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 だれかが、こちらを見て笑ってる。

 おまえは、だれだ!?

 いや、それは一人ではない。

 何人も、どこからでも、空からも、地面からも、宇宙からも……その視線からは逃げられない。

 幻覚だ。


 だれかが囁きかけてくる。

 おまえは、取るに足らない存在だ──と。

 一人ではない。

 何人も、どこからでも、空からも、地面からも、宇宙からも……その声は聞こえてくる。

 幻聴だ。


 ああ、おれは、またこうなってしまったのか。

 身体のいたるところで、色とりどりの薬物が暴れ狂っている。

 焼けるような赤は、コカインか。

 冷めたような青い色は、ヘロイン。

 黄色く、くすんでいるのはマリファナ。

 透明に苦しめるのは、覚醒剤だ。

 六年経ったいまでも、体内のどこかで荒れ狂っている。

 すべてが歪んでいた。

 音も、空間も、匂いもすべて。

「……あなたの……思い出し……」

 だれか、いるのか?

 これも幻聴の一部なのか……。

「……なんのこと……」

「ぼく……あなた……会って……」

「勘違い……」

「いえ、ちが……あなたとは……」

 暗闇が覆いかぶさってくる。

 死に近づいているのか?

 のしかかってくる恐怖が、なぜだか薄らいでいく。

 闇までが薄く……。

「最後に……伝えて……ことがある……」

「なんです……」

「犬飼……気をつけ……」

「犬……だれ……か?」

「刑事……いいか……犬飼には……ろ……」

 黒から灰色へ。

 灰色から白へ。

 鳥が飛んでいる。

 白い鳥が。

 落ち着いてくる……。

 異常なことまでが静かになっていくような……。

 ときおり見えるこの白い鳥は、自分にとって敵だと思っていた。幻覚の象徴的なシンボルだと。

 だが、ちがうのかもしれない。

 この鳥は、なんなのだろう。


        11時間前


「気がつきましたか!?」

 流介は、意識を取り戻した。

 見知らぬ場所だった。病院ではない。

 これまでのことが、鮮明に頭をめぐる。

 四人の刑事たちに連行され、海に近い倉庫で尋問をうけた。自白剤らしきものを打たれて、さらにヘロインも注射された。

 アルコールの匂いや、タバコの煙、化学薬品などでも発作をおこすのだから、自白剤だけでも致命傷になりうる。さらに、ヘロインそのものを体内に入れられたとなると、本来の陶酔感は得られず、中毒症状がダイレクトでやって来る。

 あまり苦しみは残っていないが、いま生きていることも奇跡に近い。

「いま何時だ?」

 だれだか知らない男に、そう訊いた。

 どこかで会ったことがあると思うのだが。

「一〇時です」

 外の陽光が、どこからともなく入ってくるので、昼のはずだ。

 午前一〇時。

 倉庫に連れ込まれたのが、夜一二時ごろ。自白剤で意識が混濁していたためにさだかではないが、車で海に落とされたのが、深夜一時過ぎぐらいのはずだ。

 それから、だいぶ正気を失っていたようだ。

 しかし、覚えていることもある。

 そうだ。いま身近にいる男と、だれかが会話をしていたのが記憶にある。

 なにを話していたのかまでは、思い出せない。

「ほかに、だれかいたか?」

「いまですか?」

「話してただろう?」

 上半身を起こしながら、流介は言った。

「かなりまえですよ。夜中の二時ぐらい」

 では、そのころに一度、意識が回復しかけたのだろう。

「秋山さんです。知り合いなんですよね、朝霧さんと」

「会ったのか、秋山に!?」

「え、ええ……そうですよ」

 どうしてそんなことを確認するのか、とても不思議そうに男は答えた。

 嬉しさが、こみ上げてきた。

 やはり、秋山は実在している。

 響野千鶴が指摘したような、幻聴ではなかった。

「朝霧さんの事務所に隠された麻薬をみつけたのも、秋山さんなんです」

 だから刑事たちは、発見できなかったのか。

「どんなヤツだった?」

「え?」

「……いや、いい。いまのは忘れてくれ」

 あいつは、たしかに存在する。

 ただ、それだけでいい。

「あんたは?」

 遅すぎる気もしたが、この男についての疑問も当然ながらある。敵ではないようだ。悪意を、まったく感じない。自分でも驚くほど安心しきっている。

 とはいえ、麻薬のことも知っているとなると、警戒はしなければならない。

 年齢は、三〇前後。年下なのは、たしかだろう。外見は、どの街にでもいそうなサラリーマン、もしくは、どこの役所にでもいそうな公務員。人目を引く特徴は、とくにない。

「ぼくは、沢村といいます」

「仕事は?」

 そう職業を問いかけたてみたが、まさか警察官? という推論が脳内でひらめいた。公務員づらをした警官も、また多い。もっとも、彼らも公務員にちがいないのだが。

「ピース・アームズ社という名前は知ってますか?」

「まったく知らない」

 それを聞いて、沢村と名乗った男は、少し苦い顔をした。

「アメリカの銃器メーカーです」

 ピース……スペルまではわからないが、もし『平和』のPEACEだとすると、なんと矛盾に満ちた企業なのだ。

 直訳すれば、平和武器社。

 あえて、そのことを追求しようとは思わなかった。

「ぼくは、そこの社員です」

「日本支社があるのか?」

「いえ、出張です」

 沢村と名乗った男は、新型のスタンガンを売り込みにやって来たという。

「で、どうしてここにいる?」

 すると沢村は、これまでのことを語りだした。

『朝霧流介』について調べられた書類と、同封されていた覚醒剤を拾ったこと。それで、自分に興味を抱いたこと。事務所に侵入者が入ったこと。その侵入者と刑事が会っているのを目撃したこと。そして、秋山と知り合ったこと。

「おれを海から助けだしてくれたのも、あんたか?」

「ど、どうなんですかねぇ……」

 沢村は、あいまいな言い方をした。

「ぼくも、あまりよく覚えていないんですよ……海に飛び込んだところまではわかるんですけど……」

 それでも記憶を呼び覚まそうとしてくれたようだが、次の瞬間、彼の表情が変わった。

「どうした?」

 沢村の視線の先にあるものは……。

 そのときになって、はじめて流介は、この部屋にテレビが置いてあることを知った。

 もともとそこにあるもの、というよりは、無理やり持ち込んだように感じる。というのも、ここはあきらかに、なにかの店舗だったところだ。たぶん、八百屋。野菜や果物を陳列する台に、自分は寝かせられていて、むかしはレジがあったであろう場所に、小さなテレビがあった。どう見てもブラウン管の旧型だが、地デジには対応しているらしい。

 音量はしぼられていたが、ちゃんと画面には番組が映っている。ニュースだった。

 どうして沢村が驚いたのか、その映像を見て理解した。

 流介自身のことが報じられていたのだ。

 慌てた様子で、沢村がテレビに近づいて音量を上げる。やはりというか、リモコンはついていないようだ。

『昨夜、麻薬所持の容疑で連行中だった自称探偵業、朝霧流介、三八歳が、車を奪って逃走。そのまま車ごと海に飛び込んで──』

 思わず、笑みが浮いてしまった。

『二時間後、捜索により本人を発見しましたが、病院で死亡を確認──』

 さらに、声を出して笑ってしまった。

『警視庁は、捜査は適正におこなわれたとして──』

「ど、どういうことなんでしょう!?」

「死体がみつかったんだってよ」

「ここにいるのに!?」

「つまり、もし生きていることがバレたとしたら、やつらは問答無用で、おれを殺しにやって来るってわけだ」

 すでに、死んでいることになっているのだから──。

「ど、どうするんですか……これから?」

「このまま依頼を遂行するまでだ」

 アルバトロスに所属する三人のタレントの調査は、すでに終わっているといっていい。

 佐賀亮と、杉浦梨花はシロ。

 ショージは、麻取の潜入。

 その結果をもって、はい終わり、ということもできるが、そういう気持ちにはなれなかった。

 社長の恩田から提示されていた期限は、今日までのはずだ。だがアルバトロスにショージが潜入していた以上、あの事務所にはなにかがある。

 それに麻取は、芸能界からもメンバーを集めた『貴族会』を取り仕切っていると考えられる新庄会に網を張っていた。

 さらに、響野千鶴はデザイナーの存在を追っているようだ。昨夜の捕り物で、そのデザイナーが捕まったのかはわからないが、そんな簡単にすむような相手ではないような気がする。

「警察は、どうするんですか!? 秋山さんの話では、警察が裏金をつくるために、押収薬物を市場に流しているそうです」

「警察が?」

 驚きはしなかった。そして秋山の持ってきた話ならば、信憑性は高いだろうとも感じた。

 ということは、その麻薬は、やはり新庄会に流れているのではないだろうか。

 警察からのバックアップがあり、かつ優秀なデザイナーを確保したことが、ここ数年で勢力を拡大していった理由ではないのか。

 麻取は、どこまで知っている?

 千鶴が追っているのは、あきらかにデザイナーのほうだ。おそらく、警察のことまではつかんでいない。もし、警察との全面戦争にでもなれば、組織の規模からいっても、麻取に勝ち目はない。

 最初から、アンタッチャブルの案件にされるだろう。

 一方、警察のほうは、麻取の介入を警戒している。だから、自分に興味を向けたのだ。

「喧嘩を売ってきたのは、あっちだ。こちらから降りるつもりはない」

「大丈夫なんですか!?」

「国家権力が必ずしも正しいというわけではないし、必ず勝つというわけでもない」

「いえ……朝霧さんの身体のほうです」

 軽い戸惑いが生まれた。この男は、初めてあったはずの自分の身を案じている。相当なお人好しだ。

「問題ない」

「そうは見えませんが……」

 流介は立ち上がった。

 ふらつきはあったが、充分動ける。

「この服は?」

「ここにあったやつです。秋山さんが、隠れ家として使っているみたいです」

 どこかで見たことがあるシャツだな、と感じた。スラックスも見覚えがあるような……。薬物の影響で記憶力が浸食されているので、自信はないのだが。

「出かけるのなら、この上着を」

 差し出されたジャケットに袖を通すと、その思いは一層強くなった。

 スーツ姿など、麻取時代以来のことだ。

 なるほど、そういう意味での既視感なのだろう。

「ここはどこだ?」

「八百屋だったところです。それとも、ここの地名ですか?」

「ああ」

「それは……よくわかりません。深夜でしたし、秋山さんにつれてこられただけですから」

 足を動かした。

 思いのほか、うまく動いてくれた。

 シャッターを開け、外に出た。

 陽射しが、毒のように刺してきた。

 自白剤とヘロインのブレンドから醒めたばかりの身体には、きつかった。

「つぶれた商店街か」

「あ、これ……」

 店の前に、一台の青い車が停まっていた。

 飛ばないようにワイパーに挟まれて、一枚の紙がフロントガラスに添えられている。

 沢村が、その紙に書かれていた文字を読んだ。

「秋山さんから」

 この車を自由に使ってくれ──そう書いてあった。キーもささっていた。ほかのだれかが乗っていってしまうことも考えられたが、ここに立ち寄ろうとする人影はまるでない。

 秋山なら、それぐらいの計算はしているだろう。

「運転できるか?」

「ぼくですか?」

「ほかにだれがいる?」

「で、できます。でも……日本の免許は失効しちゃってます」

「運転できるなら、それでかまわん」

 沢村の抗議を受け流して、助手席に座った。

 沢村も、その態度に観念したのか、2テンポ遅れて運転席に入った。

「でも、ここがどこだかわからないので……どう進めばいいのか」

「とにかく、大きな道路をめざせばいい。アクセルを踏めば、どうにかなるさ」


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