まり始めた。確かに“人”が通った痕だ。
そして、その中に――
(…これは?)
落ちていたのは、服のボタン。
ちぎれたそれは、どこか気品を感じられる飾りボタンだった。
手に取り、そっと握る。
(…服の装飾……王族の衣装か?)
何も言わず、目を閉じて祈るように一度深呼吸した後、アイオンは再び歩き出す。
しかし、陽は傾き、森の中はすでに“夜”の色を帯び始めていた。
風が止み、森の気配が重く沈む。
木々の間に漂う湿気は濃く、音という音をすべてを飲み込んでいく。
(…焦らず進もう)
息を整えながら、アイオンは前を見据えた。
その瞳には、冷たい光が宿っていた。




