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神雧 - KAMIATSUME -  作者: 神代 一文
第15章 潮の外縁

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463/500

第463話 名の残り香

挿絵(By みてみん)


匂いが変わった。


 潮(しお)と鉄錆(てつさび)に慣れた鼻が、異質な甘さを拾った。

 花でも果実でもない。もっと淡く、もっと古い匂い。記憶(きおく)の底に沈んだ誰かの名前が、空気の中で静かに発酵(はっこう)しているような——そんな香りだった。


 こよいは足を止めた。


 「……なに、これ」


 久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を細めた。

 蒼光(そうこう)が空気中の微粒子(びりゅうし)を捉え、光の筋となって四方に散った。


 「名前の残り香(のこりが)だ。漂白(ひょうはく)された名前は消える。だが消える過程で、最後の気配が空気に溶ける。それが匂いになって残る」


 こよいは鼻を上に向けた。

 甘い匂いの中に、かすかな苦味がある。一つではない。複数の匂いが重なっている。


 「何柱分?」


 「少なくとも三柱(みはしら)。匂いの層が三つある。一番下が最も古い。上に行くほど新しい」


 久遠(くおん)は目録(もくろく)を開いた。

 頁(ページ)に蒼光(そうこう)を落とし、匂いの粒子(りゅうし)と記録(きろく)を照合しようとした。だが頁(ページ)は白いままだった。


 「記録(きろく)にない。漂白(ひょうはく)された名前は目録(もくろく)からも消される。匂いだけが残って、記録(きろく)は消えた」


 こよいは巾着(きんちゃく)を胸に当てた。

 中の神々が、微かに脈打っている。匂いに反応しているのだ。消された名前の残り香(のこりが)を、巾着(きんちゃく)の中の名前たちが嗅ぎ取っている。


 あさひが大剣の柄(つか)に手を置いたまま、鼻を鳴らした。


 「匂いで追えるのか」


 久遠(くおん)は首を傾(かたむ)けた。


 「追えるかもしれない。名前は消えても、匂いには方向がある。風上に行けば、消された場所に辿(たど)り着ける」


 こよいは風の方角を確かめた。

 左頬(ひだりほお)に当たる微風(びふう)。そちらから甘い匂いが流れてくる。


 「こっちだ」


 三人は匂いを辿り始めた。

 線路沿いの道を外れ、霧(きり)の濃い斜面を登る。足元は濡(ぬ)れた岩で滑りやすく、あさひが先頭に立って足場を確かめた。


 匂いが濃くなっていく。


 三層の匂いが、少しずつ分離してきた。一番下の層は樟脳(しょうのう)に似た渋い香り。真ん中の層は雨上がりの土のような湿った匂い。一番上の層は——蜜(みつ)だった。花の蜜(みつ)ではなく、言葉にならない甘さ。名前が最後に放つ光のような匂い。


 斜面の上に、窪(くぼ)みがあった。


 岩の表面が円形に凹(へこ)んでいる。直径は人の背丈(せたけ)ほど。窪(くぼ)みの底には白い粉が薄く積もっていた。


 「ここだ」


 久遠(くおん)が義眼(ぎがん)を全開にした。蒼光(そうこう)が窪(くぼ)みの全体を照らす。


 白い粉は、漂白(ひょうはく)の残滓(ざんし)だった。名前が消された痕跡(こんせき)。粉の上に、うっすらと文字の輪郭(りんかく)が残っている。指でなぞれば読めそうな、読めなさそうな——名前の亡骸(なきがら)。


 こよいは窪(くぼ)みの縁(ふち)に膝(ひざ)をついた。

 匂いが最も濃い場所だった。三つの匂いが渦(うず)を巻いて立ち昇っている。


 巾着(きんちゃく)の中の神々が激しく脈打ち始めた。


 「覚えてるんだ」


 こよいの声が震えた。


 「消された名前のことを、ぼくの中の名前たちが覚えてる。匂いで思い出してる」


 久遠(くおん)は目録(もくろく)の白い頁(ページ)に鉛筆(えんぴつ)を走らせた。記録(きろく)にないなら、今ここで記録(きろく)する。匂いの特徴を、匂いの方角を、窪(くぼ)みの位置を。


 「記録(きろく)がなくても、匂いがある限り、痕跡(こんせき)は消えてない。名前の実体は消されたが、名前がこの世に存在したという証拠(しょうこ)が、空気の中に残ってる」


 あさひが窪(くぼ)みの向こう側を見た。

 同じような窪(くぼ)みが、斜面に点々と続いている。三つ、四つ、五つ——霧(きり)の奥にもまだある。


 「全部か」


 「全部だ。ここは漂白(ひょうはく)の処理場(しょりじょう)だったんだろう。名前を一柱(ひとはしら)ずつ、ここで消した。そのたびに匂いが残った」


 こよいは窪(くぼ)みの白い粉に手を翳(かざ)した。触れはしない。触れれば匂いが散ってしまう気がした。


 代わりに、深く息を吸った。


 名前の匂いを、肺の奥まで入れた。吐かない。しばらく止めて、身体の中に留めた。


 巾着(きんちゃく)の神々が穏やかに鳴った。低い音。弔(とむら)いの音に似ていた。


 「拾えないの」


 「匂いは拾えない。けど——」


 久遠(くおん)は鉛筆(えんぴつ)を置いた。


 「記録(きろく)はできた。匂いの記録(きろく)。存在した証拠(しょうこ)の記録(きろく)。漂白(ひょうはく)は名前を消せたが、匂いまでは消せなかった。その事実は、大きい」


 こよいは立ち上がり、次の窪(くぼ)みへ歩いた。

 そこにも白い粉があり、そこにも匂いが残っていた。別の名前の、別の匂い。


 一つずつ、深く吸い込んだ。


 吐く息は白く、冷たかった。吸った匂いだけが温かく、胸の中で小さな灯(ともしび)のように留まった。


 あさひは何も言わず、背中でこよいを守りながら、斜面の上を警戒した。


 霧(きり)が薄くなり始めていた。


 窪(くぼ)みは全部で七つあった。七柱(ななはしら)分の匂い。七つの名前の残り香(のこりが)。こよいはその全てを吸い込み、胸の中に並べた。


 「覚えたよ」


 こよいは最後の窪(くぼ)みの前で、静かに言った。


 「名前は分からない。でも匂いは覚えた。この匂いがある限り、この名前たちはまだ——」


 言葉が途切れた。

 言い切る必要はなかった。


 巾着(きんちゃく)が温かく脈打ち、匂いが風に乗って斜面を下っていった。

 三人は匂いの残る道を戻り、線路へ向かった。


 背後で、七つの窪(くぼ)みから甘い香りが立ち昇り続けていた。

 消された名前たちの、最後の気配が、空に溶けていった。


 おたまは七つの窪(くぼ)みの外側を一周し、甘い匂いが最も薄い場所で一度だけ土を掻(か)いた。そこに埋まっていた白い粉を久遠が紙へ包む。名そのものではなく、いつか根の振動と照合するための匂いの標本だった。

 甘い匂いのいちばん薄い場所に、白い粉が埋まっていた。おたまが掻(か)き出したそれを、久遠(くおん)は紙へ包む。猫の鼻は、隠されたものの在り処(か)を、いつも先に知っていた。

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