第13話 深夜のホラー映画、ベッドの上の微熱
昨夜のあまりにも刺激的すぎるハプニングのせいで、俺は一睡もまともな眠りにつくことができなかった。
あの共用バスルームの脱衣所で起きた出来事──無防備すぎる姿で佇んでいた玲那さんの滑らかな白い肢体や、潤んだ瞳で見つめられながら囁かれた「エッチ」という言葉が、脳裏からどうしても離れなかった。
あんなにも生々しい女性の裸体を目の当たりにしてしまった以上、明日の朝、顔を合わせるのが気まずくて仕方がなかった。
きっと冷たい目で見られるか、あるいは気まずい沈黙が流れるに違いない。朝を迎えるのが怖くて仕方がなかった。
けれど、翌朝。
ダイニングキッチンに足を踏み入れた俺を待っていたのは、予想を完全に裏切る光景だった。
「あっ、空君、おはよう」
そこにいたのは、いつもと変わらぬ、いや、むしろ昨夜のことが嘘のようにすっきりと晴れやかな笑顔を浮かべた玲那だった。
ダイニングテーブルの席でスマホを弄っていた彼女は、ごく自然なトーンで声をかけてくる。昨夜のあられもない姿の面影など微塵もなく、まるで何も起きていないかのような爽やかな挨拶だった。
「え……あ、おはよう、玲那さん……」
「どうかしたの? そんなに固まって」
首をかしげる玲那さんの様子に、俺は拍子抜けしながらも、ホッとしながらを朝食の準備を始めた。
あんな大事件を軽やかにスルーしてしまう彼女の器の大きさに、動揺していた自分が少しバカらしく思えてくる。
§
それから一日が過ぎ、夕食を終えた後のことだった。
リビングでは、まったりとした時間が流れていた。
四姉妹と俺がそれぞれお気に入りのカップに淹れたての珈琲を手に取り、ソファやラグマットにくつろぎながら他愛のない世間話に花を咲かせていた。
と、その時。
「そうだ、ホラーが見たい!」
唐突に、爽花さんがソファからガバッと立ち上がり、力強く宣言した。
彼女は今日も今日とて斜め上を行くセンスを発揮しており、白地のTシャツには『私は頑張らない。お前が頑張れ』というシュール極まりない黒文字が躍っている。眼鏡の奥の瞳を爛々と輝かせながら、
「また突然ね……。急にどうしたのよ、爽花」
桐乃さんが、優雅に珈琲のカップをソーサーに戻しながら、呆れたような目を向けた。
「いや、なんか無性にスリルが欲しくなったっていうかさ。たまに見たくなるんだよ、こういうベタなやつ! ほら、よくあるじゃん、別荘にやってきたエッチなことばかり考えてるバカップルが、冒頭で真っ先に殺人鬼に惨殺されるような、最高のB級ホラーがさ!」
「また趣味の悪いものを……。まあ、皆が付き合うなら反対はしないけれど」
「じゃあ、ネットの配信オンデマンドですぐ探そうか。ちょうどホラーの特集やってたはずだから」
玲那さんが手元のタブレットをスワイプしながら、淡々と検索を始める。
そのやり取りを少し離れた場所で聞いていた凛ちゃんは、一瞬にして顔を青ざめさせた。
「えっ……? ちょ、ちょっと待ってよ! 本気でそれ見る気!?」
「なに、凛ちゃん。もしかして怖いの?」
爽花さんがニヤニヤと意地悪そうに顔を近づける。
「もしかして、夜に一人でトイレに行けなくなっちゃうパターン? おむつでも履いておく?」
「そ、そんなことないし! ぜ、ぜんぜん余裕だし! バッチコイだよ、ホラー映画なんて怖くないもん!」
必死に強がり、両手をブンブンと振って否定する凛ちゃんだったが、その小さな肩はわずかに震えている。
明らかにホラーが苦手なのがバレバレだったが、姉たちにからかわれたくない一心で、彼女は意地でも引き下がらなかった。
こうして、妙なテンションのままリビングの照明が落とされ、大型のテレビの画面に暗い森と不気味な洋館が映し出された。
映画が始まってしばらくは、静かなサスペンス調の展開に「なんだ、大したことないじゃん」と凛ちゃんも余裕の表情を浮かべていたが、やがて、その時はやってきた。
「きたあああああ!」
画面が突然暗転し、不気味な音楽と共に、森の奥から血にまみれた巨大な斧を持った殺人鬼が突如として画面いっぱいに飛び出してきた。 次の瞬間、画面の中でイチャついていたカップルが、容赦なく斧で切り伏せられ、凄まじい絶叫と共に血飛沫が上がる。
「きゃあああああああっ!!」
同時にすさまじい悲鳴を上げたのは、やはり凛ちゃんだった。
「ひいいっ……! こ、こわいっ、むりっ……!」
恐怖のあまりパニックに陥った凛ちゃんは、隣に座っていた俺の腕に、まるでしがみつくツタのようにガッシリと飛びつき、その胸元へと顔を埋めた。
「おっと……!」
不意打ちの抱きつきに、俺は思わず声を漏らす。
腕の中に飛び込んできた凛ちゃんの体温がダイレクトに伝わってくる。中等部二年生という年齢でありながら、彼女の身体は日々確実に成長を遂げていた。しがみつかれた腕や胸元には、柔らかく豊かな感触がしっかりと押し当てられ、俺は突然のラッキースケベ的シチュエーションに鼓動を速める心臓をなんとか必死で抑え込んだ。
「あはは、凛ちゃん、怖がりすぎでしょ! 必死に空君にしがみついちゃって可愛いねぇ」
爽花さんがケラケラと笑い、玲那さんも「もう、怖かったら目をつぶってなさい」と優しく微笑む。桐乃さんも「あまりいじめるもんじゃないわよ」と呆れ顔だ。
結局、映画が終わるまでの間、凛ちゃんはすっかり青い顔をしたまま俺の腕から片時も離れようとせず、そのままエンディングを迎えることになったのだった。
§
深夜。時計の針は静かに午前零時を回っていた。
映画のドタバタですっかり疲労困憊した俺は、自室のベッドに横になり、深い眠りに落ちようとしていた。
と、その時。
コン、コン。
静まり返った部屋の中に、控えめなノックの音が響く。
ん、と俺が目を開けて起き上がると、ドアの隙間からひょっこりと顔を出したのは、先ほどまでホラー映画で怯えていた凛ちゃんだった。
彼女はパジャマの裾をキュッと握り締め、どこか申し訳なさそうな顔をしている。
「……あのさ、空お兄ちゃん……起きちゃった?」
「凛ちゃん? こんな夜中にどうしたの?」
「うぅ……あのホラー映画のせいで、自分の部屋に戻ったら、暗闇のなかにあの斧を持った殺人鬼が出てきそうで……どうしても怖くて眠れなくなっちゃって……」
凛ちゃんはトボトボとベッドの脇まで歩いてくると、潤んだ瞳で俺を見上げた。
「あのさ……お願い、トイレまでついてきてほしいの……」
「ああ、それくらい全然いいよ。行こっか」
俺がベッドから降りようとすると、凛ちゃんは慌ててその袖をキュッと掴んだ。
「ひとりで廊下を歩くのも怖いから……トイレの前で待ってて……」
「わかった、傍にいるから安心して」
廊下を抜け、共用の洗面・トイレエリアまで凛ちゃんにつきそい、彼女が用を足している間、俺は壁にもたれて静かに待った。
やがてトントンと扉が開き、顔を真っ赤にした凛ちゃんが出てくると、彼女は安心したように小さく息をついた。
「ありがと、空お兄ちゃん……」
「ううん、怖かったね。ほら、もう遅いし、自分の部屋に戻って寝なよ」
そう言って自室に戻ろうとした俺の袖を、凛ちゃんがぎゅっと強く引っ張った。彼女の頬はほんのりと赤く染まり、恥ずかしそうに視線を下に落としている。
「あのさ……もしよかったら、その……今夜だけ、一緒に寝てもいい……?」
「え……?」
予想外の言葉に、俺は思わず目を見開いた。
「い、一緒にって、俺の部屋のベッドで?」
「うん……一人だと、またあの怖い映像が頭に浮かんじゃって……。お兄ちゃんの部屋なら、怖くない気がするの。ダメ……かな?」
上目遣いでじっと見つめてくる少女の頼み方に、俺は断りきれなかった。
実の妹の萌絵にはあんなにも冷たく拒絶されたというトラウマがあるだけに、こうして自分を頼ってくれる凛ちゃんの存在は、とても愛おしくもあった。
「……わかったよ。じゃあ、今夜だけだからね」
「やったぁ!」
パッと顔を輝かせた凛ちゃんは、俺と一緒に部屋に戻ると、嬉しそうにベッドへと潜り込んだ。
シングルの布団ならまだしも、ゲストルームにあるのは大人が二人余裕で横になれるキングサイズのベッドだ。いくらでもスペースはあるはずだったが──。
俺がベッドに入り直すと、凛ちゃんはすぐさまスルスルと距離を詰め、俺の体にピタリと密着するように横たわってきた。
「えへへ……空お兄ちゃん、いい匂いがする……」
凛ちゃんは俺の腕に自分の腕を絡め、顔を胸元にすり寄せるようにして目を閉じた。
柔らかい髪の毛が俺のあごをくすぐり、彼女の身体から漂うシャンプーの甘い香りが鼻腔をくすぐる。中等部とはいえ、年頃の女の子の柔らかな体温と密着した感触が、俺の全身の神経を鋭敏にさせていく。
しかし、それだけでは済まなかった。
「あれ……?」
ふと、凛ちゃんは目をぱちくりとさせ、空
俺の股間のあたりを不思議そうに指先でツンツンと突いた。
「お兄ちゃん、なんか……お腹のところに、変な硬いものが当たってるよ? これなに?」
その純粋無垢な疑問の言葉に、俺の全身の血が一気に沸騰した。
やばい……!!
凛ちゃんの甘い香り、無防備な密着、そして柔らかい感触のコンボにより、健康な男子としての生理現象──股間が見事にテントを張ってしまっていたのだ。
それをあろうことか、ぴったりとくっついている凛にダイレクトに指摘されてしまったのである。
「い、いや、これはだね……その……寝相が悪くて筋肉が変に張っちゃってさ……! 気のせいだよ、気のせい!」
「そうなの? なんか硬くてゴツゴツしてるけど……」
「い、いいから寝なさい! もう夜も遅いんだから!」
冷や汗をダラダラと流しながら必死でごまかす俺。
凛ちゃんにまだ異性に対する具体的な性知識が備わっていなかったことが、奇跡的にこの最大の危機を救ってくれた。
もし少しでも知っていれば、今頃悲鳴を上げて逃げ出していたかもしれない。
「ふぁぁ……なんだか安心して眠くなってきた……」
幸いにも、凛ちゃんはそれ以上深く追求することなく、俺の腕にしがみついたまま、すーすーと心地よさそうな寝息を立て始めた。完全に安心しきって、無防備に眠りにつく少女。
自分の股間の大変な状況に冷や汗を流しつつも、俺は動くに動けず、ふぅと長い溜息をついた。
「まったく……可愛い子だな……」
緊張しながらも、俺は優しくその頭を撫で、眠れない夜のなかで静かに天井を見上げた。




