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Last Crown  作者: 香山 結月
第3章 雪明かりと蠟梅
316/507

64-1

 ただいま、と聞こえたのは縁側の奥の中庭からだった。

 昼食の用意をしていたフミエが急いで立ち上がり、こたつに座って本を読んでいた亜莉香は顔を上げる。雲が途切れて晴れ間が覗く空の下、竹垣を飛び越えたピヴワヌとヨルは着物の雪を払った。


「あー、疲れたぞ。どこもかしこも精霊がいて、ろくに近づけもしない」

「つべこべ言わずに、さっさと部屋に入れ。もっと早く帰るはずだったのに」


 文句を言いながら、頭を振ったピヴワヌは先に部屋に足を踏み入れた。被っていた赤い着物を羽織り直して、肩まで毛布をかけて寒そうにこたつに潜る。

 ヨルは縁側でフミエからタオルを受け取り、濡れた髪を拭く。

 手にしていた本を閉じて、亜莉香がそっと隠す前にピヴワヌに見つかった。


「何を読んでいたのだ?」

「…国語辞典です」

「こくご?」


 訳が分からない顔をしたピヴワヌに、分厚い本である国語辞典を取られる。こたつの上に置いたままページを捲った後、表紙を閉じて亜莉香に押し返された。


「儂には全く読めん」

「ですよね。フミエさんにも、そう言われました」

「誰の本だ?」

「あ、それは俺のだ」


 濡れたタオルを頭に被せたまま、ヨルはこたつには入らずに胡坐をかいた。


「アリカには読めたのか?」

「はい。一応」


 一応と答えはしたが、随分と見ていなかった文字は問題なく読めた。こたつの毛布と床の間にあった国語辞典を見つけたのは偶然で、勝手に見るのは悪いと思いながらも懐かしく、夢中で目を通した。


 国語辞典を読んでいる間は、ヒナと話した会話を頭の隅に追いやれた。

 まだ考え途中のことはあるが、ひとまずは手の中にある国語辞典を見下ろす。


 ヨルが熟読したのか。それとも別の誰かが読んでいたのか。年季が入った国語辞典は少し黄ばみ、所々に印が引いてあった。印は二種類で、よく見比べた。一つは文字を丸く囲い、もう一つは四角く囲う。違いが分かった後には、もしかしてと別の言葉を探した。


 力いっぱいに大きな丸で、寄る、の単語に印が付けてあった。

 夜ではなく、寄る。


 丸く囲った印はヨルではないかと推測しながら、国語辞典を読んでいるのは楽しかった。途中で昼食の用意をしに来たフミエを手伝おうともしたが、大丈夫だと言われて手は出していない。テーブルの隅に国語辞典を置き、亜莉香は姿勢を正す。

 三人分の小鉢をこたつに並べながら、楽しそうにフミエが言った。


「随分昔から、ヨル様が読んでいる本でしたよね?」

「まあな。と言っても、俺も半分も読めていないけど」

「この本は、どうやって手に入れたのですか?」


 国語辞典を見つけた時から、気になっていたことを訊ねた。

 ヨルはフミエと顔を合わせてから話し出す。


「俺とルイが大福を喉に詰まらせて死にかけたのは、いつだっけ?」

「私が五つの頃でしょうか?」

「じゃあ、そのくらいだな。ルカの父親が旅をしている時に、異国の本だって俺にくれた。ルイとルカは読めないから放り投げて、叔父さんは俺に読み方を教えてくれた」


 説明をしながら、国語辞典を見つめたヨルの瞳が柔らかくなる。


「叔父さんは、書物が好きな人だったからさ。この国の言葉も異国の言葉も、どんな言葉にも力が宿ると信じて、珍しい本があると持ち帰った。亡くなった時に大半は処分されたけど、これは俺が貰った本だから大切に保管していた」

「普段から持ち歩いていたのか?」

「いや、気分転換したいときだけだな」


 国語辞典に手を伸ばそうとしたヨルに、亜莉香はそっと差し出した。小さくお礼を言って受け取ったヨルは国語辞典を捲って、見開いたページを亜莉香とピヴワヌに見せる。

 寄る、に印が付けてあるページを見せながら、ヨルは少し困ったように話し出す。


「俺は全部を読めない。平仮名は読めるけど、漢字は訳が分からない。本を受け取った時は子供で、叔父さんがこの字に印を付けた。これはお前だって言われたけど、アリカには意味が読めるか?俺には難しくて、全部読めなくてさ」

「丸い印がヨルさんではないのですか?」

「違う。四角い印が俺で、丸い印は叔父さんだ」


 案外几帳面に印を付けていたヨルに驚いた。読めると小さくも言い、亜莉香は国語辞典を引き寄せて文字を眺める。


 ルカの父親は夜でもなく因るでもなく、寄る、を選んだ。


 意味を読んでいると何となく、その理由が分かる気がした。


「ある物の方に位置が移動するとか。もたれかかるとか。目的地へ行く途中で訪ねるとか。色んな意味があるのですが――」


 全ては読まずに抜き出して、亜莉香は笑みを浮かべる。


「集まる、の意味が私は好きです。人が自然と集まるヨルさんらしいですね」

「そうか?」

「自覚はないと思うが、精霊はよく近くにいるぞ」


 十分に温まったピヴワヌが口を挟み、にやにやと笑う。


「今日とて、儂が威嚇しなかったら精霊を引き連れることになったからな。人望があるかは、儂の知らない所だが」

「人望も勿論ありますよ。温泉街の若い人達やお年寄りは、ヨル様に尊敬と感謝を抱いています。誰も本人には滅多に言えませんが」


 少し可笑しそうにフミエは言い、こたつのうえに土鍋を設置し終えた。蓋を取らずにコンロの火を付け、四人分のお椀と箸を並べる。

 腰を落ち着かせたフミエに、ヨルは眉間に皺を寄せて言う。


「礼なら本人に言ってくれよ」

「そう簡単には言えません。ヨル様はリーヴル家の本家のお方なのですから。誰もが恐れ多くて、声をかけるのすら躊躇うのです。本来なら、この部屋でお食事をなさるのも止めるべきなのですが――」

「食事くらい、俺は好きな所で食べる」


 頬杖をついたヨルが面倒だと言いたげに、フミエの言葉を遮った。


「食べたいものを食べて、行きたい場所に行く。話しかけるのに躊躇する連中の気持ちが、俺には全く理解出来ないな」

「まあ、ヨルはそのままでいいと思うぞ」

「なんか馬鹿にされたように聞こえたぞ、ピヴワヌ」


 名前を呼ばれたピヴワヌの笑みは消えない。

 不機嫌になったヨルを気にせず、フミエは微笑んだ。


「誰に対しても平等に接して下さるヨル様の人柄に、皆が魅かれるのです。お礼を直接言えないのは申し訳ないと思っていて、ある人は感謝を込めて野菜を届けに行くと言っていました。お受け取りになりましたか?」

「…部屋の前に置いてあったのは、動物の仕業じゃなかったのか」


 ぼそっと呟かれた言葉に、亜莉香は思わず笑ってしまった。

 隣にいるピヴワヌも耐え切れず、笑いを堪えながら訊ねる。


「野菜を礼に貰うとは、ヨルは普段何をしているのだ?」

「そうですね。迷子になった子供を助けて、奥様方の話題の中心になっていました。態度の悪い客を追い出し、若い人達の憧れです。この冬に雪かきを手伝って下さった時は、お年寄りの方々が口々にお礼を申しておりました。そう言えばヨル様の雪の像が作られていたのは、ご存知でしたか?」

「知るわけがないだろ」

「子供達が一生懸命に作っていましたよ。大工の方が手を加え、中々の出来栄えのものを」


 呆れを通り越して、何とも言えないヨルが頭を抱えた。

 真面目に答えてくれたフミエには申し訳ないが、亜莉香は口元を隠して顔を伏せる。

 雪の像まで作られていたのは予想外で、それが子供だけではなく大人も手を加えているのが面白い。雪の像、と繰り返すピヴワヌが笑い苦しみ、こたつに顔を押し付けて身体を震わせた。

 亜莉香とピヴワヌが笑っている理由が分からず、フミエは首を傾げる。


「私、何か可笑しなことを言いましたか?」

「是非、ヨルさんの雪の像を見てみたいなと」

「お時間のある時に案内しますよ。この宿から近い場所にあるので」


 フミエの申し出が、ピヴワヌの我慢の限界だった。


「あっはは!人のくせに像を作って拝まれるとは、凄いな!それもお礼が野菜!なんで野菜なのだ!どちらかと言えば、草食じゃなくて肉食だろう!」


 拝まれるとは誰も言っていない。訳の分からないことまで言い、想像力豊かな発言に、表情が消えたヨルが立ち上がって、笑い続けるピヴワヌの腕を掴んだ。


「ピグワヌ、ちょっと来い」

「え、おい…どこに――」


 笑い過ぎて力が入らなかったピヴワヌを、ヨルは容赦なく雪の中に放り投げた。

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