第050話 夜の森
山吹宿を脱出し、三人は暗くなるまで歩き続けた。
あさひとこよい、そして巾着の中の風の神。
観測者の追っ手を警戒して街道を外れ、森の奥深くへと足を踏み入れた。
木々が鬱蒼と生い茂り、月の光さえほとんど届かない暗闇。けれど、あの町の閉塞感に比べれば、この暗闇はむしろ優しかった。風が枝を鳴らし、葉が擦れる音が生きている証のように聞こえる。
足元の落ち葉が湿っていて、踏むたびにしっとりと音を立てる。土の匂いが濃く、冷たい水気が足首にまとわりついた。こよいは巾着を胸に引き寄せ、風の神の気配が消えていないことを確かめる。
暗い森の中では、風の神の小さな気配が灯のようだった。こよいはその灯に導かれるように歩き、枝に引っかかった裾を直した。
「よし、今夜はここで野営だ」
あさひが小さな沢の近くに場所を決めた。
地面は湿っているが、水の音が心を落ち着かせる。こよいは慣れた手つきで焚き火の準備を始めた。あさひが手際よく火を起こすと、パチパチという音と共にオレンジ色の火が踊りだした。煙の匂いが鼻をくすぐり、体の芯がほどけていく。
火がつくと、森の闇が少しだけ遠のいた。火の明かりが木の幹を赤く染め、影が揺れる。こよいは手のひらを火にかざし、冷えた指先を温めた。風の神が巾着の中で小さく回り、火の熱を面白がっているようだった。
あさひは周囲を一度見回し、倒木を集めて簡単な風避けを作った。枝を組み、布を掛けるだけの粗末なものだが、風が弱まり火が安定する。旅の知恵が、こよいには頼もしく見えた。
「……あさひ」
「なんだ」
「さっきの壁……あんなのが、これから何回もあるのかな」
こよいは膝を抱えて炎を見つめた。
観測者の力は想像以上だった。町一つを、あんなに簡単に、音もなく閉じ込めてしまうなんて。
「……ああ。奴らはどこにでも網を張っている」
あさひは剣を横に置き、干し肉を齧りながら言った。
「世界中の『揺らぎ』を消して、すべてを奴らの帳面の中に閉じ込めるのが目的だからな」
風が、巾着の中で小さく回った。
『……いやだ』
小さな声が聞こえ、こよいは巾着をそっと撫でた。
「……でも、あさひはどうして、あんなに戦えるの?」
あさひの手が止まった。
しばらく沈黙が続いた。焚き火の爆ぜる音と、遠くのフクロウの声だけが響く。
「……俺も昔、探していたものがある」
あさひの声は、いつもより低く、静かだった。
こよいは炎の向こうのあさひの横顔を見た。普段は鋭い目が、今夜は少しだけ疲れている。炎の揺らぎがその疲れを隠してくれているようだった。
こよいは自分の指先を見た。小さな傷が増えている。旅は続くのに、体はまだ小さい。それでも歩かなければならない。あさひの言葉を聞きながら、その覚悟が胸の奥で固まっていった。
「ある刀鍛冶だ。俺に剣を教えてくれた師匠だった。……でもある日、師匠は観測者に連れ去られた」
「……えっ」
「理由は分からねえ。ただ、『例外的な技術を持っている』とかなんとか、奴らは言っていたな」
あさひは剣の柄を強く握りしめた。
炎の光が、その指の節を赤く照らす。
「俺は助けようとした。でも、その時の俺には力がなかった。……師匠も、俺が育った村も、みんな『固定』された。俺だけが、運良く外にいたから助かっただけだ」
あさひの声が微かに震えた。こよいはそれを聞き、胸の奥がじくりと痛んだ。風が一瞬だけ止み、焚き火の音だけが響く。
その静けさが、あさひの失った時間の重さを伝えてくる。こよいは何も言えず、ただ焚き火の揺らぎを見つめた。
あさひの過去。
こよいは言葉を失った。
彼もまた、ぼくと同じように大切なものを奪われてきたのだ。風の中に、鉄の匂いが一瞬だけ混じった。
「だから、俺は奴らを追っている。師匠を取り戻すために。……それから、あんな思いを誰にもさせないために」
あさひはこよいを真っ直ぐに見た。
その目には、強い意志の火が灯っていた。
「お前を守ってるのも、そのためだ。……集め手は、奴らにとって最大の天敵だからな」
「……ぼくが?」
「ああ。お前が神を運び続ける限り、世界は固定されない。……お前は、希望そのものなんだよ、こよい」
希望という言葉が、炎の中で揺れた。こよいはそれを掴みたくて、手を伸ばしそうになる。けれど、まだ小さな手には重い。それでも、握るしかないと思った。
希望は重いけれど、背中を押す力もある。こよいはその力を信じたかった。
しおりの声が遠くで響く。「届けて」。その言葉が何度も胸の中で反芻される。こよいは頷き、炎に向かって小さく「約束だよ」と呟いた。
希望。
そんな重い言葉、九歳のぼくにはまだ受け止めきれないけれど。でも、あさひがそう言ってくれるなら、頑張れる気がした。
『……ぼくもいるよ』
巾着の中から、風の神が囁いた。
温かい、優しい風が手のひらを撫でる。
こよいはその風に背中を押され、ぽつりと自分のことを話した。
「ぼくもね、しおりさんがいなかったら、ここまで来られなかった」
あさひは黙って頷いた。こよいは火を見つめ、炎の中にしおりの笑顔が浮かぶ気がした。胸が痛い。でも、その痛みが歩く力になる。
「母さんとの約束もある。だから、止まれないんだ」
口に出すと、言葉が少しだけ軽くなった。あさひは短く「そうか」と返し、薪を足した。
「……うん。行こう。あさひ、風」
こよいは微笑んだ。
一人じゃない。同じ痛みを知り、同じ未来を見据える仲間がいる。
風の神の冷たい手触りが、こよいの心を支えていた。あさひの言葉と、風の存在が、火よりも温かく感じられる。
こよいは小さく頷き、焚き火に木を足した。火が大きくなり、影が高く伸びる。森の暗闇の中で、その影は三人の輪郭のように見えた。
あさひは剣を布で拭き、刃を確かめた。風の神は巾着の中で小さく回り、火の周りに薄い風の円を作る。こよいはその円の中で、少しだけ安心した。
円の中は暖かく、外の冷えた空気から守られている気がした。こよいはその境界を指でなぞり、風の神が作ってくれた小さな守りを感じた。
夜の森は静かに更けていった。
焚き火の温もりが、三人の絆をより深く、強く、結びつけていた。
遠くでフクロウが鳴き、沢の水が石を叩く。火の残り火が小さくなっても、こよいの胸の灯は消えなかった。明日も歩ける。そう思いながら、こよいは目を閉じた。
巾着の中の風がゆっくり回り、子守唄のような音を立てる。こよいはその音に耳を澄ませ、静かな眠りに落ちていった。
夢の中で、しおりの声が一瞬だけ聞こえた気がした。こよいはその声に頷き、また歩けると心の底で確かめた。




