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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第16章 余白の終点

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第495話 余白の灯火

挿絵(By みてみん)


光が見えた。


 小さい。指先で隠せるほどの点(てん)が、前方の闇の中で灯(とも)っている。


 金色ではない。銀でもない。橙(だいだい)にも白にも分類できない、どの色の名前にも収まらない光だった。


 こよいは足を止めた。


 「久遠(くおん)。あれ」


 「見えてる」


 久遠(くおん)は義眼(ぎがん)を点灯(てんとう)させた。蒼光(そうこう)があの小さな灯(ひ)へ向かって走ったが、到達する前に散った。距離が計れない。


 「光源(こうげん)までの距離が出ない。だが、光が存在することだけは確かだ」


 あさひが目を細めた。


 「火か」


 「火じゃない。揺れてない」


 こよいが言った。火なら揺れる。風に煽(あお)られ、燃料(ねんりょう)の具合で明滅する。あの光は揺れていない。けれど消えてもいない。まるで息を止めたまま灯(とも)り続けているような、静かな光だった。


 三人は近づいた。


 歩くごとに光は大きくならなかった。距離が縮まっているはずなのに、光の大きさは変わらない。ただ、色だけが少しずつ変わっていく。見る角度が変わるたびに、別の色味が滲(にじ)む。


 こよいの足が何かを踏んだ。柔らかいものではない。紙だった。


 屈(かが)んで拾い上げると、文字の断片(だんぺん)が残っていた。筆で書かれた一画の跡。「は」の左半分か、「ほ」の右半分か。判別(はんべつ)できない、壊れた文字の欠片(かけら)。


 「記録(きろく)の残骸(ざんがい)だ」


 久遠(くおん)が足元を見回した。紙が散っている。一枚、二枚ではない。無数の紙片(しへん)が、光の周囲に円を描くように広がっていた。


 こよいは紙片(しへん)に触れた。乾いている。古い紙の匂いがする。書かれていた文字は消えかけ、筆圧の跡が繊維(せんい)に残っていた。


 「誰かの記録(きろく)が、ここで壊れたんだ」


 「壊れたんじゃねえ。消されたんだ」


 あさひの声が低い。


 久遠(くおん)が紙片(しへん)を一枚拾い、裏表を確認した。


 「観測者(かんそくしゃ)の漂白(ひょうはく)痕(あと)がある。文字を消した跡だ。だが、完全には消えていない。筆圧が深すぎて、漂白(ひょうはく)が紙の表面までしか届かなかった」


 こよいは光のほうを見た。


 あの灯(ひ)は、この消された記録(きろく)の残り火(のこりび)なのかもしれなかった。文字は消されても、文字を書いた力が紙に残り、その力がかろうじて光っている。


 三人は光のそばまで来た。


 光は地面から浮いていた。膝(ひざ)の高さくらいの位置で、空中に留まっている。根の上に乗っているのだ。地面の下を走る細い根が、ちょうどこの位置で地表に顔を出し、その先端に光が宿っていた。


 こよいは手を伸ばした。


 光に触れると、温かかった。鋭い熱ではない。冬の朝に布団の中で手を握り合わせたときの、こもった温度に似ている。


 「名前がある」


 こよいの声が震えた。


 「この光の中に、名前がいる。消されたはずの名前が、根の先端に移って、ここで灯(とも)ってる」


 久遠(くおん)が義眼(ぎがん)の焦点を光に合わせた。映らない。数値は出ない。けれど裸眼(らがん)で見ると、光の中にかすかな文字の輪郭(りんかく)が浮いている。


 「漂白(ひょうはく)は紙の上の記録(きろく)を消す。だが名前の本体は紙にはいない。根に逃げた名前は、漂白(ひょうはく)の対象外だ」


 「つまり、消し残し」


 「消し残しであり、逃げ延びた証拠(しょうこ)だ」


 こよいは巾着(きんちゃく)を開いた。神々が跳ねる。光に向かって跳ねている。


 「おいで」


 こよいが小さく言った。


 光が揺れた。揺れないはずの光が、一度だけ震えた。


 根の先端から光が離れ、ゆっくりとこよいの掌(てのひら)に降りた。


 重い。


 消されかけた名前の、最後の重さだった。文字の形は崩れ、音(おと)も失われている。けれど名前であることだけは、この重さが証明している。


 こよいは写本(しゃほん)を広げた。光が頁(ページ)に触れると、崩れた文字がかろうじて形を取り戻す。読めない。けれど、文字として紙の上に定着(ていちゃく)した。


 五十一柱の台帳とは別の、索引へ戻る最初の残り火だった。


 「……ごめんね。遅くなって」


 こよいの声は小さかった。


 紙片(しへん)の散らばる地面の上で、もうひとつの光が瞬(またた)いた。遠い場所に。それからまたひとつ、別の方角に。


 余白(よはく)の中に、灯(ひ)が点(とも)っている。消された記録(きろく)の残り火(のこりび)が、あちらこちらで静かに灯(とも)り続けていた。


 あさひが立ち上がり、周囲を見渡した。


 「何個ある」


 「数えるな。数えたら、拾えなかったぶんが重くなる」


 久遠(くおん)が静かに言った。


 そのとき、巾着(きんちゃく)の中で、空の小瓶が鳴った。


 中身のない硝子(ガラス)が、ひとりでに震えている。宵波浜(よいなみはま)で、泥の中から名前を拾いつづけた鈴音(すずね)の濡れた手が、最後に触れた、あの空の瓶。こよいは瓶を取り出した。白い膜(まく)だけを残した瓶の底が、ひとつの残り火(のこりび)に向かって、微かに引かれている。


 紙片(しへん)の円のいちばん奥。他の灯(ひ)より小さく、他のどれよりも長く消えずにいた光。こよいは近づいた。


 根の先端に宿ったその光の中に、二文字の輪郭(りんかく)があった。読めない。けれど、瓶がそれを知っていた。宵波浜(よいなみはま)の底から、名前の集まる海の底から、源へ、そしてこの余白(よはく)の根の先へ——長い水脈を辿って、ここまで流れ着いた一粒。


 「……鈴音(すずね)」


 自分では掬えない、と彼女は言った。掘る手は、自分の底までは届かない、と。

 だから、こよいが掘る番だった。約束の通りに。


 こよいは空の小瓶の蓋(ふた)を開け、残り火(のこりび)へ近づけた。光は、根の先を離れ、ためらいもせず瓶の中へ降りた。白い膜(まく)に触れた瞬間、崩れていた二文字が、するりと形を結ぶ。


 すず、ね。


 鈴の音の、鈴の名。

 巾着(きんちゃく)の欠けた鈴が、ずっと待っていた席が、そこにあった。五十一の台帳のどこにもなかった、番号のない一つ。欠番の一。それは、名前を失った拾い手のために、最初から空けてあった席だったのだ。


 瓶の中で、名前が静かに灯(とも)った。もう消えない灯(ひ)だった。


 こよいは写本(しゃほん)を胸に抱え、立ち上がった。巾着(きんちゃく)の中の神々が、新しい名前を迎えた鼓動(こどう)で脈打っている。


 「全部は無理でも、見えたものは拾う」


 こよいは次の光に向かって歩き出した。


 余白(よはく)の灯火(ともしび)は消えない。消されても、根が覚えている。根が灯(とも)している。


 こよいの足元で紙片(しへん)が音(おと)もなく舞い上がり、歩いた跡に薄い道が残った。消された記録(きろく)の上を歩いて、まだ残っている光を集めていく。


 振り返ると、久遠(くおん)とあさひが別の光へ向かっていた。三人がそれぞれ違う方角の灯(ひ)を拾いに行く。


 余白(よはく)は暗い。


 けれど、灯(ひ)がある。


 それだけで、歩ける。


 おたまが残り火の間を走ると、光は一列に並んで細い二本の軌条(きじょう)になった。四人が拾い切れない光を置き去りにせず、根の苗床へ運ぶ道だ。霧の向こうから、鋼の巾着である列車が呼び声を聞いて戻ってきた。


 三人とおたまは扉へ乗り込み、残り火が作った軌条を壊さない速度で余白を離れた。回収した光は51柱へ加えず、索引から名を復元する新しい流れとして列車の霧へ預けた。

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