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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第16章 余白の終点

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第487話 紙の縁

挿絵(By みてみん)


目録(もくろく)の頁(ページ)が、残り少なかった。


 久遠(くおん)が指先で端を数える。蒼い光を使わず、爪(つめ)の腹で紙の厚みだけを拾っていた。


 「あと三枚」


 「三枚……」


 こよいが隣で覗き込んだ。目録(もくろく)は分厚い帳面(ちょうめん)のはずだった。初めて手にしたとき、両手でようやく抱えられる重さだったのを覚えている。それが今は片手で持てるほど薄い。


 使った分だけ減ったのではない。記録(きろく)した分だけ、紙が消えていた。表紙と裏表紙の間に挟(はさ)まれた空間が、かつての厚みの記憶(きおく)だけを残して痩(や)せている。背表紙の綴(と)じ糸(いと)が、支えるものを失って緩(ゆる)く垂れていた。


 「書いた頁(ページ)はどこに行ったの」


 「分からん。書いた瞬間に世界へ溶けたのか、別の場所へ移ったのか。確かなのは、もう戻らないということだけだ」


 久遠(くおん)は目録(もくろく)を膝(ひざ)の上に置き直した。膝(ひざ)に伝わる重さが、かつての半分もない。その軽さが、逆に手元を重くした。


 久遠(くおん)は最後の三枚を慎重に捲(めく)った。一枚目には、こよいが拾った白紙を挟(はさ)んである。地図(ちず)の外で拾った、何も書かれていない紙。二枚目は罫線(けいせん)だけが残り、文字は消えていた。かつて何かが書かれていた痕跡(こんせき)が、紙の表面にわずかな凹(くぼ)みとして残っている。


 三枚目は、白い。


 罫線(けいせん)もない。凹(くぼ)みもない。完全な白紙だった。


 「これが最後の頁(ページ)だ」


 久遠(くおん)の声に感情はなかった。けれど目録(もくろく)を持つ手が、ほんの少しだけ下がった。重さが変わったのではない。終わりの実感が、腕に伝わったのだ。


 こよいは三枚目に指先を触れた。


 紙の縁(ふち)が指に当たる。薄い。けれど鋭くはない。長い時間をかけて角が丸くなった、古い紙の手触(てざわ)りだった。


 「紙の縁(ふち)って、こんなに柔らかいんだね」


 「新しい紙は切れる。古い紙は、撫(な)でられる」


 久遠(くおん)が静かに言った。


 あさひは二人の後ろに立ち、壁に背を預けていた。剣の柄(つか)には触れず、腕を組んでいる。


 「で、三枚で何を書く」


 その問いに、久遠(くおん)は答えなかった。答える代わりに、目録(もくろく)を閉じて表紙を撫(な)でた。


 表紙の革は擦(す)り切れ、角は潰(つぶ)れ、背は二箇所で裂けている。持ち主の旅の距離を、帳面(ちょうめん)が自分の身体で記録(きろく)していた。


 「こよい。写本(しゃほん)を出せ」


 「え?」


 「写本(しゃほん)と目録(もくろく)を並べる。残り三枚に何を書くか、写本(しゃほん)の中身を見てから決める」


 こよいは頷(うなず)き、写本(しゃほん)を広げた。三十七の名前が紙面に並んでいる。古い名、新しい名、観測されたことのない名。全部が同じ紙の上で息をしている。


 久遠(くおん)は目録(もくろく)と写本(しゃほん)を膝(ひざ)の上で横に並べた。


 義眼(ぎがん)を使わず、裸眼(らがん)で見比べる。目録(もくろく)の最後の三枚と、写本(しゃほん)の三十七の名前。片方は終わりかけ、もう片方はまだ続いている。


 長い沈黙(ちんもく)があった。


 あさひが壁から背を離す気配がした。


 「決まったか」


 「ああ」


 久遠(くおん)はペンを取った。


 一枚目に、短く書く。


 『記録(きろく)の限界。以降、写本(しゃほん)に委譲(いじょう)。』


 二枚目に、さらに短く。


 『目録(もくろく)の役割(やくわり)を終える。座標(ざひょう)は身体で測る。』


 三枚目には、何も書かなかった。


 こよいが首を傾(かし)げる。


 「最後の一枚は?」


 「残す」


 久遠(くおん)の声は硬い。けれど硬さの中に、細い温度があった。


 「全部使い切ったら、本当に終わる。一枚だけ白紙を残しておけば、目録(もくろく)はまだ閉じていない」


 こよいは久遠(くおん)の横顔を見た。義眼(ぎがん)の光は消えたまま、裸眼(らがん)だけが紙面を見つめている。


 「久遠(くおん)、それって……」


 「保険(ほけん)だ。それ以上でも以下でもない」


 久遠(くおん)は目録(もくろく)を閉じた。


 薄くなった帳面(ちょうめん)を両手で持ち、一度だけ重さを確かめるようにして掌(てのひら)の中で揺らした。


 あさひが鼻を鳴らす。


 「保険(ほけん)って顔じゃねえな」


 久遠(くおん)は答えない。


 こよいは写本(しゃほん)を膝(ひざ)の上で閉じ、巾着(きんちゃく)の上に重ねた。目録(もくろく)が終わっても、写本(しゃほん)がある。名前はまだ増える。記録(きろく)の器(うつわ)は、一つではない。


 「行こう。紙の縁(ふち)まで来たってことは、ここから先は紙じゃないもので記録(きろく)するってことだよ」


 こよいが立ち上がった。


 久遠(くおん)はためらい、それから目録(もくろく)を鞄(かばん)の底にしまった。表紙が見えない位置に。すぐ取り出せるけれど、すぐ目に入らない場所。


 あさひが先に歩き出した。


 こよいが続き、久遠(くおん)が最後に続く。いつもとは逆の順番だった。目録(もくろく)という杖を手放した久遠(くおん)が、しばらくは後ろを歩く。


紙の縁(ふち)を越えて、三人は進んだ。


次の記録(きろく)は、足裏と呼吸(こきゅう)と神々の脈で刻まれる。


こよいは先頭で一度だけ歩調を緩めた。背後から久遠(くおん)の息と、鞄(かばん)の中で表紙が擦(こす)れる音(おと)が届く。それを聞いてから、また足を出した。案内する線のない暗がりでは、後ろにいる者の気配も方角になる。写本(しゃほん)を抱く腕へ三十七の脈が返り、その間を縫うように、あさひと久遠(くおん)の足音(あしおと)が続いていた。


地図の外で拾った白紙は、目録の頁とは別の挟み紙だった。久遠が文字を書いたのは残る二頁で、最後の一頁は保険として空けたままにする。これで頁数を混同せず、挟み紙は後の日誌の表紙に使える。


 おたまは閉じた目録の上へ一度だけ座り、それから写本の横へ移った。記録の役目が紙から身体へ渡ったことを、猫の移動が誰より簡潔に示していた。


 先へ行く。振り返らない。拾えなかったものを数えるより、まだ拾えるものへ手を伸ばす。こよいは巾着(きんちゃく)を握り、迷いのない足取りで、暗い通路の奥へと進んでいった。

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