第494話 影の終点
影が薄い。
それに最初に気づいたのは、あさひだった。足元を見下ろし、眉を寄せた。
「おい。俺の影、おかしくないか」
こよいがあさひの足元を見た。影はある。あるけれど、色が淡い。輪郭がぼやけて、地面に染みのように広がっている。
自分の足元を見た。同じだった。靴底から伸びるはずの影が、墨を薄めたように頼りない。
「久遠も」
久遠は自分の影を確認し、義眼を点灯した。蒼光が地面を走る。
「光源が変わったんじゃない。影の方が減っている。この場所では、影を構成する情報量そのものが希薄になる」
「情報量?」
こよいが訊いた。
「影は光の不在だ。だが、不在にも情報がいる。『ここに光が届かない』という記録が影を作る。この場所では、その記録が保持できない」
歩くたびに、影が薄くなっていくのが分かった。
最初は輪郭がぼやけるだけだった。やがて影の濃さが半分になり、さらに薄くなり、地面の色との境界が消えかけた。
こよいは立ち止まり、自分の影を見下ろした。
影は足元にまだいる。いるけれど、息をひそめているように薄い。
「影がなくなったら、どうなるの」
「分からん。影のない存在を、俺はまだ観測したことがない」
久遠の声は平坦だったが、答えを持っていないことへの苛立ちが、語尾にわずかに滲んでいた。
あさひが大剣を布包みごと地面に立てた。鋼の影が、かろうじて地面に線を引いている。
「影がねえと、立ってる気がしないな」
「錯覚だ。影がなくても足は地面にある」
「錯覚でも、気持ちの問題だ」
あさひは剣を地面に立てたまま、その影を見つめた。細い線が、剣先から北へ伸びている。彼自身の影よりも、鋼の影の方がまだ濃い。
「鉄の影は残るんだな」
「物質の密度が違う。人間より鉄の方が、影を保てる時間が長い」
久遠が目録の革表紙を地面に当ててみた。帳面の影は、久遠の影よりわずかに濃い。
「本も残る。紙と革は、人の肌より影を維持できる」
こよいは巾着を地面に近づけた。布の影は薄い。けれど巾着の中の神々が脈打った瞬間、影がひと呼吸だけ濃くなった。
「神々が動くと、影が濃くなる」
「名前の脈動が、影の情報を補填してるのか」
久遠が義眼を巾着に向けた。蒼光が布を透過する。
「神々の内部で名前が脈打つたびに、存在の情報量が一瞬だけ跳ね上がる。その余波が影に流れてる」
こよいは巾着を胸に抱えた。中の神々が静かに震えている。影を作るために震えているのではない。ただ脈打っているだけだ。けれどその脈動が、こよいの影をかろうじて繋ぎ止めていた。
三人はまた歩き出した。
影は歩くたびに薄くなる。久遠の影が最初に消えかけた。裸眼を閉じ、義眼だけで前方を見る姿勢が、影の情報を減らしている。計器に頼る分、身体の存在感が細くなるのかもしれない。
あさひの影は、大剣の影と混ざりながら残っていた。身体と鉄が一つの影として溶け合い、人間単体よりも長く地面に痕を残す。
こよいの影は、神々の脈動に合わせて明滅していた。消えかけては戻り、薄くなっては濃くなる。呼吸のように。
「こよい」
久遠が振り向かずに言った。
「影が消えても、足音は消えない。足音が聞こえるうちは、ここにいる」
こよいは自分の足音に耳を澄ませた。硬い地面を靴底が叩く、短い音。一歩ごとに、確かに鳴っている。
「うん。聞こえてる」
あさひが大剣の石突きで地面を突いた。鋼と石がぶつかる鋭い音が、影のない空間を走っていく。
「影がなくても歩ける。歩けるなら、いる。いるなら、戻れる」
三人の影は限りなく薄くなっていた。
けれど足音だけが、三つ分、確かに地面を叩き続けている。
こよいは巾着の上から神々に触れた。脈動が指先に返る。微かだが確かな温もりが、指から掌へ、掌から胸へ伝わっていく。影が消えても、この鼓動は消えないと信じた。
薄い影を引きずりながら、三人は進んだ。地面を叩く足音が三つ重なり、影よりも確かな痕跡として空間に刻まれていく。
影の終わる場所の、その先を見るために。
こよいは足音が重なるたび、肩越しに二人の位置を確かめた。姿は見えているのに、影が薄いだけで距離まで曖昧に感じる。そこで歩幅を半歩だけ狭め、あさひの石突きの音と久遠の靴音の間へ自分の一歩を置いた。三つの音がほどけず続くと、胸を締めていた不安も少しずつ緩んだ。
おたまの影は途中で消えた。それでも猫は立ち止まらず、あさひが地面へ立てた大剣の影へ入り、こよいたちを振り返る。影が存在を証明するのではない。誰かが振り返り、そこにいると確かめる行為が存在を繋ぐ。こよいは猫の背へ触れ、三十七の脈とは別の、生きた体温を受け取った。
四つ目の足音は小さく、三人の靴音の間に隠れていた。数えれば確かにそこにある。影の終点を越えたのは、三人ではなく四人だった。こよいはその気配を確かめて、少しだけ笑った。独りで越えた終点など、一つもなかった。




