第1話 義弟がやってきた日、前世を思い出しました
その日、エーデル公爵家の玄関ホールは、いつになく冷たい空気に包まれていた。
「今日からこの子もエーデル家の者だ。ルシアンという」
お父様の低い声が響く。その後ろに、小さな男の子が立っていた。
くすんだ銀の髪に、夜明け前の空のような紫の瞳。痩せた体に、サイズの合わない上着を着せられている。年は、十歳の私より一つ下だと聞いていた。
「まあ、旦那様。これが例の……」
扇を広げたお義母様――コーデリア様の声に、私の肩がびくりと跳ねた。
三年前にお母様が亡くなった後、お父様が迎えた後妻。連れ子のダミアンと一緒に屋敷へ来てから、この家は彼女のものになった。
「卑しい女の血が流れている子を、本当に公爵家に入れるおつもり?」
「口を慎め、コーデリア」
お父様はそれだけ言うと、執務室へ去ってしまった。お父様はいつもそうだ。お仕事が忙しくて、屋敷のことは何も見ていない。
だから、知らない。私の背中に、昨日の鞭の痕が残っていることも。
(……目立たないようにしなきゃ。今日は、お義母様の機嫌が悪い)
うつむいて、ドレスの裾をぎゅっと握る。息を殺して、壁の花になる。それが私の身につけた、唯一の身の守り方だった。
そっと視線を上げると、男の子もまたうつむいていた。
――ルシアン。銀の髪に、紫の瞳。
どこかで、見たことがある。
そう思った瞬間だった。
「っ……!」
頭の奥で、何かが弾けた。
蛍光灯の白い光。山積みの書類。終電の窓に映る、疲れきった女の顔。そして、寝る前に唯一の楽しみとして遊んでいたスマートフォンのゲーム画面。
『光の乙女と七つの約束』
画面の中で、美しい青年が剣を構えている。銀の髪に紫の瞳。その足元に倒れているのは、豪奢な赤いドレスの女。
『さようなら、姉上。あなたが僕にしたことを、地獄で悔いるといい』
(……え? 待って、待って……!)
膝から力が抜けて、私はその場にしゃがみ込んだ。
「お嬢様!?」
侍女のマリーが小声で駆け寄ってくる。
(思い出した。私、前世で日本人だった。毎日残業して、そのまま倒れて……たぶん、死んだんだ)
そして今の私は、ロザリンド・エーデル。
あのゲームに出てくる、悪役令嬢の名前だ。
ゲームのロザリンドは、義弟ルシアンを虐げ抜いた。罵り、食事を抜き、冬の物置に閉じ込め、鞭を振るった。
設定資料集の片隅に、小さく書かれていた一文を思い出す。
――継母に虐げられていたロザリンドは、義弟を差し出すことで、自分への折檻から逃れていた。
(そっか。ゲームの私は、怖かったんだ)
自分が打たれないために、もっと弱い者を盾にした。その結果、成長したルシアンに断罪され、処刑される。
前世の私は「ざまぁ」と笑っていた。今は、背中の傷がずきずきと痛むだけだ。
「何を座り込んでいるの、ロザリンド。みっともない」
頭上から降ってきた声に、びくりと体が震える。
「も、申し訳ありません、お義母様……」
慌てて立ち上がる。手が震えて止まらない。お義母様の目が細められるのが、怖くて見られない。
そのとき、ホールに意地の悪い笑い声が響いた。
「おい、愛人の子。お前の部屋は屋根裏だってさ。ネズミとお似合いだな」
ダミアンが、ルシアンの肩を乱暴に突き飛ばした。小さな体がよろめいて、大理石の床に倒れる。お義母様は扇の陰でくすくすと笑っていた。
ルシアンは何も言わない。痛いとも、やめてとも。ただ、慣れているように唇を噛んでいる。
――知っている。あれは、我慢することしか許されなかった子の顔だ。
毎晩、鏡の中で見ている顔だ。
(怖い。目をつけられたら、また打たれる。でも)
でも、ここで見ないふりをしたら。私はきっと、ゲームと同じロザリンドになる。
震える足を、一歩前へ出した。
「や……やめて、ください」
かすれた声だった。それでも、ホールがしんと静まり返る。
「……は? ロザリンド、お前、今なんて」
「その子は……お父様が、家族だと仰いました。だから、私の、弟です」
ダミアンとルシアンの間に立って、小さく両手を広げる。歯の根が合わなくて、言葉がうまく続かない。
お義母様の扇が、ぴしりと音を立てて閉じられた。
「――ロザリンド。今夜、わたくしの部屋にいらっしゃい」
血の気が、すうっと引いていく。
それが何を意味するか、私は誰よりもよく知っていた。
「……はい、お義母様」
お義母様がダミアンを連れて去っていく。ドレスの衣擦れの音が遠ざかって、ようやく息ができた。
振り返ってしゃがみ込み、床に座ったままのルシアンに手を差し出す。指先は、まだ震えていた。
「だい、じょうぶ? 怪我は、ない?」
ルシアンは、紫の瞳を大きく見開いて私を見上げていた。
差し出された手と、その震えを、じっと。
「はじめまして、ルシアン。私はロザリンド。あなたの……お姉様よ」
上手に笑えていたかは、わからない。
けれど、小さな手がおそるおそる、私の手に重なった。
――これが、私の生存戦略のはじまり。
そしてこの時の私はまだ、知らなかったのだ。
この小さな手を取った瞬間から、もう二度と離してもらえなくなることを。
初投稿となります!




