第487話 紙の縁
目録の頁が、残り少なかった。
久遠が指先で端を数える。蒼い光を使わず、爪の腹で紙の厚みだけを拾っていた。
「あと三枚」
「三枚……」
こよいが隣で覗き込んだ。目録は分厚い帳面のはずだった。初めて手にしたとき、両手でようやく抱えられる重さだったのを覚えている。それが今は片手で持てるほど薄い。
使った分だけ減ったのではない。記録した分だけ、紙が消えていた。表紙と裏表紙の間に挟まれた空間が、かつての厚みの記憶だけを残して痩せている。背表紙の綴じ糸が、支えるものを失って緩く垂れていた。
「書いた頁はどこに行ったの」
「分からん。書いた瞬間に世界へ溶けたのか、別の場所へ移ったのか。確かなのは、もう戻らないということだけだ」
久遠は目録を膝の上に置き直した。膝に伝わる重さが、かつての半分もない。その軽さが、逆に手元を重くした。
久遠は最後の三枚を慎重に捲った。一枚目には、こよいが拾った白紙を挟んである。地図の外で拾った、何も書かれていない紙。二枚目は罫線だけが残り、文字は消えていた。かつて何かが書かれていた痕跡が、紙の表面にわずかな凹みとして残っている。
三枚目は、白い。
罫線もない。凹みもない。完全な白紙だった。
「これが最後の頁だ」
久遠の声に感情はなかった。けれど目録を持つ手が、ほんの少しだけ下がった。重さが変わったのではない。終わりの実感が、腕に伝わったのだ。
こよいは三枚目に指先を触れた。
紙の縁が指に当たる。薄い。けれど鋭くはない。長い時間をかけて角が丸くなった、古い紙の手触りだった。
「紙の縁って、こんなに柔らかいんだね」
「新しい紙は切れる。古い紙は、撫でられる」
久遠が静かに言った。
あさひは二人の後ろに立ち、壁に背を預けていた。剣の柄には触れず、腕を組んでいる。
「で、三枚で何を書く」
その問いに、久遠は答えなかった。答える代わりに、目録を閉じて表紙を撫でた。
表紙の革は擦り切れ、角は潰れ、背は二箇所で裂けている。持ち主の旅の距離を、帳面が自分の身体で記録していた。
「こよい。写本を出せ」
「え?」
「写本と目録を並べる。残り三枚に何を書くか、写本の中身を見てから決める」
こよいは頷き、写本を広げた。三十七の名前が紙面に並んでいる。古い名、新しい名、観測されたことのない名。全部が同じ紙の上で息をしている。
久遠は目録と写本を膝の上で横に並べた。
義眼を使わず、裸眼で見比べる。目録の最後の三枚と、写本の三十七の名前。片方は終わりかけ、もう片方はまだ続いている。
長い沈黙があった。
あさひが壁から背を離す気配がした。
「決まったか」
「ああ」
久遠はペンを取った。
一枚目に、短く書く。
『記録の限界。以降、写本に委譲。』
二枚目に、さらに短く。
『目録の役割を終える。座標は身体で測る。』
三枚目には、何も書かなかった。
こよいが首を傾げる。
「最後の一枚は?」
「残す」
久遠の声は硬い。けれど硬さの中に、細い温度があった。
「全部使い切ったら、本当に終わる。一枚だけ白紙を残しておけば、目録はまだ閉じていない」
こよいは久遠の横顔を見た。義眼の光は消えたまま、裸眼だけが紙面を見つめている。
「久遠、それって……」
「保険だ。それ以上でも以下でもない」
久遠は目録を閉じた。
薄くなった帳面を両手で持ち、一度だけ重さを確かめるようにして掌の中で揺らした。
あさひが鼻を鳴らす。
「保険って顔じゃねえな」
久遠は答えない。
こよいは写本を膝の上で閉じ、巾着の上に重ねた。目録が終わっても、写本がある。名前はまだ増える。記録の器は、一つではない。
「行こう。紙の縁まで来たってことは、ここから先は紙じゃないもので記録するってことだよ」
こよいが立ち上がった。
久遠はためらい、それから目録を鞄の底にしまった。表紙が見えない位置に。すぐ取り出せるけれど、すぐ目に入らない場所。
あさひが先に歩き出した。
こよいが続き、久遠が最後に続く。いつもとは逆の順番だった。目録という杖を手放した久遠が、しばらくは後ろを歩く。
紙の縁を越えて、三人は進んだ。
次の記録は、足裏と呼吸と神々の脈で刻まれる。
こよいは先頭で一度だけ歩調を緩めた。背後から久遠の息と、鞄の中で表紙が擦れる音が届く。それを聞いてから、また足を出した。案内する線のない暗がりでは、後ろにいる者の気配も方角になる。写本を抱く腕へ三十七の脈が返り、その間を縫うように、あさひと久遠の足音が続いていた。
地図の外で拾った白紙は、目録の頁とは別の挟み紙だった。久遠が文字を書いたのは残る二頁で、最後の一頁は保険として空けたままにする。これで頁数を混同せず、挟み紙は後の日誌の表紙に使える。
おたまは閉じた目録の上へ一度だけ座り、それから写本の横へ移った。記録の役目が紙から身体へ渡ったことを、猫の移動が誰より簡潔に示していた。
先へ行く。振り返らない。拾えなかったものを数えるより、まだ拾えるものへ手を伸ばす。こよいは巾着を握り、迷いのない足取りで、暗い通路の奥へと進んでいった。




