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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第16章 余白の終点

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第498話 風の止まり

挿絵(By みてみん)


風が止まった。


 唐突ではなかった。歯車の部屋を抜け、回廊(かいろう)を降りるにつれて、少しずつ空気の流れが弱まっていた。それが今、完全に途絶えた。


 こよいは頬(ほお)に手を当てた。

 皮膚が何も感じない。冷たさも温かさもない。風がないと、温度の判断すらできなくなる。

 呼吸(こきゅう)で肺に入る空気だけが、ここに空気があることを証明していた。


 「止まったな」


 あさひが言った。声が奇妙に近い。反響(はんきょう)がない。壁に当たって跳ね返るはずの音(おと)が、そのまま消えている。


 「空気が動いていない。完全に静止(せいし)している」


 久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を周囲に巡らせた。蒼光(そうこう)が壁を舐(な)め、天井を探り、床を這(は)う。


 「風だけじゃない。塵(ちり)も止まっている。この空間では、物理的な運動(うんどう)がほぼ停止している。重力と、俺たちの身体の動きだけが例外だ」


 こよいは手を振ってみた。空気の抵抗がほとんどない。指の動きが妙に軽い。水の中にいるような重さがない代わりに、真空(しんくう)の中にいるような頼りなさがあった。


 足元の回廊(かいろう)は、白銀の壁に囲まれていた。

 歯車の部屋とは違い、ここには歯車がない。壁面は滑らかで、継ぎ目が見えない。一枚の鋼板を折り曲げて作ったような、途切れのない空間だった。


 回廊(かいろう)は緩やかに下っている。

 浅い傾斜を下るほど空気は濃くなり、一呼吸で受け取る情報が増えた。


 「ここは何だ」


 「神雧(かみあつめ)の最深部への通路だ」


 久遠(くおん)は目録(もくろく)を開いた。頁(ページ)が動かない。風がないせいで、紙が自然にめくれることもない。指で一枚ずつ送る。


 「目録(もくろく)の記述が、この地点で途切れている。ここから先は、観測者(かんそくしゃ)すら記録(きろく)を残せなかった領域(りょういき)だ」


 「記録(きろく)がないってことは」


 「誰も、ここを言葉にできなかったということだ」


 こよいは巾着(きんちゃく)を胸に押さえた。

 神々が震えている。微かに。だが途切れずに。

 振動(しんどう)のリズムが変わっていた。これまでの旅で感じてきたどの脈動(みゃくどう)とも違う。速くもなく遅くもなく、ただ深い。心臓の奥で鳴る太鼓のような、一打ごとに全身を揺らす振動(しんどう)。

 雨の神が最初に反応した。布の中でぽたぽたと、小さな雨粒のような脈を打ち始めた。風の神が続いた。巾着(きんちゃく)の紐(ひも)が風もないのにかすかに揺れる。月の神は光った。布越しに、白い光が一瞬こよいの指を照らした。最後に硝子(びいどろ)の神が、ちいさく鳴った。鈴(すず)の音(ね)に似た、透(す)き通った一音(いちおん)。


 「神々が、何か感じてる。怖がってるんじゃない。もっと……近いものに、反応してるみたいだ」


 「近い?」


 「うまく言えない。懐かしいとも違う。もっと根っこの……最初に会ったときの、あの感じに似てる」


 久遠(くおん)は義眼で、回廊が巨大な空洞の外縁を螺旋状に下りていると読んだ。中心は密度が高く、蒼光も届かない。


 あさひは足を止めず、先頭を歩き続けた。

 声だけを後ろに投げる。


 「見えなくても着く。足があるんだから」


 回廊(かいろう)の壁に、変化が現れ始めた。

 滑らかだった表面に、細い亀裂(きれつ)が走っている。亀裂(きれつ)の中から、金色の光が漏れていた。根だ。壁の向こう側から、根がここまで伸びてきている。


 こよいは亀裂(きれつ)に指を当てた。温かい。

 歯車の部屋で感じたのと同じ温度。根が運んでくる名前たちの体温。


 「根が、ここまで来てるんだ」


 「祭壇の炎が元帳への道を開いた影響だ。置換はまだ終わっていないが、根が神雧(かみあつめ)の最深部へ一気に伸びている」


 回廊(かいろう)を降りるにつれて、亀裂(きれつ)は増えていった。

 壁のあちこちから金色の光が漏れ、白銀の回廊(かいろう)が金の筋で染まっていく。


 やがて、足音(あしおと)が変わった。


 鋼(はがね)の床に、砂(すな)のような粒子(りゅうし)が薄く積もっている。

 こよいは屈(かが)んで指先に取った。粒は光っている。金でも銀でもない、透明に近い光。


 「名前の粉だ」


 久遠(くおん)が言った。


 「ここで名前が砕(くだ)けたわけじゃない。名前の余韻(よいん)が、粒子(りゅうし)になって堆積(たいせき)している。大量の名前が、長い時間をかけてこの場所を通過した証拠(しょうこ)だ」


 足元の粉が、三人の歩みに合わせてかすかに舞い上がる。風がないのに。

 三人の身体が動くことだけが、この空間で唯一の攪拌(かくはん)だった。


 回廊(かいろう)の先に、扉があった。


 鋼(はがね)ではない。石でもない。

 何でできているのか分からない素材で、回廊(かいろう)の幅いっぱいに嵌(は)め込まれている。表面には文字も模様もなく、ただ存在している。


 あさひが扉の前で止まった。


 「これを開ければ、最深部か」


 「そうだ」


 久遠(くおん)は目録(もくろく)を閉じ、胸元にしまった。


 「ここから先は、記録(きろく)がない。目録(もくろく)は役に立たない。俺たちの目と耳と、写本(しゃほん)の名前だけが頼りだ」


 こよいは扉に手を当てた。

 冷たくも温かくもない。風のない空間と同じ、温度を持たない表面。


 だが、振動(しんどう)がある。


 扉の向こうから、低く、太く、途切れることのない振動(しんどう)が伝わってくる。

 歯車の回転ではない。もっと根源的な音(おと)。世界の基盤(きばん)が呼吸(こきゅう)しているような、深い律動(りつどう)だった。


 巾着(きんちゃく)の神々が、その振動(しんどう)と同期(どうき)した。

 写本(しゃほん)の名前たちが、頁(ページ)の上で一斉に光る。


 こよいは手のひらで扉を押した。

 動かない。


 もう少し力を入れる。

 やはり動かない。


 あさひが横に立ち、片手を添えた。


 「一緒に押せ」


 こよいとあさひが同時に押した。

 扉が、ゆっくりと開いた。


 向こう側から、光が溢(あふ)れた。

 金でも銀でもない。白でも灰でもない。色の名前がない光が、扉の隙間(すきま)から回廊(かいろう)に流れ込む。


 風が吹いた。


 止まっていた空気が、扉の向こうから一気に押し寄せる。

 こよいの髪が揺れ、久遠(くおん)の外套(がいとう)が翻(ひるがえ)り、あさひの剣帯(けんたい)が音(おと)を立てた。


 風だ。

 長い間止まっていた風が、今、最深部から吹いている。


 扉が完全に開くと、三人の前に空洞(くうどう)が現れた。

 回廊(かいろう)の壁から解放された、巨大な球形の空間。天蓋(てんがい)は見えず、底は光に沈んでいる。壁面の全域(ぜんいき)を金色の根が覆(おお)い、その根の一本一本に、ひらがなの文字が光っていた。


 名前だ。

 数えきれないほどの名前が、ここにいる。


 こよいは立ち尽くした。


 「ここが」


 「神雧(かみあつめ)だ」


 久遠(くおん)の声が震えていた。義眼(ぎがん)ではなく、裸眼(らがん)の瞳に、名前たちの光が映っている。


 あさひは黙ったまま、剣の柄(つか)から手を離した。

 ここに、敵はいない。

 ここにいるのは、名前だけだ。


 こよいは写本(しゃほん)を開いた。

 三十七の脈が、一斉に紙面を離れようとするように震える。壁面の名前たちに呼応(こおう)して、光が紙と巾着から空間へ伸びていく。


 風が三人とおたまの周囲を巡り、止まっていた時間を押し流すように吹き続けた。


 長い沈黙(ちんもく)の果てに、こよいが口を開いた。


 「迎えに来たよ」


 声は風に乗り、球形の空間を巡って、壁面の名前たちの光をひとつ、強くした。


 おたまが球形空洞の中心へ進み、小鈴を鳴らした。祭壇の炎が床から立ち上がり、壁面の無数の名を同じ声へ潰さず、一柱ずつ元帳へ繋ぐ細い線に分かれる。次に必要なのは、こよいが代わりに名乗ることではない。名前たち自身の声を、長の元帳まで届けることだった。

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