愛憎の憑神 『宵闇』 その1
宵闇は既に、僕の目の前、寸前まで迫っていた。
そのまま僕の腹部へと突進し、僕は自転車ごと軽々と吹っ飛ばされる。
愛用の自転車はただの鉄クズと化してしまい、宵闇の力強さをこれ以上ないくらいに僕に痛感させる。
痛みを以て感じる。
文字通り「痛感」であった。
「うおおっ・・・・!」
自転車を盾にしなかったら僕の身体がこうなっていた。咄嗟の判断とはいえど、ナイスだ僕。
口の中に濃い血の味が広がる。おそらくこの感じだと、肋骨は粉砕され、その破片が臓器に刺さってしまっている感じだろう…うう。
しかしながら命の危機に瀕しているとなれば、僕の中に眠る怪物の治癒力は自然と作用し、なんとか動けるまでに瞬時に回復出来る。
宵闇はそのまま、銀色の風のように辺りを飛び回る。その姿といえば、もはや美しさすらも帯びていた。
だがしかし防戦一方。
攻撃を避けて躱して喰らっての繰り返しのままで、反撃する余裕などどこにもなかった。
──もし仮にあったところで、こいつは僕の大切な人だ。
攻撃なんか、したくない──!
こんなことを第三者の他人に言おうものなら、そう、たとえば黒矢あたりなら「甘っちょろいことをぬかすやつだ」と僕の想いは一笑に付されて終わりなのだろうけれど、僕は咲の事が大切なんだ。絶対に傷つけたくはない。だからといって、どうすれば!?
僕は動揺と混乱に流されながらも、僕が生き残る方法ではなく、咲を救う方法ばかりを考えていた。苦手教科である数学よりもよっぽどタチが悪い。答えが存在するかどうかすら、未確定要素だというのに──。
取り扱い注意。
その憑神は、息を荒らげながら僕を見つめていた。
どことなく、それは彼女の面影があって、脳裏にいつもの笑顔が過ぎる。
「うおおおおぉッ!」
僕は咆哮し(5月の死闘ぶりの咆哮だ)、思い切り駆けながら宵闇の攻撃を避ける。
・・・・・。
いつも優しく気丈に振る舞う彼女が心に飼っていた闇…それが、これほどのものだとは・・・・!!
ならばどうして、僕は予め彼女を救ってやれなかったのだろう。
彼女の事を何よりも想っているつもりだったのに、くそっ──!
どうしようもない自己嫌悪に今更ながら苛まれた。心がそれだけで押し潰れそうで、今にも身体をずたずたに引き裂きそうだった。
すると、唐突に。
突発的に。
「・・・・・・・誰か」
咲の声が、頭に響く。
「・・・・誰か、わたしのことを、あいして、よ…。おねがい、わたしを──。」
悲壮感に溢れている、悲痛感に塗れている、そんな声が僕の脳内で響き渡った。
そうだ。
彼女の生い立ちを鑑みれば、多くの人から恨まれ疎まれ恐れられ、幼い彼女は誰からも「愛情」を受けていない。
唯一、幸せを願った父親のそれにだって、気づけていない──!
「なんでだよ、ちくしょう──!!」
なんで、僕は気づけなかった。
彼女の闇は、常に暴れ狂っていたというのに。
愛情を欲した彼女は、いつしか愛情を与える側になった。
見返りとして、また愛情を求めて──。
そんな、計算高い偽物の愛を、常に振り撒いた。
「私は、悪い子なの…。見返りを理由に、偽善者ぶって、被害者ぶって、それでも愛が欲しくて──!」
彼女の泣きそうな声が聞こえる。
いつしか幼い頃の鬱屈した性格とは打って変わって、彼女は気丈に優しく明るく、誰にでも分け隔てなく接する人気者となった。
全て、愛情を与えて欲しくて。
実際、数ヶ月前まで他者との交流を鬱陶しく思っていた僕も、その優しさに救われていたわけだが──。
「そんな私は、全て偽物なの、がらくたなの、嘘なのよ──。私は私が嫌い。私は私がとても嫌い。私は私がすごく嫌い。私は私がめちゃくちゃに嫌い。私は私が大嫌い。私は私が嫌いで死にそうだ・・・・っ。私は、もう──」
柿本とのあれこれがあった時にこんな台詞を聞いたような気がする。
こういう、自己嫌悪に満ち溢れた嫌なセリフ。
そうして咲は、更に言葉を継いだ。
「生きていたく、ない────。」
「咲ッ────!!」
今日、彼女の下の名前を呼ぶのはこれで2度目となった。なんとなく、呼んでみたくなったのだ。呼ばなきゃいけないと思ったのだ。
そして。
僕はあろうことか、自発的に宵闇へと突進した。
そのままその懐で屈むようにして、その柔らかな毛並みの整った狼の身体を抱きしめる。
「そんなこと…言わないでくれよ。咲がいなくなったら、僕は、きっと死んじまうぜ。不死身の怪物なのに、悲しみに耐え切れずに死んでいた。」
"彼女"の耳元で、囁くように、呟くように、僕は言う。
「お前が自分の事をどんなに嫌いでも、僕はお前の事が大好きだよ。何度も言ってやる。大好きじゃないところはないし、大好きじゃなかった時なんて一瞬もない。咲は偽物でもなんでもない。僕にとってこの世でひとり。本物だ。」
あなたが愛を欲するならば。
僕はあなたをとことん愛してやる。
今までの分、より一層愛してやる。
100人分でも、1000人分でも。
永遠に。
永劫に。
永久に。
「咲────愛してる。」
力強く発したその一言と共に、彼女の身体からはすぅっと銀色に煌めく光が抜けていく。
気づけば先は、僕にお姫様抱っこされるような体勢で、すやすやと眠りについていた。
肌には鱗のような模様もなく。
目つきも普段の穏やかなそれで。
スラリとした長身で。
全く何も変わらない、いつも通りの彼女だ。
本物だ。
何か普段と異なることがあるとするならば、それを強いて言うとするならば、彼女の頬を涙が伝っていた。
僕はしばらく、このままでいようと思った。
彼女を抱きしめていたくて。
彼女を見ていたくて。
彼女を実感していたかった。
空には大きく、満月が輝いている。




