想像の具現化
異形な巨体が、更に変質した。
深く濁った光が体表を這い回り、内側から滲み出すように全身を侵食していく。
脈動は先ほどまでとは比べものにならないほど重く、そして粘ついていた。
次の瞬間、肉の表層が内圧に耐えきれず、爆ぜるように膨れ上がる。
裂けた箇所から現れたのは、触手だった。
これまでの突起とは明らかに違う。
太く、長く、そして意思を持つかのようにうねるそれが、巨体の各所から無数に伸びていく。
広間の空間を侵食するように広がり、逃げ場を削っていく。
さらに遅れて、空気が鳴った。
直後、無数の水塊が撃ち出される。
散弾のように。
一発一発が塊としての質量を持ち、石壁に叩きつけられた瞬間に砕け散る。
だが破片となったそれすらも鋭く、広間全体に暴力的な密度で降り注いだ。
掠めただけで、身体が持っていかれる。
二人は同時に散った。
アイオンは地を蹴り、視界から消えるように軌道を外す。
触手の隙間を縫い、無理やり着地したその瞬間、次の散弾が迫っていた。
反射で刀を振る。
一発は弾いた。
だが衝撃は完全には殺しきれず、腕の奥まで鈍く響く。
続く一発が避けきれず、脇腹へ叩き込まれた。
「かはっ」
息が詰まる。
先ほど打たれた箇所と、同じ場所だった。
反射的に強化を引き上げようとする。
だが、身体がついてこない。
出力が上がらない。
鈍い。遅い。
(回復が追いついてない!)
踏み込みを強引に繋ぐ。
半拍遅れた動きで、迫る触手を刀で捌く。
一、二本と弾いたところで、三本目が腕に絡みつくように食い込んだ。
即座に断ち切る。
だが、その一瞬の停滞に水弾が重なる。
肩に直撃。
身体が弾かれ、後退を強いられる。
視界の端で、ヴィラもまた押されていた。
短刀が閃く。
一本を弾き、同時に迫る二本目を沈むように潜る。
だが回避の直後に水弾が降り、腕で受け止めるしかなかった。
衝撃で腕が痺れる。
間髪入れずに、さらに触手が襲いかかる。
今度は四本。
一つを弾き、二つ目を躱し、三つ目が腹部に食い込む。
呼吸が潰れたところへ、四本目が足を絡め取ろうとした。
二本の短刀で断ち切るも止まらない。
前にも出られていない。
じりじりと、押されている。
背後の距離が削られていく。
壁が、近い。
気づいた時には、逃げ場そのものが狭まっていた。
「このままじゃ、追い込まれる!」
「わかってる!だが、この手数は――」
二人は焦りながらも手の打ちようがない。
死が二人に迫る。
その瞬間、視界が霞んだ。
霧だった。
広間の一角、倒れたままのテオルが震える手で魔道具を起動させている。
淡く広がった霧が床を這い、やがて空間全体を覆い始めた。
触手の動きが鈍り、水鉄砲が減速する。
「この場の水を操作するっす!この隙に!」
テオルの声が響く。
どういう仕組みかわからないが、確かに効果はあった。
異形の動きが乱れる。
その一瞬を逃さず、二人は前へ出た。
壁際から脱出し、押し返す。
だが――長くは続かなかった。
霧に対する適応が、あまりにも早い。
触手の動きが再び正確さを取り戻し、水弾の軌道も鋭さを増す。
再び押される。
削られていく。
――このままでは、持たない。
そう判断しかけた、その時だった。
違和感に気づく。
無数に蠢く触手の中で、ほんの一点だけ、動きが異なる場所があった。
その部分の触手のみ、攻撃に参加していない。
これだけ優勢なのに、周囲を警戒し、過剰に守っているようだった。
巨体の左側面、深部。
本能的な防御。
「ヴィラさん!」
「どう叩く?」
即答だった。
共有は一瞬で済む。
だが、届かない。
距離も、密度も、今のままでは突破できない。
ならば――
(……飛ばすしかない)
アイオンは刀を納め、魔力を流し込む。
刃の内側へ圧縮するように押し込み、凝縮していく。
刀身がわずかに震え、空気が張り詰める。
だが、この工程には時間が要る。
その間、動けない。
「――時間が必要です」
短く告げる。
ヴィラは一瞬だけ視線を向け、すぐに理解したように前を向いた。
「分かった」
それだけで十分だった。
会って一日も経っていない、信頼関係なんて築けてもいない。
それでも、互いがなにをするべきか、なにを望んでいるのかを理解した。
次の瞬間、ヴィラが前へ出る。
すべてを引き受けるように。
触手が殺到する。
一つを弾き、二つ目を潜り、三つ目が腹を打つ。
体勢が崩れかけるが、踏み止まる。
水弾が来るが、腕で受ける。
骨に響く。
それでも止まらない。
さらに四本。
処理しきれない密度。
三本目が脚を捉え、引きずろうとする。
断ち切る。
だが四本目が肩を打ち抜いた。
膝が折れる。
一瞬、止まる。
だが、次の瞬間には立ち上がっていた。
テオルの声が重なる。
「属性魔石はここにいくらでもあるっす!耐えてくれっす!」
辺りの大量の異形の死骸から属性魔石を抜き取り、魔道具に絶えず装填する。
純度が低い物から得られる効果は少なく、持続性はないが、いくらでも使い捨てにできる環境がここにある。
霧がさらに濃くなる。
魔道具を握る手は白く、震えている。
明らかにオーバーフロー状態である。
それでも、尚も出力を上げる。
視界が白に染まる中、ヴィラはアイオンの前へ。
また打たれる。
腹を。胸を。
呼吸が潰れる。
それでも、退かない。
しかし、限界が来た。
三発の水弾が同時に直撃する。
腹、胸、足。
衝撃で身体が浮いた。
次の瞬間、壁へ叩きつけられる。
音が鈍く響き、身体が崩れ落ちた。
立てない。
それでも短刀は手放さない。
膝と片手で床を支え、無理やり顔を上げる。
巨体が、動く。
触手が一本、ゆっくりと持ち上がる。
狙いは明確だった。
「ヴィラさん!」
アイオンの叫び。
その瞬間、ヴィラが動いた。
倒れたまま、床を蹴り転がる。
直後、触手が叩きつけられた。
床が砕け、そこに深い穴が穿たれる。
間一髪だった。
転がりきった先で、ヴィラは再び身体を起こす。
「構うな!」
叫ぶ。
やるべき事をやれと、またアイオンの前方で短刀を構える。
アイオンは再び集中する。
より深く、意識を刀へと沈める。
風の圧縮をさらに加速させる。
先ほどよりも速く。
深く。
研ぎ澄まされていく。
そして、ヴィラはひとつの決断をする。
震えながらも、血を流しながらも。
生きるために、自身の全力を尽くす決断を。
自身の眼に魔力を集中させる。
1秒でも長く、アイオンに時間を与えるため。
(これは賭けだ。負ければ命はない。しかし――)
触手がまたもヴィラを襲う。
その数は、先ほどよりも多い。
しかしヴィラの眼はその全てを捉えていた。
いや、違う。
――時の流れ自体が、緩やかになっていた。
そのひとつひとつを、短刀で捌く。
あっけなく撃退した。
ヴィラの切り札。
自身の両目から血が流れるのを感じる。
魔力を流し込み負荷をかけながらも、絶えず迫る触手も水弾も捌く。
アイオンに時間を与えるために。
そのために、死力を尽くす。
テオルが魔道具を抱え、叫ぶ。
「耐えてくれっす!」
霧が爆ぜるように広がり、広間を白で塗り潰す。
巨体の認識が乱れる。
触手の動きが、大きくぶれる。
しかし――
「――くそっ!」
ここまでだった。
ヴィラの視界が黒く染まる。
負荷の限界が先に来てしまった。
「ヴィラさん!」
テオルの呼ぶ声が響く。
しかし、異形は攻撃の手を緩めない。
ヴィラは全身で攻撃を受け止める。
背中を打たれ、脚を捕られる。
遂には引きずり出され、異形の元へと連れ込まれる。
巨体のすべてが、ヴィラへと向いた。
そして、身体が裂け、醜悪な口が形成される。
失ったエネルギーの補填。
そして、良質な餌。
ヴィラはテオルの叫び声を聞きながら、異形の口の中の腐った匂いが襲いながらも、僅かに微笑む。
「――賭けは、私の勝ちだな」
滲む視界で、微かに見えたものは――
##
「きみは想像力が足りないよ」
フィギル地方での最後の依頼を終えた帰り道。
ゴブリンの巣を潰し、荷馬車に揺られながら開拓村へと戻る途中で、アイオンはオニクから説教を受けていた。
車輪が道を踏みしめる音が、単調なリズムで続いている。
「何度も教えただろ?体外魔法は体内魔法と違って、センスだけじゃ駄目なんだって」
「……燃やすイメージでやって、結果燃えたじゃないですか」
「あれは焼き尽くしたって言うんだよ」
本から目も上げずに返される声音には、隠そうともしない呆れが滲んでいた。
ゴブリンの死体処理に使った火魔法。
あれが、よほど気に入らなかったらしい。
「0か100しかないのかい?」
「そんなこと言ったって……火は燃えるものでしょ?」
当たり前の話だ。
火は燃える。
それ以上でも、それ以下でもない。
――そういうものだと思っている。
「魔法は想像で起こすものなんだよ」
言い訳を遮るように、オニクは本を閉じた。
次の瞬間、空中に水が現れる。
無数の水球が浮かび、それぞれが独立しながらも、どこか繋がりを持つように配置されていく。
やがてそれは形を持った。
鎖。槍。刃。
水でありながら、水のままではない“何か”が、静かに空間に並ぶ。
「きみは固定観念が強い。良く言えば常識人だけど、悪く言えば頑固者だ。……体外魔法使いとしては致命的なまでに」
淡々とした指摘だった。
(……お前が言うなよ)
(頑固で偏屈で嫌味で腹黒いくせに)
二人は嫌味を思い浮かべる。
その瞬間、水の刃がわずかにこちらへ向いた。
イザークとウルが同時に口を押さえる。
――伝わっている。
そう理解して、二人は何も言わず視線を逸らした。
「……まったく。いいか、アイオン。"火は燃える"。それは当たり前の話だよ。"水が冷たい"。"風が気持ちいい"っていうのと同じくらい当たり前の話」
水の刃が静かに消えていく。
代わりに、言葉だけが残った。
「でも、それで何かを形成するのが、魔法使いなんだよ」
指先がわずかに動く。
残っていた水球が組み替わり、別の形へと変わる。
「この世界にある現象に介入して創造する。この当たり前じゃない理屈を、きみは理解しないといけない」
「……風魔法なら、できてますよ」
反射的に言い返す。
事実だった。
風だけは、扱えている。
「それはきみが風魔法に目覚めた時の感覚が影響してるよ」
即座に返された。
視線はすでに本へと戻っている。
「崖から落下する自分と、それによって起きる風を合わせて、現象の在り方を認識したんだろ?正直馬鹿げてるけど、それくらいじゃなきゃきみにはわからないのかもね」
言い切られる。
否定はできない。
あの時、自分は確かに“そうやって”風を理解した。
落ちる自分とジーナ、流れる風に包まれて。
それを別々ではなく、ひとつの流れとして捉えた。
だから扱えた。
逆に言えば、それ以外はまだできていない。
オニクは軽く手を振った。
水球がほどけ、何もなかったかのように空気へと溶けて消える。
「いいかい?きみが燃えないと思ってる物も、きみの魔法で燃やすんだよ」
言葉が、ゆっくりと落ちる。
「そのためのイメージを頭の中でするんだ。火や水や風が物体を形成するのは当たり前だと、籠の中の鳥は燃やさず、籠だけを燃やすのは可能なんだと――」
ありえない前提を、当然のように並べる。
「ありえないことを成すことは可能なんだと認識するんだ」
静かに、しかし断定的に。
そこには揺るぎがなかった。
「そうすれば、きみは遥か高みに飛んでいける」
荷馬車がわずかに揺れる。
視線の先、低い空が広がっていた。
「――いずれ、空さえも自由に飛べるようになるよ」
何気ない調子の言葉だった。
だが、その一言だけが、妙に深く胸の奥に残った。
##
ありえないことを成すことは可能だと。
現象に介入し、形を与えるのが魔法だと。
風を、ただ吹くものとしてではなく――斬るものとして捉えろと。
あの時は、理解しきれていなかった。
だが今は違う。
朧気ながら、イメージはできていた。
未完成ながらも、飛ぶ斬撃を扱えるようにはなっていた。
しかし、武器がそれに適していなかった。
抜刀術に適した武器――刀を手にしてからは、更にイメージを重ねた。
いつかの禁断の森での出来事。
自身を傷つけず、後ろの木々だけを遥か遠くまできり裂いた、グリフォンの風。
あの時のイメージは、自身の頭に刻まれている。
模倣すべき技術は既に見ていた。
それに相応しい武器も、手に入れた。
後はそれを――昇華するだけだ。
風は、形になる。
意思を通せば、届く。
――なら。
そのイメージを、現実にする。
ヴィラが捕食される、まさにその瞬間だった。
アイオンは、鞘に手をかけ、息を止める。
圧縮された風が、刀の中で唸っている。
狙いは定まっている。
そして全てを――解き放った。
一瞬。
一閃。
音が遅れて追いついた。
斬撃が、空間そのものを裂いた。
目には見えない軌跡が走り抜ける。
異形が反応しようとする。
触手が動く。
だが――ぼろりと、落ちた。
次の瞬間、体表が崩れる。
連鎖するように。
一箇所、また一箇所と。
斬られた事実に追いつく前に、次が壊れていく。
やがて、深部が露わになる。
核。
高純度の属性魔石を吸い付くした、魔物本来の魔石だろう。
そこへ到達した軌跡が、そのまま通り抜けた。
光が、割れる。
断末魔のように弾け、四散した。
同時に、すべてが止まった。
触手が力を失い、垂れ落ちる。
水弾が消える。
異形そのものが、支えを失ったように崩れ始めた。
音もなく、ゆっくりと。
内側から、崩壊していく。
やがて――静寂が戻る。
本当の静寂が。




