第498話 風の止まり
風が止まった。
唐突ではなかった。歯車の部屋を抜け、回廊を降りるにつれて、少しずつ空気の流れが弱まっていた。それが今、完全に途絶えた。
こよいは頬に手を当てた。
皮膚が何も感じない。冷たさも温かさもない。風がないと、温度の判断すらできなくなる。
呼吸で肺に入る空気だけが、ここに空気があることを証明していた。
「止まったな」
あさひが言った。声が奇妙に近い。反響がない。壁に当たって跳ね返るはずの音が、そのまま消えている。
「空気が動いていない。完全に静止している」
久遠が義眼を周囲に巡らせた。蒼光が壁を舐め、天井を探り、床を這う。
「風だけじゃない。塵も止まっている。この空間では、物理的な運動がほぼ停止している。重力と、俺たちの身体の動きだけが例外だ」
こよいは手を振ってみた。空気の抵抗がほとんどない。指の動きが妙に軽い。水の中にいるような重さがない代わりに、真空の中にいるような頼りなさがあった。
足元の回廊は、白銀の壁に囲まれていた。
歯車の部屋とは違い、ここには歯車がない。壁面は滑らかで、継ぎ目が見えない。一枚の鋼板を折り曲げて作ったような、途切れのない空間だった。
回廊は緩やかに下っている。
浅い傾斜を下るほど空気は濃くなり、一呼吸で受け取る情報が増えた。
「ここは何だ」
「神雧の最深部への通路だ」
久遠は目録を開いた。頁が動かない。風がないせいで、紙が自然にめくれることもない。指で一枚ずつ送る。
「目録の記述が、この地点で途切れている。ここから先は、観測者すら記録を残せなかった領域だ」
「記録がないってことは」
「誰も、ここを言葉にできなかったということだ」
こよいは巾着を胸に押さえた。
神々が震えている。微かに。だが途切れずに。
振動のリズムが変わっていた。これまでの旅で感じてきたどの脈動とも違う。速くもなく遅くもなく、ただ深い。心臓の奥で鳴る太鼓のような、一打ごとに全身を揺らす振動。
雨の神が最初に反応した。布の中でぽたぽたと、小さな雨粒のような脈を打ち始めた。風の神が続いた。巾着の紐が風もないのにかすかに揺れる。月の神は光った。布越しに、白い光が一瞬こよいの指を照らした。最後に硝子の神が、ちいさく鳴った。鈴の音に似た、透き通った一音。
「神々が、何か感じてる。怖がってるんじゃない。もっと……近いものに、反応してるみたいだ」
「近い?」
「うまく言えない。懐かしいとも違う。もっと根っこの……最初に会ったときの、あの感じに似てる」
久遠は義眼で、回廊が巨大な空洞の外縁を螺旋状に下りていると読んだ。中心は密度が高く、蒼光も届かない。
あさひは足を止めず、先頭を歩き続けた。
声だけを後ろに投げる。
「見えなくても着く。足があるんだから」
回廊の壁に、変化が現れ始めた。
滑らかだった表面に、細い亀裂が走っている。亀裂の中から、金色の光が漏れていた。根だ。壁の向こう側から、根がここまで伸びてきている。
こよいは亀裂に指を当てた。温かい。
歯車の部屋で感じたのと同じ温度。根が運んでくる名前たちの体温。
「根が、ここまで来てるんだ」
「祭壇の炎が元帳への道を開いた影響だ。置換はまだ終わっていないが、根が神雧の最深部へ一気に伸びている」
回廊を降りるにつれて、亀裂は増えていった。
壁のあちこちから金色の光が漏れ、白銀の回廊が金の筋で染まっていく。
やがて、足音が変わった。
鋼の床に、砂のような粒子が薄く積もっている。
こよいは屈んで指先に取った。粒は光っている。金でも銀でもない、透明に近い光。
「名前の粉だ」
久遠が言った。
「ここで名前が砕けたわけじゃない。名前の余韻が、粒子になって堆積している。大量の名前が、長い時間をかけてこの場所を通過した証拠だ」
足元の粉が、三人の歩みに合わせてかすかに舞い上がる。風がないのに。
三人の身体が動くことだけが、この空間で唯一の攪拌だった。
回廊の先に、扉があった。
鋼ではない。石でもない。
何でできているのか分からない素材で、回廊の幅いっぱいに嵌め込まれている。表面には文字も模様もなく、ただ存在している。
あさひが扉の前で止まった。
「これを開ければ、最深部か」
「そうだ」
久遠は目録を閉じ、胸元にしまった。
「ここから先は、記録がない。目録は役に立たない。俺たちの目と耳と、写本の名前だけが頼りだ」
こよいは扉に手を当てた。
冷たくも温かくもない。風のない空間と同じ、温度を持たない表面。
だが、振動がある。
扉の向こうから、低く、太く、途切れることのない振動が伝わってくる。
歯車の回転ではない。もっと根源的な音。世界の基盤が呼吸しているような、深い律動だった。
巾着の神々が、その振動と同期した。
写本の名前たちが、頁の上で一斉に光る。
こよいは手のひらで扉を押した。
動かない。
もう少し力を入れる。
やはり動かない。
あさひが横に立ち、片手を添えた。
「一緒に押せ」
こよいとあさひが同時に押した。
扉が、ゆっくりと開いた。
向こう側から、光が溢れた。
金でも銀でもない。白でも灰でもない。色の名前がない光が、扉の隙間から回廊に流れ込む。
風が吹いた。
止まっていた空気が、扉の向こうから一気に押し寄せる。
こよいの髪が揺れ、久遠の外套が翻り、あさひの剣帯が音を立てた。
風だ。
長い間止まっていた風が、今、最深部から吹いている。
扉が完全に開くと、三人の前に空洞が現れた。
回廊の壁から解放された、巨大な球形の空間。天蓋は見えず、底は光に沈んでいる。壁面の全域を金色の根が覆い、その根の一本一本に、ひらがなの文字が光っていた。
名前だ。
数えきれないほどの名前が、ここにいる。
こよいは立ち尽くした。
「ここが」
「神雧だ」
久遠の声が震えていた。義眼ではなく、裸眼の瞳に、名前たちの光が映っている。
あさひは黙ったまま、剣の柄から手を離した。
ここに、敵はいない。
ここにいるのは、名前だけだ。
こよいは写本を開いた。
三十七の脈が、一斉に紙面を離れようとするように震える。壁面の名前たちに呼応して、光が紙と巾着から空間へ伸びていく。
風が三人とおたまの周囲を巡り、止まっていた時間を押し流すように吹き続けた。
長い沈黙の果てに、こよいが口を開いた。
「迎えに来たよ」
声は風に乗り、球形の空間を巡って、壁面の名前たちの光をひとつ、強くした。
おたまが球形空洞の中心へ進み、小鈴を鳴らした。祭壇の炎が床から立ち上がり、壁面の無数の名を同じ声へ潰さず、一柱ずつ元帳へ繋ぐ細い線に分かれる。次に必要なのは、こよいが代わりに名乗ることではない。名前たち自身の声を、長の元帳まで届けることだった。




