第462話 祠の不在影
祠が、ない。
札だけがある。屋根も柱も鈴もない。地面に残っているのは、祠があった形の影だけだ。影は濃いのに、持ち主がいない。
こよいは喉が鳴った。風が止まっている。祠があるべき場所だけ、空気が冷たく淀んでいた。周囲の草は揺れているのに、影の上だけ、風が避けて通っている。
「……これ、どういうこと?」
久遠が答える。
「不在だ。……祠が消された。だが、影の記録だけが残った」
あさひが影の縁を足で踏んだ。踏んだ瞬間、足首に冷たいものが絡んだ。
「……触るな」
久遠の声が鋭い。
「影は記録だ。持ち主がいない影は、空の器だ。……中に落ちる」
こよいは巾着を抱え、影から距離を取った。神々の温もりが、少しだけ弱くなる。
影の中心に、欠けた札があった。札の裏に、細い文字。
『ここに居た』
たった五文字。それだけで、胸が痛む。
久遠が短く言う。
「祠は、誰かの『居た』を守る場所だ。……守れなかった祠は、影だけになる」
あさひが小さく息を吐く。吐いた息が白い。影の近くでは、気温が数段低い。地面から立ち上る冷気が、三人の足元を這うように流れていた。
「なら、俺たちが守る」
こよいは頷いた。祠の不在影は、喪失の記録だ。でも、喪失を記録できるなら、まだ返す余地がある。
三人は影を避けて歩いた。避けながら、忘れないために。不在の影が、背中側でずっと濃く揺れていた。
こよいは影の縁に、小さな石を置いた。供え物というより、印だ。「ここに居た」を、もう一つ増やすための印。
久遠は止めなかった。あさひも止めない。
不在の祠に残せるのは、立ち止まらなかった足音と、置いていった小さな印だけだった。
影から離れると、空気が少しだけ軽くなった。けれど背中の冷たさは消えない。影の記憶が肌に残っている。
「……あの札、誰が書いたんだろう」
こよいが歩きながら訊いた。
久遠は目録を開き、頁を繰った。義眼の蒼光が文字の上を滑る。
「祠の主だろう。漂白される直前に、最後の力で書いた。名前を残す余裕はなかった。だから、存在したという事実だけを刻んだ」
こよいは巾着を胸に押し当てた。三十四の脈が応えている。この名前たちも、かつては祠に守られていたのだ。祠を失い、名前だけが漂い、巾着の中に辿り着いた。
あさひが足を止めた。
「もう一つある」
前方の地面に、同じような影が落ちていた。祠の形をした影。柱の位置、屋根の角度、鈴の吊り下がっていた場所。すべてが影として残っている。けれど実体はない。
こよいは二つ目の影に近づいた。今度は触らない。しゃがんで、影の中心を覗き込んだ。
札はなかった。代わりに、影の底に小さな窪みがあった。指の形をした窪み。誰かが地面を掻いた痕。
声にならなかった叫びの痕だ。窪みの形は五本の指を開いたまま、地面を掻きむしった形をしていた。爪の跡が石に食い込み、三百年経っても消えていない。
「……この子は、書けなかったんだ」
こよいの声が震えた。
久遠が静かに目録を閉じた。
「書けなかった名前は、根が覚えている。地下の根脈に、振動として残っている。完全には消えない」
「本当に?」
こよいが顔を上げた。
「漂白は表面を消す。だが根は地下だ。漂白の手が届かない深さまで伸びた根には、消された祠の振動が残っている。時間はかかる。だが、振動を辿れば、名前に届く可能性はある」
こよいは立ち上がり、巾着に手を添えた。三十四の脈が、地下の振動に呼応するように脈打った。根脈が、足元のずっと深い場所で、消された祠の記憶を運んでいる。
あさひが二つ目の影の縁にも、石を置いた。
「……柄じゃねえけど」
それだけ言って、先に歩き出した。
三人は不在の影を二つ残して、前へ進んだ。振り返ると、置いた石が影の中で小さく光っていた。根の金色が、地面の隙間から石を照らしている。
「ここに居た」と刻めなかった祠に、根が代わりに灯を点している。
こよいは帳面を開き、二つの影の位置だけを書き留めた。言葉にはしない。座標だけ。いつか戻ってくるための、静かな約束だった。
おたまは影の外から石へ前足を伸ばし、爪先で一度だけ触れた。石は沈まず、根の光を受けたまま残る。空の器へ踏み込まずに印を置けることを確かめると、猫は次の保守標柱へ歩き出した。三人はその足跡を踏まず、影の縁を大きく回って後を追った。
救出には数えない。けれど、忘れたことにもしない。その二つを両立させるための座標だった。
帳面の点は、帰る道を静かに待った。
急がず、焦らず、ただ在り続ける。名前を待つとは、そういうことだと、こよいはこの長い旅で身体に刻んできた。焦らないことが、いちばんの誠実だった。
待つことは、諦めることとは違う。帰ってくると信じているから、印を消さずに残しておく。その信頼が、地図の外でも道を繋いでいた。
こよいは帳面の点を指でなぞり、また来る、と胸の中で約束した。




