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35.1時間前
あさぎりさん、あさぎりさん……。
「……ん、ん……」
あさぎりさん、朝霧さん……。
「……ん、な、う……」
朝霧さん、朝霧さん。
「なん、だ……」
「朝霧さん!」
スイッチが入ったように、意識が切り替わった。
「こ、ここは?」
「わかりますか? 朝霧さん!?」
大きく眼を見開いた。
広い空間。パイプ椅子だけが、不自然に置かれている。
倉庫。
(そうだ)
だんだんと思い出してきた。海沿いの倉庫──自分はここへ、千鶴を救いにやって来た……はずだ。
流介は、ピントのボケている視界と思考から、靄を取り払っていく。
状況を理解した。あの発作を故意につくりだし、その途中で、われを忘れてしまったのだ。
「あれから、どうなったんだ?」
「どこまで覚えてますか?」
「銃で撃たれた」
傷口を見た。太股には、ハンカチが巻かれていた。
「やっぱり、救急車を呼びましょうか!? うわ言で朝霧さんが、呼ぶな、呼ぶな、と訴えていたものですから……」
「いや、呼ばなくていい」
出血は、だいぶ止まっている。痛みも、あまり感じない。
これも、麻薬のあたえてくれた数少ない恩恵の一つだ。
「千鶴を助け出したよな……そして、犬飼が現れた」
「そうです」
「犬飼は……結局、どこの部署だったんだ?」
「それは、覚えてないんですか?」
「覚えてない」
そういえば、予想外のことを告げられたような気がするのだが……ハッキリとしない。
「ぼくも、ちゃんと聞いていたわけではないんですけど……たしか、監察官だとか」
「そうか……そんなことを言ってたな」
まるで、夢のなかの出来事のようだ。
以前、犬飼に「どこの組織を追ってる?」と訊いたとき、ヤツは「腐りきったところだよ」と答えていたのが印象に残っている。
なるほど、そういうことか。
あの男らしい表現だ。
「犬飼は?」
「もう、だいぶまえに帰りました」
「千鶴は?」
「さらにそのまえですよ……帰っちゃったのは」
流介は立ち上がろうとした。沢村が肩を貸してくれた。
「おれたちを、おいてったのか?」
「そういうことになります。表立った騒ぎにはしないから、あとは好きにしていい──と、犬飼さんが」
それはつまり、闇から闇に葬る、ということだろう。
さすがに警察内部で暗殺ということはないだろうが、問題の刑事たちは免職され、持ち出された違法薬物の件はなかったことにされる。彼らに指示していた黒幕も更迭され、見せ掛けだけの平穏がやって来る……というわけだ。
「いま、何時だ?」
「もうすぐ八時です」
「朝? 夜だよな」
「夜です」
では、それほど時間は経っていないということになる。
「これから、どうするんですか?」
「おれには、まだやることが残ってる」
足元はおぼつかないが、なんとか一人の力でも立てる。
「沢村さん、あんたはここまででいい。最後に、おれを青山まで運んでくれ」
「なにをするんですか?」
「依頼を遂行する」
「いまからですか?」
「ああ。一気に決着をつけるさ。おれが、いつまでまともでいられるかわからないからな……」
一度、寝てしまったら最後、もういまの自分はいないかもしれない。そんな危惧を感じる。
「それともうひとつ、携帯でアルバトロスに電話してくれないか? 恩田社長に」
麻取──千鶴が追っていたデザイナーがアルバトロスにいるのは、ほぼまちがいない。
流介は、恩田を疑っていた。
恩田は、ショージが麻取の潜入であるということを知って、彼の排除と、麻取への妨害を考えた。
そして、自分に依頼をした。麻取を攪乱するために……。
「赤井さんの番号は交換してあります」
沢村が、携帯を操作する。すぐに出たようだ。
「赤井さんですか? 沢村です。恩田社長は、そちらにおいででしょうか? え? パーティ?」
いったん耳から離し、沢村は状況を説明しようとするが、流介は手でそれをさえぎった。
まだ、研ぎ澄まされた感覚は、多少なりとも残っているようだ。静まりかえった倉庫内にいるかぎり、携帯から漏れ出た赤井の声もよく聞こえていた。
いまは、自社の最上階で、創立記念のパーティをおこなっているという。そういえば最初の日、赤井から誘われていた。
社長は現在、スピーチをしている真っ最中だそうだ。
「これから話があるから、パーティが終わるころに、そちらへ行くと伝えてくれ」
沢村は、忠実にそれを伝言してくれる。
と──。
なにか思い出しかけたことがある。
携帯から漏れる声。
どこかで聞いたことがある。いや……あたりまえか。実際に会ったことは一度しかないが、電話では何度も赤井と話をしている。聞いたことがあるのは当然だ。
ちがう……。
ここ最近のことではない。
どこだ?
やはり、聴覚は鋭敏なままだ。記憶力も、いつもより上がっている。思い出せるとしたら、グッドトリップをおこしているいましかない。
思い出さなければいけない……なぜだか、そう感じていた。
本能で──。
四種の薬物が鎮まるまえに、記憶よ、よみがえれ。
「十一時ごろですって」
パーティが終わりそうな時刻を聞いて、沢村が教えてくれる。
切ろうとした。
「待て!」
よほど強い声だったのか、沢村がビクッと驚いたのがわかった。
おや、朝霧さんですか……生きていたんですね。
そう言っているのが、携帯から聞こえる。
「かわれ」
沢村から携帯をむしり取った。
「おまえの声、おぼえがあるぞ」
「そうですか。やっと思い出しましたか」
アルバトロスに潜入したのが、千鶴ではなくショージだった理由がようやくわかった。千鶴は近づけなかった。千鶴のことを知っている人物がいたからだ。
仲間同士でも仮面をつけていたから、顔まではわからないだろう。
しかし、おたがいの声は知っているはず。
『白い蠍』四人の幹部。
そのなかの一人が、赤井だ。
「怠惰」
『そうですよ。この声、思い出してくれましたか』
組織のなかでも、大麻系の麻薬をあつかっていた男。
『社長にうちのタレントを調べさせるように助言したのは、私……いえ、僕です。秋山という人の紹介で、あなたに行き着いたのは偶然ですがね』
その偶然を楽しんだように、そこでクク、と笑い声を挟んだ。
僕、という言い方は、あのときの『怠惰』そのままだった。
『ショージがあやしいのはわかってたんですが、まさか人気タレントを簡単に消すわけにはいかない。彼は自分に保険をかけていた。それが厄介だったんです』
流介には、赤井──怠惰の言う意味が、すぐに理解できた。
ショージの保険。それは、自分自身が違法薬物を使用すること。もし、事故にみせかけて殺されたとしても、遺体から薬物が検出されたら、そこから麻薬捜査がはじまる。
怠惰にとっては、面倒なことになる。
『それで、あなたに荒していただこうと思ったんですよ。どうやら、荒されすぎたようですが』
「おまえが、新庄興業におろしていたデザイナーだな?」
『そういうことになりますか。あなたが去ってから、大麻の需要はかなり減ったんです。いえ、違法薬物全般にいえます。合法モノが、いくらでも自由に売買できることに、みんな気づいてしまったんですから』
もう一度、笑い声。
『いいですか、べつに六年前のことが原因ではありません。われわれが地下に潜ったのはね。そういう時代になったってことなんですよ。非合法にクスリを売る時代は終わったんです』
「ではなぜ、違法モノもデザインしたんだ?」
『さあ、どうしてでしょう』
怠惰は、惚けてみせた。
『しいて言えば、バッズでしょうか』
「バッズ?」
めぐみが口にしていた、大麻草の幻覚作用が出やすい花の部分だけを抽出したもの。
『古典的な麻薬である大麻でも、新しいものが創れるという可能性──まあ、アルバイト感覚で合法モノを製作してたんですが、ちょっと試しに、違法モノの効き目をほんの少しだけイジってみたんですよ。そしたら、見事なまでにハマりましたよ。なんでも生み出せる神の心境とでもいいましょうか』
陶酔したように、赤井は言った。
『で、僕をどうしようというんですか? まさか、警察に、なんて言わないですよね? それとも、古巣の力を借りますか?』
「待ってろ、いまから行ってやる」
『クク、それはおもしろい。あ、そうそう、パーティなんですが、内輪だけのささやかなものなんですけどね、一人だけ、毛色のちがう方がいるんですよ。どうやら、佐賀亮と杉浦梨花──二人と、すっかり仲良くなっていたようで』
「?」
流介の脳裏に、浮かび上がってくる人物がいた。
「めぐみ!?」
『そんな名前だったでしょうかねえ。あなたのことで、社長にお話をうかがいたいとかで』
「クソッ!」
流介は、怒りとともに携帯を切った。