第37話 演劇の配役と冷たい教室の隅っこ
夏休みが終わり、アスファルトを焦がしていた過酷な熱気も、朝夕の肌寒さを伴う秋の気配へと少しずつその姿を変えつつあった。
碧陵学園の重厚な校門をくぐり、俺は二学期の初日を迎えていた。
かつては絶望の淵に突き落とされ、この門をくぐることさえ億劫だった日々が嘘のように、今の俺の足取りは以前よりもずっと軽かった。
海での思い出、夏祭りの夜に交わした温かな記憶などが、俺の背中をしっかりと押してくれている。
教室の扉を開けると、そこには相変わらず澱んだ空気が渦巻いていた。
ガヤガヤと談笑していたクラスメイトたちの視線が、俺が入ってきた瞬間に一斉に突き刺さる。いつもの冷ややかな目、まるで触れてはならない厄介者を見るような侮蔑の混じった眼差し。
しかし、今の俺は、以前のように冷や汗を噴き出させることはなかった。
俺には、信じてくれる家族がいる。玲那さんがいて、桐乃さんがいて、爽花さんと凛ちゃんがいて、そして母さんがいる。
胸の奥でそう呟きながら、俺は自分の席へと静かに歩みを進めた。
隣の席の遥は、相変わらずこちらを一瞥すらしようとせず、教科書のページに視線を落としたまま微動だにしない。彼女の背中から漂う気まずさと拒絶の気配も、今の俺にとってはただの背景の雑音に等しかった。
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体育館での始業式を終えて教室に戻って来ると、やがてチャイムが鳴り響き、ロングホームルームが始まった。
担任の教師が教室に入ってくるやいなや、「それじゃあ、二学期の最初のホームルームを始める。来月十月の頭には碧陵祭が控えているから、さっそくクラスの出し物を決めるぞ。クラスを取り仕切るのは学級委員長に任せる。委員長、前へ出て進めてくれ」と告げ、教壇の端へと引っ込んでしまった。
担任に促される形で、学級委員長の女子生徒がテキパキと教壇に歩み寄り、チョークを手にして黒板の前に立った。
「えーっと、みんな静かにして! それでは二学期の文化祭の出し物について、クラスみんなの意見を募りたいと思います。何かやりたいアイデアがある人は、どんどん手を挙げて発言してください!」
学級委員長が明るく声を張ると、静まり返っていた教室にざわめきが戻り、次々と生徒たちが手を挙げて発言し始めた。
「はいっ!」
一番に手を挙げたのは、上位カーストの女子生徒だった。彼女は許可されると、満面の笑みを浮かべて立ち上がった。
「委員長、私からの提案なんだけど! 私たちのクラスは、やっぱり王道でみんなが楽しめるものがいいと思うの。例えば、定番の『メイド喫茶』とか、みんなでワイワイ作れる『たこ焼き屋』なんてどうかな?」
その提案に、クラスの男子生徒たちを中心に「おっ、メイド喫茶いいじゃん!」「たこ焼きも捨てがたいな!」と賛同の声が次々と上がる。
学級委員長は手際よく黒板に『メイド喫茶』『たこ焼き屋』と書き込み、「他に意見がある人?」と教室を見渡した。
「はい!」
別の女子生徒が元気に手を挙げる。
「お化け屋敷はどうですか! 準備も派手にできるし、絶対に盛り上がりますよ!」
「あ、それいいね!」
「いやいや、模擬店系は買い出しとか衛生管理が面倒臭いって。もっと教室を暗くして、プロジェクターを使った映像上映とかスマートにいこうぜ」
次々と飛び交う意見を、学級委員長は手際よく黒板にまとめていく。クラス全体が賑やかな活気に包まれていく中、その華やかな議論の輪の中心にいるのは、いつだってクラスの主導権を握る者たちだった。
様々なアイデアが出尽くしたところで、学級委員長が教壇からクラス全体に呼びかけた。
「じゃあ、出揃ったアイデアの中でどれにするか、みんなで挙手による多数決を取りたいと思います。『メイド喫茶』に賛成の人……十名。『お化け屋敷』に賛成の人……八名。そして『演劇』に賛成の人……過半数ですね。では、今年の出し物は『演劇』に決定します!」
学級委員長の元気な宣言に、クラスの一部からは「おおー!」という歓声が上がり、別のグループからは「え、マジかよ、セリフ覚えとか面倒くさそう……」というぼやきが漏れた。
演劇と決まれば、次に決めるべきは当然『演目』と『配役』である。
「次は具体的な『演目』と『主役』をどうするかを決めます。誰か希望や提案がある人、手を挙げてください!」
学級委員長のその呼びかけに、教室がざわつく中、教室の真ん中あたりからスッと手が挙がった。
「委員長、いいかな?」
爽やかな笑みを貼り付けて立ち上がったのは、藤嶺徹だった。
「はい、藤嶺君、どうぞ」
「ありがとう。演目は、誰もが知っていて衣装も華やかになる、劇団四季やディズニーでもおなじみの『シンデレラ』なんてどうかな? 王道中の王道だし、演出次第でいくらでも見応えのある舞台にできると思う」
藤嶺のそのスマートな提案に、学級委員長は「わぁ、それすごく素敵! 『シンデレラ』なら衣装も映えそうだし分かりやすいよね。他に対案がある人はいるかな?」と教室を見渡した。
誰も異議を唱える者はいなかった。
むしろ、クラスの花形である藤嶺がそこまで言うのなら、それに乗っかるのが一番楽だと、周囲の生徒たちも無言でうなずいていた。
「じゃあ、演目は『シンデレラ』に決定ね。……で、肝心の配役なんだけど、王子様役と、ヒロインのシンデレラ役、誰がふさわしいか推薦や立候補はあるかな?」
学級委員長がそう聞くと、待ってましたと言わんばかりに、赤羽が隣の席に座る藤嶺に意味深な視線を送りながら、再び元気に手を挙げた。
「はいっ! 委員長、私から推薦したい人がいます!」
「はい、赤羽さん、お願いします」
「はい! 王子様役は、やっぱりクラスの中心でいつもみんなを引っ張ってくれて、端整なルックスの藤嶺君が一番ぴったりだと思います!」
赤羽のその言葉に、教室中の女子たちが「たしかに!」「藤嶺君なら王子様役が似合いすぎる!」と一斉に賛同の声を上げた。
藤嶺はふっと余裕の笑みを浮かべ、軽く手を挙げて謙遜してみせる。
「いや、俺なんかで務まるかどうか……でも、クラスのみんながそこまで言ってくれるなら、王子様役、責任を持って全力を尽くさせてもらうよ」
その完璧なまでの王子様然とした振る舞いに、クラスの雰囲気はすっかり藤嶺の独壇場となっていた。
「じゃあ、王子様役は藤嶺君に決定ね! ……で、肝心のヒロイン、シンデレラ役はどうする? 立候補はいないかな?」
学級委員長がそう聞くと、赤羽は自分で挙手していた手をさらに高く突き上げた。
「はいっ! 私、シンデレラ役をやらせてもらってもいいかな? 実は中学の時も少し演劇の経験があって、衣装合わせや演出のこともお手伝いできると思うの!」
学級委員長は「赤羽さんが経験者ならすごく心強い! じゃあ、シンデレラ役は赤羽さんで決定ね」と快く了承した。
「やったぁ! みんな、足を引っ張らないように頑張るから、応援よろしくね!」
赤羽はクラス全体に向けて可愛らしく両手を合わせてみせ、男子生徒たちからも「おっ、赤羽なら可愛いしぴったりじゃん!」と好意的な歓声が飛んだ。
あの事件──空に対する陰惨な冤罪騒動と、それを藤嶺や赤羽が主導したのではないかという悪質なハメ技の噂は、クラスの生徒たちも知ってはいたはずだった。一部の冷ややかな目を向ける者や、不気味に距離を取る者がいなかったわけではない。
しかし、学校における『スクールカーストの頂点』に君臨する藤嶺と赤羽の圧倒的な人気と、周囲を掌握する話術の前には、そんな薄汚い噂など容易にかき消されてしまうらしかった。
彼らは相変わらずクラスの主役であり、誰もが憧れる『陽キャグループ』の絶対的君主として君臨し続けていた。
「よし、主要な配役は決まったね。それじゃあ、脇役や大道具、小道具、衣装担当の割り振りを進めるから、希望がある人は挙手してね」
学級委員長が手際よく作業を進めていく。
教室の片隅、誰とも目を合わせず、ただ自分のノートの端を指先で弄りながら、俺は窓の外を流れる雲をぼんやりと眺めていた。
まあ、こうなるよな……。
自嘲の笑みが自然とこぼれ落ちる。
クラスの誰もが、俺に関わりたくないと思っている。あんな忌まわしい事件の当事者として噂されている奴を、演劇の舞台になど上げたいと思う人間がいるはずがない。裏方でさえ関わらせたくはないだろう。
案の定、学級委員長がクラス全員の役割を次々と割り振っていく中で、俺の名前が呼ばれることはなかった。
「えーっと……衣装担当は……佐藤さんと鈴木君。大道具は……」
クラスメイトたちがワイワイと楽しそうにグループを作り、自分の役割を確認し合っていく喧噪の中で、俺の周囲だけがまるで透明な壁で隔てられたかのように、異様なほどぽっかりと空間が空いていた。
誰も俺に声をかけない。誰も、俺の名前を口にしない。
「おい、あいつ、完全にハブられてるぜ」
「当たり前だろ、あんな犯罪スレスレの気持ち悪い野郎とやるなんて、絶対ごめんだもん」
「むしろ、よく学校来られたよな。普通なら恥ずかしくて自主退学してるとこだぜ」
前方の席から、ひそひそと漏れ聞こえてくる悪意ある小声が、耳に突き刺さるように響いてくる。
やっぱり、現実は甘くないか……。
学校という小さな社会において、一度つけられた『レッテル』を剥がすことがどれほど困難なことか。
藤嶺や赤羽のように、周囲を味方につけて圧倒的な陽キャの光を放つ者たちとは対照的に、俺に与えられたのは、教室の隅っこという名の冷たい孤立だった。
何の役割も与えられず、クラスの誰もが俺を空気のように扱う。
かつての中庭で玲那さんと交わした温かな約束や他の家族との絆がなければ、俺は今頃、この教室の重圧に耐えかねて再び押しつぶされていたかもしれない。
『空君は一人じゃないんだから。私、何があっても絶対に空君の味方でいるからね』──。
脳裏に蘇る、あの時の玲那さんの真っ直ぐな瞳と、温かな手の温もり。
その記憶が、胸の奥で小さく、しかし確かな炎となって燃え盛るのを感じた。
そうだ……クラスでハブられようが、何の役も与えられなかろうが、どうでもいい。俺には、あいつらの世界とは違う、本当の意味で心を通わせられる場所がある。
俺は深く息を吸い込み、うつむいていた顔をスッと上げて前を見据えた。




