25
25.車内にて
女性の運転する車で、渋谷まで向かった。
青いスポーツカーだった。
走行中は、どちらも無言だ。ふと沢村は、肝心なことを訊いていなかったことに気がまわった。
女性の名前だ。
「あの……」
「ここで停める」
問いかけの声は、あっさりと遮断された。
車の速度が、ゼロになっていた。
「え? でも…………」
まだここは、渋谷駅から遠いのでは……。
電柱に記された町名は、西麻布だった。
しかし女性は早々にドアを開け、外へ出てしまった。正確な地図上での位置まではわからないが、駅前どころか、若者でにぎわう渋谷の雑踏はない。ただ静かな夜の街が、まわりには広がっている。
あまり交通量のない路上の片側に寄せ、停車していた。彼女が、わざと大通りを避けていたことは明白だ。
「駅前は車を停めづらい。それに、歩行者はそれほど人目につかないが、車というのは意外に印象に残りやすいものだ。だれかにナンバーを覚えられる危険もある」
たしかに、この派手な車だったら、そうかもしれない。
「でも……悪いことをしているわけではないし……」
「覚醒剤を取りにいくんだ。慎重になりすぎるぐらいがちょうどいい」
そこからは、徒歩で移動した。
一五分……いや、三〇分近くかかっただろうか。
ロッカーから、A4版の封筒に入った書類と覚醒剤を回収した。アタッシュケースは、まだ邪魔になりそうなので、べつの番号に入れなおした。
同じ時間をかけて、車まで戻る。
「それ、どうするんですか?」
ようやく車にたどりつき、一息ついたところで、沢村は質問をぶつけた。
「こうするんだ」
女性は車の窓を開けると、ビニールを破いて、なかの覚醒剤を捨てた。
沢村は、思わず口をあんぐりと、あけっぱなしにしてしまった。
続けて、実際に仕掛けられていたヘロインのほうも……。
いいんですか、と眼で訴えかけた。
その視線に気づいてくれたようで、女性は笑みをたたえながら、こう言った。
「この世に存在してはいけないものだ」
そうすることが、最善の策だと信じきっているようだった。
女性は、違法薬物を憎んでいる──そう強く感じた。
「でも、警察を糾弾するのに使えたんじゃないですか!?」
「それは、オレの仕事じゃない」
「では──」
では、だれの仕事なんですか!?
そう問おうとして、途中でやめた。
それをするのは朝霧流介だと、確信にも似た予感があった。
それからは、ホテルに戻った。
玄関口まで車をつけてくれたので、あの職務質問をしていた警察官のことを心配する必要もなかった。
また翌朝迎えにくる──と女性には告げられたが、昼になっても、なんの連絡もなかった。
協力することを受け入れてくれたと思ったのだが、うまく彼女にあしらわれたのかもしれない。そんな落胆で脳内が占められたころ、彼女から携帯に連絡があった。
いまから、そっちへ行く──と。
夕方四時ごろだった。
それから三〇分ほどして、再び女性と合流した。昨夜と同じ車に同乗した。
「置いてかれたのかと思いましたよ」
「そうするつもりだったが、オレの時間は半分しかない。人手は多いほうがいい」
「え?」
時間は、半分しかない……どんな意味だろう?
「おまえには、リュウさんの事務所を見張っててもらう。いいな?」
「え、ええ……大丈夫です」
問いかけようとしたのだが、そのタイミングを逸してしまった。
「あなたは、どうするんですか?」
「オレは、警視庁をはる」
ほどなくして、車は朝霧探偵事務所の前についた。沢村は、その降り際、まだ彼女の名前をたずねていないことに思い至った。
「あ、あの……あなたのことは、なんて呼べば……」
「秋山だ」
そして彼女の運転する車は、警視庁方面へ向かっていった。
* * *
「なんなのよ……いったい……」
「あれ、本当に警察だったの?」
「警察手帳は、本物ぽかった」
「でも、そんなのいくらでも偽造できるでしょう?」
「そうだな」
「ねえ、亮ちゃんの知り合いで、弁護士の先生とかいないの?」
「いない。でも、うちの事務所の顧問弁護士とかに頼めるかもしれない。朝霧さんのことが気になる?」
「そんなんじゃない。……でも、なんだかなつかしい。ピーちゃんに会えたみたい」
「梨花、さっきからピーちゃんて、なんのことなんだ?」
「むかし飼ってたインコ」
「あの人をインコといっしょにしないで!」
「オバサンは、関係ないじゃん」
「お、おばさんって! わたしは、まだ二〇代よっ!」
「たぶん、ギリギリでしょ?」
「なんなのこの小娘!」
「ま、まあまあ……落ち着いてください。いまは、そんな喧嘩をしてる場合じゃありませんよ」
「フン!」
「フ~ンだ」
「あの……、お名前は?」
「わたしは藤川です。あの人の主治医です」
「お医者さんですか」
「あなたは?」
「オレは佐賀です。見たことありませんか?」
「う~ん、うちの患者さんでしたっけ?」
「やっぱ、オバサンだ。テレビとか観ないでしょ」
〈パシンッ〉
「いった~い! このオバサン、ぶった!」
「あなたのようなムカつく小娘には、これぐらいがちょうどいいのよ!」
「芸能人の頭を叩くなんて、訴えてやる!」
「梨花! いいから黙って! いまは朝霧さんのことだ」
「ん? 亮ちゃんの携帯鳴ってるよ」
「本当だ。もしもし、赤井さん? え!? そうですか……仕方ないですね。わかりました。覚悟してます」
「どうしたの?」
「騒動のことがバレた」
「え? 今日のこと!?」
「ちがう。オレの問題だ。明日発売の週刊誌に出るらしい」
「ああ、酒場で殴り合いの喧嘩ってヤツね」
「どうして知ってるんだ!?」
「もう噂になってるよ。亮ちゃんが、ボコボコにされたって。ホントだったんだ」
「……」
「酒乱なんですか?」
「は、はあ……お恥ずかしい話です」
「もし、アルコール依存症の兆候があるんでしたら、うちで診察しますよ。専門は薬物中毒ですけど、そっちのノウハウもありますから──」
「え!? じゃあ、朝霧さんは……」
「むかし仕事でね、そういうことがあったの……」
「あまり詮索しないほうがいいですね」
「そうしてくれると、彼も助かると思うわ」
「明日は大変だね。ワイドショーの取材とか。事務所の創立記念パーティ、どうすんの?」
「あ、ああ……そうか、明日の夜だっけ」
「あなたたちって、本当に芸能人なの!?」
「そうです。一応、これでも」
「サインはあげないよ、オバサンには」
「だれが、あなたなんかの!」
「梨花!」
「は~い」
「あ、よかったら、どうですか? うちの事務所のパーティ。オレの知り合いということで、出席できるようにしますよ」
「え、でも……」
「そうですね、そんな場合じゃないですね。朝霧さんが心配ですよね……大丈夫でしょうか?」
「あの人は、芸能界の麻薬流通を調べてるって言ってたけど」
「そうみたいです。うちの社長が依頼したとか……」
「じゃあ、事務所の社長さんなら、あの人がどんな連中を調べてたかわかるかしら?」
「どうでしょう? でも調査結果を報告しているかもしれません」
「話とか、うかがえるかしら」