第060話 山頂の風
廃坑での戦いを終え、二人は旅を続けた。
山頂までは、あと少しだ。
背中の土と汗が乾き始め、衣が肌に張りつく。あさひの額の傷は浅かったが、動くたびに血が滲む。こよいは布を濡らし、歩きながらそっと傷口を拭った。あさひは「気にするな」と言ったが、こよいは首を振った。守ることは、立ち止まることじゃない。
山道は急で、足元の石が脆い。踏むたびに小さな石が転がり、谷へ落ちていく音が消えていく。こよいは息を整え、歩幅を小さくした。巾着の中の風が軽く回り、疲れを散らしてくれる。あさひは先に立ち、危ない場所では手を伸ばした。
途中で、古い石碑が倒れているのを見つけた。苔に覆われた文字は読めないが、旅人の安全を祈る印が残っている。こよいは一度だけ手を合わせ、風の神にも伝えるように静かに祈った。
風が強い。でも、あの時の嫌な風ではない。
清々しい、自由な風。
山肌の草が波のように揺れ、雲の影が滑っていく。風は背中を押すだけでなく、前へ導くように吹いていた。巾着の中の風の神が、軽やかな音を立てている。
巾着の中の風の神が、嬉しそうにしている。
『……ここ、きもちいい』
『……ともだちが、たくさんいる』
「友達?」
『……かぜの、ともだち』
山頂には、風の精霊たちが集まっているようだ。
目には見えないけれど、草木がざわめく音で分かる。
こよいは耳を澄ませた。葉が擦れる音の奥に、小さな笑い声のような響きが混じる。風の神はそれに合わせてくるくると回り、気配が広がる。ここには、風のための居場所があるのだ。
こよいは巾着を少し開け、風の神に「ここで少し休んでもいいよ」と囁いた。風の神は嬉しそうに外の風と混ざり、柔らかい流れになって戻ってきた。外の風が優しく頬を撫で、こよいは目を細めた。
頂上に着いた。
視界が一気に開ける。
眼下には、広大な盆地が広がっていた。
そして、その向こうには、さらなる山脈が連なっている。
遠くの空は薄い青で、雲が流れている。これまで見てきた荒野とは違い、谷には緑が点在し、川が銀色に光っていた。風が肌を撫でるたび、汗が冷えて心地よい。こよいは深く息を吸った。
少しだけ腰を下ろし、乾いたパンを分け合った。あさひは黙って噛み、こよいは水筒の水を一口だけ飲んだ。疲れた体に冷たい水が沁みる。風の神が巾着の中で小さく鳴き、パンの香りを嗅いでいる気配がした。
こよいはパンの欠片を巾着の前に置いた。風の神が小さな風でそれを包み、ほんの少しだけ香りを楽しむ。こよいは笑い、これまでの旅で風の神が少しずつ人の仕草を真似るようになったことに気づいた。神は神でも、変わっていく。変わることこそが、生きている証だ。
「……広いね」
「ああ。世界は広い」
あさひが言った。
「ここから先は、別の地方だ。……観測者の支配も、少しは緩んでいるといいんだが」
あさひの声にはわずかな疲れが混じっていた。だが、その目は前を向いている。旅はまだ続く。こよいは頷き、胸の灯を確かめた。
こよいはふと、山吹宿の人々の顔を思い出した。風が戻った時の表情。助けられた数は小さくても、その一人一人に意味がある。ここから先も、同じように救わなければならない。その覚悟は、静かに燃え続けていた。
「……しおりさんも、どこかで頑張ってるかな」
こよいは小さく呟いた。あさひは一瞬だけ目を細め、「あの子なら大丈夫だ」と短く答えた。言葉は少ないが、背中が頼もしい。こよいは頷き、再び前を向いた。
こよいは荷を確認し、干し餅の残りを数えた。水筒を振ると、まだ半分ほど残っている音がした。あさひは布を裂き、額の傷に簡単な当て布をした。こうした小さな準備が、次の一歩を支える。こよいは「無理はしないで」と言い、あさひは鼻で笑った。
あさひは地図を取り出し、指で盆地の縁をなぞった。「谷に降りたら、戻るのに時間がかかる。覚悟を決めろ」こよいは頷き、胸の灯に手を当てた。戻るためではなく、進むために歩いている。そう自分に言い聞かせ、荷紐を締め直した。
「……ねえ、あさひ」
「ん?」
「あさひの師匠って、どんな人?」
あさひは、遠くを見つめた。
懐かしそうな、少し寂しそうな目。
「頑固な爺さんだよ。……でも、最高の剣を作る。魂を込めるんだ」
「俺の剣も、師匠が打ってくれた最後の剣だ」
あさひは柄に触れ、指で鍔の傷をなぞった。その傷は、師匠との最後の稽古でついたものだと言った。こよいはその話に耳を傾け、剣が単なる道具ではなく、約束の証であることを感じ取った。
「師匠は、風を読むのがうまかった。剣だけじゃなく、道を読む」
あさひは遠くの雲を見て言った。「あの人なら、この先の異変も見抜くだろう」
こよいは頷き、風の動きを見つめた。風は山頂では自由だが、谷に近づくと急に鈍くなる。まるで境界線があるみたいだ。
あさひは、背中の剣を撫でた。
「必ず見つける。……生きていればな」
「生きてるよ」
こよいは言った。
「きっと待ってる」
「……そうだな」
二人は、盆地に向かって降り始めた。
しかし、その盆地には、奇妙な静けさが漂っていた。
鳥が飛んでいない。
雲が動いていない。
まるで、絵画のように止まっている。
風も、谷に近づくほど弱くなっていく。山頂では弾んでいた風の精霊たちの声が、遠のいていった。こよいは胸の奥に不安が走るのを感じた。風が止まる場所は、いつも誰かが囚われている。
だから、止まった風をもう一度動かす。こよいはその役目を胸に刻み、巾着を握り直した。
草の揺れが止まり、空の雲も動きを失っていく。鳥の鳴き声も消え、音の少ない世界が広がる。こよいは巾着を抱き、風の神に「怖い?」と問う。風の神は小さく鳴き、怖いけど行くと答えた。
「……おい、あれを見ろ」
あさひが指差した。
谷底にある湖。
水面が、波一つなく鏡のように固まっている。
「固定されてる?」
「ああ。……それも、かなり大規模にな」
あさひは剣の鞘を握り直した。こよいも巾着の結び目を確かめる。山吹宿とは違う、別の形の閉塞。止められた時間が待っている。
こよいは一度だけ振り返り、山頂の風に礼を言った。風は返事のように背中を押す。二人はその押し出す力に乗り、谷へ向かって歩き出した。
下り坂は緩やかだが、空気は重くなる。数歩進むたびに、風の音が遠のき、静けさが増していった。こよいはその変化を肌で感じ、次の試練の形を想像した。止まる世界で、灯は揺らげるのか。
あさひは足を止めず、ただ谷を見据えている。こよいはその横顔に決意の硬さを見た。もし時間が止まっても、歩みは止めない。その覚悟が、二人を前へ進ませる。
こよいは胸の灯を確かめ、指先で小さく握った。灯は小さくても消えない。山頂の風が背中を押すうちは、まだ進める。そう信じて、こよいは一歩を踏み出した。
足音が谷に吸い込まれ、二人の影が長く伸びていく。静けさの中で心臓の音だけが響き、その鼓動が止まった世界へ入る覚悟を刻む。風の神が小さく鳴くと、こよいは頷き、二人は歩調を揃えて静かに谷へ降りていく。空気はさらに重いが、道は長く、止まれない。風の匂いが薄れ、石の冷たさが強くなる。足元も固い。冷たい。重い。
完全に固定された谷が、すぐそこまで迫っていた。




