確かな異変
午後の陽が傾きはじめたころ。
オルババ村の南に広がる森に、3人の影が踏み入った。
片手剣を担いで先を行くのはラクト。
そのすぐ後ろを、槍を携えた女・ビアンカと、片手剣を腰に下げた少年・アイオンが続く。
「…なんか、不思議よね。あんたが誰かと森に入るって」
ビアンカがぽつりとつぶやいた。
「そうですね。誰かと森に入るなんてなかったんで」
「どういう心境の変化で?」
「別に…調査目的なら、多い方がいいでしょ」
素っ気ない返事に、ビアンカは肩をすくめつつも、わずかに口元を緩めた。
「まあ、無茶さえしなけりゃいいけど」
前を歩いていたラクトが、ちらりと肩越しに振り返る。
「お前ら、くっちゃべるのはいいが耳は森に向けとけよ。…妙に静かだ」
「了解です」
「はい」
森の気配は確かに重い。例年より魔物が多いというのは、事実で間違いなかった。
「足跡があるな。ホーンラビットに、ウルフ…通ったばかりだ」
ラクトがしゃがみ込み、地面に手をついて跡を確かめる。
「ここまで密集してるの、初めて見る…」
ビアンカが驚いたように声を上げ、アイオンも頷きながら周囲に目を配る。
「…何かから逃げて、活動地がズレてるんですかね?」
「その可能性が高い。ハーピーなんて、これまで一度も見なかった。あいつらは崖の上とか、風の強い場所に巣を作る。…森にいるのはおかしい」
ラクトの表情が険しくなる。
長年自警団として森に入ってきた彼の経験にも、今の事態は異常だった。
まるで、どこかから運び込まれたかのような――
「――! 警戒を!」
茂みが大きく揺れた。
「来たぞ!」
ラクトの声と同時に、ホーンラビットが3体飛び出す。さらに、唸り声とともにウルフも姿を現した。
「右、お願い!」
ビアンカが叫び、槍を振るって1体を押し返す。
「―!」
アイオンは剣を抜き、素早くウルフの首筋を狙う。
「後ろ、もう1匹!」
ラクトが背後の敵を剣で斬り倒す。木の根元に、赤黒い血が飛び散った。
「初めての共同作業にしちゃ、連携は悪くねえな! アイオン!」
「―まだまだですよ」
「2人とも! 油断しないでよね!」
1度の交戦で、3人の息は自然と合いはじめていた。
だが、その時だった――
上空から、風を切る音。
「っ、何だ!?」
アイオンが剣を構え、上空を見上げる。
そこには、鋭い爪と翼を持つ魔物、ハーピーの姿が3体。
「嘘…あれがハーピー? 3体も…!?」
ビアンカの声が震える。
「なっ…こいつは、手に負えねぇ!」
ラクトが一歩後退する。剣では届かない空の敵――自警団の常識が通じない相手だ。
「ラクトさん、ビアンカさん、下がってください!」
「アイオン!? 待て、それは――!」
止める声を背に、アイオンは木を蹴って跳ね上がる。
枝から枝へ跳び移り、一気に高度を稼ぐ。
(三体はきつい。でも、ここで怯んだら誰も止められない!)
風が森の天蓋を揺らす。
それは自然の風ではなかった。ハーピーが放った風魔法――斬りつけるような鋭さ。
「くっ!」
風刃がアイオンの頬をかすめる。枝が裂け、破片が舞う中を、彼は身を屈めて突っ込んだ。
「そこっ!!」
滑空してきた1体目に合わせ、剣を振るう。
刃が翼を裂き、骨の手前まで達する。
ギャアアアッ!
悲鳴を上げて墜落する1体目。
だがすぐに背後から突風――
「っ!」
反応が遅れた。
2体目のハーピーが飛びかかり、鋭い爪がアイオンの肩を深く裂く。
「ぐっ!!」
地面に叩きつけられ、泥と落ち葉が舞う。視界が揺れ、呼吸もままならない。
「アイオン!」
ビアンカの声が聞こえる。だが応じる余裕はない。
(立て!まだ動ける、やれる!)
肩の痛みに耐え、泥の中から体を起こす。
風を纏い襲いかかる2体目――魔力で加速された一撃が迫る。
(風で加速してる。普通じゃ捉えられない…!)
アイオンは左足を引き、地を蹴った。
突進に合わせてわずかに軌道をずらし――
「――はぁッ!」
剣を振るう。
風を割って振り下ろされた一撃が、羽根の付け根を斬り裂いた。
ギャアアアア――!!
羽ばたきが乱れ、2体目も墜落する。
だが、わずかに掠めた爪が脇腹を裂いた。
服が血に染まり、痛みが全身を突き抜ける。
「アイオン!! 無茶だよ!」
ビアンカが駆け寄るが、風の唸りがその声をかき消す。
最後の1体は空中で旋回し、仲間の墜落を確認すると、甲高い鳴き声を上げて森の奥へ飛び去っていった。
アイオンは剣を手にしたまま、肩を押さえて膝をついた。
「…3体は、さすがにきつかったですね」
「バカか! 何あれ、命知らずかっての!」
ビアンカが膝をつき、アイオンの前に座り込む。
その顔には、怒りと安堵、そして驚きが混じっていた。
「もう!何考えてんのよ、あんた!」
「すみません。でも、他に方法がなかったんです」
アイオンは苦笑を浮かべ、肩の痛みをごまかすようにそっと息を吐いた。
ビアンカは震える手でポーチから回復薬を取り出しかけたが――
「それはいいです。回復薬は止められてるので。包帯だけでお願いします」
「はああ!?」
「すみません…とんでもない師匠がいまして」
肩をすくめたアイオンの顔には、悔しさと少しの愉快さが滲んでいた。
そこへラクトが駆けつける。
「無茶なことしやがって」
「1体は逃しましたが、なんとか2体は落としました」
「2体落としただけでも十分だ。…だがな、次はもっと慎重にしろ。身体強化を封じたまま戦っても、命を落としちゃ元も子もねぇ」
ラクトの視線が、にじんだ血の痕へと落ちる。
「…セアラやナリアに、心配かけるなよ」
「…はい」
アイオンは静かにうなずいた。
森の上では、いまだざわめく風が葉を揺らしている。
それはハーピーの残した気配か――あるいは、森そのものの異変か。
静けさを取り戻した森には、確かな不安だけが残された。
#
午後の陽が森の端を染めはじめたころ。
3人は森を抜け、村への帰路についた。
足元には、踏み慣れた獣道。
けれど空気は、どこかいつもと違っていた。
沈んだ森の匂いが、まだ背中に貼りついているようだった。
風が頬をかすめる。
アイオンはふと立ち止まり、風の流れを感じる。
(…妙だな。森の風じゃない。もっと…澄んでる)
戦いの余韻はまだ体に残っている。
だが、この風だけは違った。冷たく、清らかで――何かを見透かすような風。
(因子が…溜まってきてる? ハーピーは風魔法を使う…)
「どうした? 傷、痛むか?」
背後からラクトの声が飛ぶ。アイオンは我に返り、かすかに首を振る。
「いえ…ただ、ちょっと風が気持ちよかっただけです」
「なんだそりゃ?」
そう言いながら、ラクトも足を止めて空を見上げた。
「風の匂いで変化を感じ取る奴もいる。感覚を研ぎ澄ませるのは悪くないことだ」
「…はい」
後ろを歩いていたビアンカが、そのやり取りをおもしろそうに聞いていた。
「へぇ。風の匂いとかも感じ取れちゃうんだ? まるで風の魔法使いみたいね」
「…そんな立派なものじゃないですよ」
アイオンは苦笑する。
「…でも、今日のあんたはちょっと見直したわ。やるときゃやるのね」
「え?」
「正直、気難しい村の坊やだと思ってたけど」
「…それ、ビアンカさんだけですか?」
「さあ? いろんな人がそう言ってた気がするけど?」
茶化すように笑うビアンカに、アイオンは少し眉をひそめる。
だがすぐに、それも苦笑へと変わった。
「…まあ、いいです。誤解を解く機会になったなら」
「そうね。少しは“まともに話せる相手”ってことで」
「それは光栄ですね」
後ろで聞いていたラクトが、鼻を鳴らす。
「ずいぶんと打ち解けたな。初めて組んだとは思えねぇ」
「…人と組んで行動するのも、悪くないってだけですよ。ひとりならもっと楽でしたけど」
「素直じゃないな、お前」
そう言いながらも、ラクトの声には安堵の色があった。
森の緊張がようやく解けたような、そんな一幕。
陽は傾き、影は長く伸びていく。
アイオンは再び風を感じた。
今度は夕暮れの、穏やかな風。
(…まだ、使える段階じゃない。でも、確かに風を感じ取れてる)
目を細め、風の先を見つめるようにして、再び歩き出す。
ビアンカもラクトも、その背に言葉をかけることはなかった。
ただ、3人の足音だけが、静かに森の外れへと響いていった。
#
教会の扉をくぐった瞬間、柔らかな香が鼻をくすぐった。
夕暮れの光がステンドグラスを淡く染め、レアとベティが祭壇の前に立っている。
「おかえりなさい。様子はどうだった?」
レアが、穏やかな口調で問いかける。
「……確実に異変が起きてます。ハーピーが3体、森に現れました」
ラクトが静かに、だが確かな声で報告する。
「またハーピー。それも3体…」
レアがわずかに眉をひそめた。
「ええ。俺も長年あの森を見てきましたが、あんなのは初めてです。完全に生態系が狂ってる」
「魔物の数も異常でした。ホーンラビットもウルフも、普段より集まってました」
アイオンが続けて言い、血のにじむ肩口を軽く押さえる。
その瞬間――
「~っ!!」
ベティが目を丸くし、バタバタと駆け寄った。
「な、なんですかその傷は~!? また無茶したんですね~!!」
「す、すみません…」
「“すみません”じゃないです~!! 何度言ったらわかるんですか~! 命が一番大事なんです~!」
両手で頬を押さえて震えるベティ。
まるで自分が傷ついたかのように、涙を浮かべてアイオンを責めた。
「無茶をしたわけじゃないんです。ただ、他に手がなくて――」
「手がないなら逃げるんです~!! 飛べる敵に飛びかかるなんて、それどこの戦士さんですか~!? まだ子どもなんですから、もっと考えてください~!!」
「……はい。ごめんなさい」
アイオンは素直に頭を下げた。
ベティはしばらく頬をふくらませていたが、やがてふぅっと息をつき、手を掲げる。
「もう!仕方ないです~」
淡い白光がベティの指先に灯り、アイオンの肩へと注がれる。
暖かさが広がり、裂けた皮膚がゆっくりと閉じていく。
やがて傷はほとんど痕もなく癒えた。
「ほんと、心臓に悪いです~」
その様子に、ラクトが小さく笑う。
「…まあ、結果的には助かったがな。俺とビアンカじゃ手に負えなかった」
「――ラクト?」
レアがじっと睨みながら言う。
「いえ! 俺はちゃんと下がりましたよ! 調査と報告が役目ですから!」
「はあ…。村長への報告は任せましたよ」
「もちろんです!」
足早にラクトは教会から出ていった。
ベティは回復を続けながら、アイオンを見る。
「次からは、ちゃんと無傷で帰ってくるって約束してほしいのです~~」
「…前向きに検討し、善処します」
「なんですそれ~っ!」
レアが小さく笑い、ベティはまた頬をふくらませる。
その穏やかな空気の中――
扉が、静かに開いた。
「――にしても、よくやったわね。3体目まで落としかけたって、ビアンカから聞いたわよ?」
視線が一斉に扉の方へ向く。
そこに立っていたのは、ライアだった。
長い赤髪を軽くかき上げ、どこか満足げにアイオンを見つめている。
「ライアさん…」
アイオンがやや戸惑いながら名を呼ぶと、彼女はふっと微笑んだ。
「まあ、身体強化なしでそこまでやれたなら、十分ね」
その言葉に、アイオンはわずかに目を見開き、照れ隠しのように視線を落とした。
だが。
「何言ってるんですか〜っ!!」
怒声にも近い高い声が、教会の中に響き渡った。
ベティがライアに向かって、ずかずかと歩み寄っていく。
「そんな無茶を褒めるから、アイオンさんがますます危ない事をするんです〜!! 回復薬も使わせず、身体強化も封じるなんて、やっぱり無茶苦茶です〜!!」
「落ち着いて、ベティ」
レアがすぐに間に入り、そっと彼女の肩に手を置いた。
「アイオンが無事に帰ってきた。それを喜びましょう。ね?」
「で、でも〜! 一歩間違ってたら…命が…命が…!」
ベティの声が震える。
―女神の恩恵を受けている可能性が高いアイオンが失われれば、女神がまたこの世界から離れてしまうかもしれない。
それはなんとしても避けたかった。
「わかってるわ。私だって、死なれたら困るもの」
ライアは声の調子を変えず、静かにそう返した。
けれど、その言葉には――わずかに、本音の色がにじんでいた。
「命を投げ出すのと、本気で守るのとは違う。この子は、後者だったわ」
「…」
ベティは俯きながらも、ちらりとアイオンを見やる。
「でもやっぱり、もうちょっとだけ、無傷で帰ってきてほしいのです〜…」
「…善処しますよ」
アイオンの返事に、ベティは鼻をすするようにして、やっと頷いた。
「――強くなったわね、アイオン」
レアが、優しく微笑む。
「でも、本当に強くなるというのは、一人で立ち向かうことじゃないの。…支えられて、帰ってくること。どうか、それを忘れないで」
「…はい」
アイオンの声は静かだったが、その響きはしっかりと教会の空気に溶け込んでいた。
その背で、ライアがほんの少しだけ目を細めて笑った。
「そろそろ身体強化も使っていきましょう。ただし、タイミングは気をつけて。弱い相手に使えば、驕りが生まれる。命の危険を感じたときにだけ、使いなさい」
「いいんですか?」
アイオンの問いに、ライアは片眉を上げる。
「あなた、素直すぎるから。たぶん言っておかないと、危ない敵にも使わなそうだし。……私も、ベティに殺されるのはごめんだしね」
「なんたる言い草〜! でもその通りですね〜!」
ベティはぷりぷりと怒りながらも、口元には笑みが浮かんでいた。
「わかりました」
アイオンは静かにうなずく。
(タイミングは難しい。でも、指示されたなら、やるだけだ)
――命を糧にする力
僅かな強化の恩恵が、身体強化に若干の悪影響を及ぼしている。
だが――
(…正直、助かる。ズレが大きくなれば、実戦では致命傷になる)
心の中で小さく安堵する。
――慎重な見極めが求められる、面倒な能力だ。
その間も、ライアとベティの軽口は続いていた。
レアが穏やかに2人をたしなめる声が、教会に柔らかく響いていく。
――教会に、再び穏やかな空気が戻ってきていた。
夕日が差し込むステンドグラスは、もうすぐ夜の色へと変わっていく。
けれどその瞬間だけは、あたたかな光が、彼らを静かに包み込んでいた。




