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32.残り二日
老兵は去る。
結局、あの女性からの連絡はなかった。やはり、息子を捜査機関に売り渡すようなことができなかったのだ。責められない。母親ならば、それも当然だ。
だが、本当に息子のことを考えれば、その判断はまちがいだ。
いや……ちがうな。それは、自分が他人だから言えることだ。
もし自分に子供がいて、あの母親と同じ状況に追い込まれたとしたら……。
時計を見た。
もうすぐ、今日の業務も終わる。
残された日数が、また減ってしまうのだ。
あと数分で、残り一日に。
明日が、最後の……。
いつもなら、もう一件ある仕事。
しかし、今日は無いだろう。これで終わりだ。
いや……?
「もしもし、麻薬・覚醒剤相談です」
『もしもし』
鳥山だった。
「鳥山さん!?」
『はい……』
電話機に表示された番号は携帯のものだったが、昨日のものとはちがう。
「お身体は、大丈夫ですか!?」
『限界です……』
力なく、鳥山は言った。
「鳥山さん? 鳥山さん!?」
通話は切られていた。
不安がよぎった。
なにか、よくないことがおこっている……と。
33.3時間前
沢村は、よくここまでたどりついたな──と、われながら感心していた。夕方六時を過ぎ、遠くの空だけに陽光がわずか残っている。
昨日の夜、朝霧流介が刑事たちによって連れ込まれた海沿いの倉庫。当の朝霧流介自身も、よく覚えていなかった場所。もっとも、来るときはべつとして、帰るとき、彼に意識はなかったのだが。
何度か行き止まりにぶちあたり、そのたび、引き返すはめになった。ハンドルを握りながら、内心ハラハラしていた。
「ここだな」
助手席の朝霧流介が自ら確認するように、そうつぶやいた。
「沢村さんは、ここで待機して」
「わかりました」
車を停めた場所は、問題の倉庫からは少し離れている。自分たちの接近を、わざわざ相手に察知させる必要はない、との彼からの指示だった。
倉庫は、昨夜──正確には今日の未明と様子は変わらなかった。すぐ先の海に、彼を乗せた車を転落させたはずだが、すでにその痕跡はない。引き上げた車も、どこかへ運ばれているようだ。
普通に考えれば、事件・事故のあった近くの倉庫を犯罪に使用するとは考えづらいが、結局のところ、犯罪も捜査も、やっているのは警察自身なのだ。暴走した国家権力ほど恐ろしいものはない。
彼は、倉庫へ向かっていった。
遠目に確認できるところでは、見張りのような人影はない。やはり警察は、自分たちに敵対する存在など、あるはずはないと思い上がっているのだ。
朝霧流介が生きている可能性を考えているにしても、まさかすぐ反撃に出るなど想像もしていないのだろう。
彼が行ってから、五分が経った。
一〇分、一五分。もう完全なる夜となっていた。
「ダメだ」
このままここで、ジッとしているなんて……できない。
沢村は、車外に飛び出した。
慎重に、倉庫へ向かう。
周囲をさぐるが、人の気配はない。
倉庫の前までは、嘘のように波瀾もなくたどりついた。
閉まりきったシャッターが重たそうだ。
昨夜は、ここまで近寄っていない。陰から、こっそり様子をうかがっていただけだ。
どうやら朝霧流介は、すでになかへ入っているらしい。
阻むものがないのなら、《関越の雷鳥》と呼ばれたほどの猛者には簡単なことだろう。
沢村は、シャッターに手をかけた。ずっしりと重いのは想像どおりだが、まったく持ち上がらないわけではない。
わずかだけ持ち上げて、くぐろうとした。
そのとき、ひらめいた。
不測の事態がおこったときのために、保険をかけておこう。
シャッターから手を放して、携帯を操作する。
呼び出し音は回数をかさねるが、一向に出る気配はない。
もしものときのため、秋山に応援を頼もうと思ったのだ。抱いていた疑問が、再び鎌首を持ち上げた。
昨夜は否定されてしまった事実。
やはり、秋山の正体は……。
* * *
流介は、身を屈めていた。
倉庫内は、昨日と同様、とても閑散としていた。時間にして一日も経過していないのだから、それも当然か。
シャッターをくぐってすぐに、二台のフォークリフトが停まっていた。昨夜はなかったはずだが、状況が状況だったので、気づかなかっただけかもしれない。いまは、その一台に身をつけて隠れている。いや、隠れざるをえない、といったところか。倉庫内にあるものは、フォークリフト以外、あいかわらずパイプ椅子一つしかないのだから。
昨夜、自分が座らされていたその椅子に、いまは千鶴が座らされている。男たちは、六人。全員の顔まではわからないが、昨日の人数と同じだ。
なぜだか、六年前を思い出していた。
昨夜は、そう感じることはなかった。そこまでの余裕がなかったのだ。あのときとシチュエーションが似ている。これほど広くはないが、ほかになにもない空間だった。
あのとき……四人の幹部に、四種の薬物を投与され、自分はこうなってしまった。職を失い、慢性的な中毒症状に人生を狂わされた。
その幹部の一人が、彼女なのか!?
それとも、あの記憶は幻覚なのか……?
それを問いかけるように、彼女の様子をうかがった。
ここからでは、かなり距離があるので、細かな表情までは読み取れない。だが、慌てたり、うろたえたりしているふうには見えなかった。
そのとき、携帯の着信音が遠くで響きだした。
千鶴のものだったようだ。
千鶴の衣服をさぐり、男の一人が取り出していた。
そのまま男が出たようだ。
話し声までは、距離があるために聞こえない。
すぐに携帯を耳から離した。
そして千鶴にそれをかかげ、なにかを言っている。
「──仲間──」
やはり、断片的にしか耳に届かない。
はたして、これからどうすべきか?
敵は、六人。まともにいって、勝てるわけはない。
流介は、サングラスを装着した。懐からスタンガンを取り出し、グリップを握ると、モニターが起動した。レンズに情報が表示される。一番近い標的まで三二メートル。
このスタンガンの最大射程距離は、二〇メートルということだった。威力を上げ、完全に意識を失わせるハードモードならば、一〇メートルほどだという。確実に戦闘力を奪うためには、そちらでいきたいところだが、沢村からは、法律を考慮して、ハードモードはできるだけ使用しないでほしい、と言われている。
それにこの状況では、一気に一〇メートルまで距離を詰めることは困難だ。それどころか、二〇メートルまで縮めるのも命懸けになる。
いまの自分に、それができるだろうか!?
身体は、動いてくれるか!?
現役のころとは、だいぶ隔たりがある。
しかし……行くしかない。
流介は、意識を集中させた。
いまだけは、体内に巣くう薬物を精神でねじ伏せてやる。
* * *
携帯には、低い男の声が出た。
沢村が、だれですか、と応えたら、逆に「何者だ!?」と詰問された。すぐに切った。
たぶん、予想は当たっている。
シャッターを上げ、今度こそなかへ入ろうとした。
彼は、このことを知っているのか?
いや、知らない。これまでの会話を総合すると、彼は秋山の人相を把握していない。
「待ちな」
ふいに、声をかけられた。心臓が止まりそうだった。
沢村は、ビクつきながら振り返る。そこに広がる光景に、圧倒された。