命のない世界
白い光が視界を満たした直後。
「――っ!?」
強烈な風が、肌を削るように吹き抜けた。
思わず腕で顔を庇う。
しかし――違和感がある。
踏ん張ろうと足に力を入れた瞬間、踏みしめるべき地面がなかった。
目を開ける。
理解が追いつかず、もう一度目を閉じ、再び開く。
――やはり。
「なっ、なんで落ちてんだよ!?」
喉から絞り出された叫びは、風に引き裂かれて消えた。
身体は急激に落下していた。
その速度はみるみる上がり、視界が揺れる。
あまりの速さに、意識を失いそうになる。
だが――状況がまったく見えない以上、意識を手放すわけにはいかない。
「し、死ぬ!」
先ほど死に慣れるなと言い聞かせた身に、恐怖が骨まで染み込む。
これはただの恐怖ではない。
訳も分からず空から落ちるという、理不尽な恐怖そのものだった。
やがて眼前に広がったのは――森。
緑の海。
見渡す限りの巨木が、驚くほどの速さで迫ってくる。
「お、落ち着け!冷静になれ!」
自分に言い聞かせるように叫び、呼吸を整える。
落下そのものはどうにもならない。
ならば、生き延びるためにできることはひとつだけ。
アイオンは両手に魔力を集めた。
「思い出せ、俺!昔ジーナを助けた時と同じだ!!」
あの時は川だった。
だが今回は――木々の群れ。
失敗すれば、身体が枝に串刺しになるだけだ。
それでも、衝撃を和らげなくては生き残れない。
地面との距離を測る。
ギリギリまで引きつけて――魔力を放つ。
「風よ!!」
轟音と共に風圧が下へ向けて解き放たれた。
身体が急激に減速し、皮膚に痛いほどの空気の流れがまとわりつく。
だが――完全に止まりはしない。
「ぐっ……!」
視界が揺れ、木の枝が次々と身体を打つ。
腕で顔を庇い、枝をへし折りながら落下していく。
「痛っ――!風よ!」
痛みを噛み殺し、再び魔力を解放する。
直後――地面が迫った。
「っ!」
鈍い衝撃。
身体が投げ出され、肺の空気が一気に抜ける。
「……いっ、て……」
呻きながら体を起こす。
全身が軋み、皮膚のあちこちが鋭く痛む。
しかし――骨は折れていない。
生きている。
(……助かった)
深く息を吸い、吐き出す。
震える指先で周囲を確認する。
森だ。
どこまでも続く、濃い緑の世界。
見上げれば青空が広がり、木々の隙間から柔らかな日差しが落ちてくる。
そして、遠くで鳥の声らしき音が響いたように聞こえた。
「……何だ、ここ?」
アイオンは立ち上がり、落ちてきた方向へ視線を向ける。
しかし――何もない。
白い光も、石の扉も――跡形もなく消えている。
まるで最初から存在しなかったかのような、ただの森。
「……扉は?」
空を見上げる。
どれだけ探しても扉らしきものは見つからない。
見えないだけなのかもしれない。
だが仮に見つかったとしても、空の飛び方など知らない。
ため息をつき、周囲に目を向ける。
「……意味がわからん」
呆然とつぶやく。
胸の奥に、不安がじわりと広がる。
そして――遅れて気づいた。
「……静かすぎない?」
鳥の声は聞こえる。
風も吹いている。
だが、そのどちらも――妙だ。
空気が重い。
森全体が息を潜めているような、言いようのない違和感。
まるでこの森そのものが、何かを待っているような。
「……ここにいても仕方ない、か」
アイオンは剣を抜き、慎重に森の奥へ足を踏み入れた。
#
森の奥へと進む。
木々の隙間を縫うように歩けば、足元の落ち葉が乾いた音を立てた。
その音だけが、この森の静寂の中で妙に大きく響く。
「……」
アイオンは歩みを止めた。
(……やっぱり、おかしい)
鳥の声は聞こえる。
風も吹いている。
だが――何かが決定的に欠けている。
「……気配が、ない」
小さく呟く。
人の気配はもちろん、獣の気配すらまったく感じられない。
(魔物の気配もないなんて、ありえない)
森ならば、どこかしらに魔物が潜んでいるものだ。
だが――なにひとつ感じられない。
(いや、待てよ)
アイオンは集中し、もう一度耳を澄ませた。
鳥の声――本当に鳥の声か?
「……」
聞こえる。
確かに、何かの音はする。
しかし――それは鳥の鳴き声ではなかった。
(……風、か?)
風が木々を揺らす音。
その不規則な揺れが、鳴き声のように聞こえていただけだった。
背筋がひやりと冷えた。
(……本当に、何もいないのか?)
警戒を強めて歩を進める。
やがて、倒木が道を塞いでいた。
アイオンは乗り越えようと足元の石をどける。
「……っ」
石の下。
本来なら虫がうごめいているはずの湿った土。
だが、そこにも――何もいない。
一匹たりとも。
「……はぁ?」
信じられないものを見るような声が漏れる。
アイオンは木に近づき、幹を揺する。
ガサガサと葉が散り、枯れ葉が落ちる。
しかし、木の隙間から虫も鳥も飛び出してこない。
ずっと、何もいない。
「……何なんだ、ここ?」
胸の奥からぞわりとした寒気が這い上がる。
森はある。
木も草も土もある。
だが――命だけが欠けている。
(……いや)
アイオンは自分の手を見る。
(俺だけ? 俺だけが、生きてる?)
その想像が、妙な不安の波を呼び起こす。
――まるで世界から切り離されたような。
ひとりだけ別の境界に放り込まれたような。
静寂が重い。
自分の呼吸音だけが、やけに大きく響く。
「……」
アイオンは剣を握り直し、歩き続ける。
足音だけが乾いた音を立て、森の床に広がる。
風の音すら、いつの間にか消えていた。
どれだけ進んでも、変わらない景色。
同じ木。
同じ草。
同じ影の形。
そして――
「……ちょっと待て」
ふいに足を止める。
(……この木、さっき見た?)
目の前の幹に、奇妙な模様がある。
まるで人間の顔のような――そんな歪んだ模様。
(……気のせいか?)
首を振り、再び歩き出す。
しかし――すぐにまた同じ模様の木が現れた。
「……」
今度は確信する。
同じだ。
まったく同じ木だ。
円を描くように、同じ場所に戻ってきている。
「……クソ」
冷汗が背を伝う。
(落ち着け。落ち着くんだ)
深呼吸し、方角を確認しようとしたが――太陽の位置が分からない。
木々の天蓋に遮られた光は、どこから降り注いでいるのか判別できなかった。
「……」
静寂。
そのとき――
「……ん?」
足元に、光を反射する黒い染みがあった。
「……?」
アイオンはしゃがみ込み、指で触れる。
ぬるりとした湿り気。
まだ新しい――
「……なにかの血か?」
視線を上げる。
黒い点は森の奥へと続いていた。
ぽつ、ぽつ、と。
まるで誰かが血を滴らせながら歩いたように。
「……追うしかない、か」
アイオンは剣を構え、血の跡を追った。
一歩、また一歩。
森に自分の足音だけが響いた。
#
血痕を辿るうちに、道を塞ぐように一際巨大な大木が姿を現した。
「……」
アイオンは足を止め、木を見上げる。
幹は異様に太い。
見上げても天辺は見えず、ただ静かに森を支配するかのようにそびえ立っている。
樹齢など想像もできないほどの古さだ。
気配を持たない森の中で、この木だけが異質な存在感を放っていた。
そして――幹には、何かが刻まれていた。
「……これは」
アイオンはゆっくりと近づき、指でなぞる。
そこには古い文字が刻まれていた。
だが風化で掠れ、ほとんど読み取れない。
『――は――え――。――し――く――――神――』
わずかに判別できる文字だけを拾っていく。
「……間違え……許し……女神……」
断片だけ。
それなのに――異様な生々しさがあった。
(……クソ女神に謝ってる?)
森の冷気とは違う寒気が、背筋を冷たく撫でる。
(誰が、いつ、これを刻んだ?)
幹に触れる。
石のように冷たい。
木であるはずなのに、生命の温度がまったく感じられなかった。
そして、血痕は大木の裏へと続いている。
「……」
アイオンは息を整え、大木を回り込む。
――その先に。
「……!」
誰かがいた。
木の陰に、背中を丸め、膝を抱えた男が座り込んでいる。
影に溶け込むように静かで、気配はまるでなかった。
「……誰だ?」
警戒しつつ近づく。
返答はない。
気配のなさに、まるで死体かとも思う。
さらに距離を詰める――
男は、年老いた姿だった。
髪は真っ白。
顔には深い皺。
着ている服は朽ち果てた布切れのように擦り切れ、色も抜け落ちている。
まるで数十年……いや、それ以上ここに座り続けていたような姿。
「おい!」
アイオンが声をかけると、男はゆっくりと顔を上げた。
虚ろな目。
焦点が合っていない。
その濁った眼の奥には、自分が誰かさえ曖昧になった者の色が宿っていた。
「あなたは――」
アイオンは息を呑む。
「副官!?」
そう。
異様に老い、別人のようになっていたが――間違いなく、バザーム砦にいたあの副官だった。
胸がざわつく。
どうして、こんなにも老いている?
「……どうして、そんな姿に?」
アイオンが問う。
副官は、ぎしりと動く古い歯車のように、ゆっくりと口を開いた。
「……ここに、長い事いた」
かすれきった声。
喉が乾ききり、人をやめかけた者の声。
「そんなわけないだろ!あなたを最後に見てから、そんなに時間は経ってないぞ!?」
思わず叫ぶ。
だが、副官にはその言葉の意味が届いていないようだった。
「……扉?」
ぽつりと呟く。
視線は空を彷徨い、記憶をなくした老人のように曖昧だ。
「……そうだ……私は……血を使い……扉の……中に……」
途切れ途切れの言葉。
その声があまりに弱々しく、アイオンは言葉を失う。
副官は自分の手を見つめ、震えながら呟いた。
「……あれ?」
「私は……なぜここに?」
混乱した目。
そこには狂気と恐怖が同居していた。
突然、声の調子が変わった。
「財宝は?旧国の遺産はどこに!?」
急激に大声を上げる。
先ほどまでの老人然とした弱さが嘘のように、欲望だけがむき出しになっていく。
「アルゼン様!ベゼブ様!」
木霊する叫び。
森は静寂のまま、それをただ吸い込んでいく。
副官は立ち上がり、狂ったように叫んだ。
「私はやりましたよ!!扉を開いたんですよ!!」
そして――
副官は森の奥へと走り去った。
後ろ姿は老人のそれではなかった。
焦点の合わない狂った目のまま、ありえない速度で木々の間に消えていった。
「待て!」
アイオンも駆けようとする――が、足が動かなかった。
恐怖ではない。
身体の奥で何かが止めていた。
「追うな」と囁きかけるような、得体の知れない拒絶。
「……」
森は再び静寂に戻り、アイオンはその場に取り残された。
(……落ち着け。状況を整理しよう)
自分に言い聞かせるように深呼吸し、頭の中をひとつひとつ整えていく。
(まず、俺は本来どこにいたか?)
バザーム砦――冬だった。
雪に閉ざされた山岳地帯。
凍える寒さの世界。
(……なのに今いるのは――)
周囲を見回す。 雪はない。
季節さえ違う。 暖かい森。
透き通る青空。
(……意味がわからない)
次。
(扉を開けて、白い光に包まれた)
そして気づけば落下し、この森へ。
(扉は?)
見上げる。
何もない。
(……戻る方法がない)
そして――
(副官は……老いていた)
あの姿。
あの虚ろ。
「長い事いた」という言葉。
(時間が狂ってる?それとも……何か別の法則が働いている?)
考えがまとまらない。
(食料は?)
森を見渡す。
魔物はもちろん、生き物すらいない。
(……何もいない)
虫もいない。 鳥もいない。
生きた音が、ひとつもない。
(……なら、何を食べる?)
胸の奥に不安が渦巻く。
(でも、副官は生きていた)
老い果てていたが、生きていた。
では――何を食べて?
(何かがある? それとも、食べなくても……?)
思考が崩れていく。
「……なにもわかんねーよ!!」
叫ぶ。
だが、森は答えない。
静寂が返ってくるだけ。
「……クソ!」
剣を鞘へ戻し、立ち上がる。
(……とにかく、動くしかない)
その瞬間――
胸の奥で、奇妙な熱が灯った。
「……っ」
扉の前で感じたものと同じ。
――呼ばれている。
(……また、か)
心臓を掴まれるような引力。
糸に引かれているような感覚。
その方向へ、身体が勝手に向こうとしている。
「……」
覚悟を決めるしかない。
アイオンは顔を上げ、その引力の先へ歩き出した。
静寂の森の中、ただひとり
――命のない世界を歩く。




