第452話 透明な長
歯車を止めた瞬間、壁の奥から気配が動いた。
計測室の壁に嵌め込まれた歯車の隙間が開き、奥から人の形をしたものが出てきた。歩いているのではない。滑り出してきた。床の上を水が流れるように。
透明だった。
身体の輪郭はあるが、色がない。背後の壁が透けて見える。角度を変えると輪郭が揺らぎ、人の形を保てないように見える瞬間がある。顔に当たる場所に、瞳の代わりに数字の列が流れている。
観測者の長だった。
あさひが即座にこよいの前に立った。大剣を構える。切っ先が長に向いた。
長は反応しない。剣を見ていない。三人を見ているのでもない。三人の身体から放たれる熱や脈拍や呼吸の間隔を、読んでいる。
「お前たちの存在は、不適合だ」
声が出た。声ではなく、空気の振動だった。喉から出た音ではない。身体全体が震えて、周囲の空気を揺らしている。
こよいは巾着を抱えた。中の名前たちが縮み上がっている。脈動が一斉に小さくなった。怯えている。この透明な存在を、名前たちは覚えている。分類し、分解し、閉じ込めた者の気配を。
久遠が義眼の蒼光を長に向けた。光が透明な身体を貫通する。貫通した先に、何も映らない。情報がない。計器そのものには、記録がない。記録するための器であって、記録される対象ではない。
「読めない」
久遠が歯を噛んだ。義眼の蒼光が揺れている。読めないものに出会ったときの反応だった。
「お前は何だ」
あさひが訊いた。剣を構えたまま。
「計測する者だ。それ以上でも以下でもない」
長の周囲の空気が重くなった。温度が下がるのではない。温度そのものが消えている。長の近くでは、熱も冷たさも計測対象になり、感覚として存在できなくなる。
あさひが踏み込んだ。
大剣が弧を描いて長の胸を狙う。透明な身体は剣の軌道を読み取り、紙一重で退いた。だが完全には避けきれなかった。剣風が透明な表面を掠め、そこに曇りが生じた。息を吹きかけた硝子のような白い曇り。
「……曇った」
久遠が目を見開いた。
「生きた者の熱が、計器の表面を曇らせている。この長は温度に弱い。計器は温度を測るものだが、自分自身が温度を持つことは想定されていない」
あさひがもう一歩踏み込んだ。長が後退する。剣の届かない距離を正確に保っている。計測して避けている。だが退いている。
「斬れるのか」
「斬れない。だが曇らせることはできる。曇りが増えれば、計測精度が落ちる。精度が落ちれば——」
久遠が目録を開いた。
「計器の内部が見える。透明だから読めなかった。曇りが光を散乱させれば、中が照らされる。あさひ、もう一度」
あさひが剣を振った。今度は当てるつもりではない。剣の軌道が生む風を、長の表面に当てている。人の手が生む温かい風。
透明な表面に、曇りが広がった。
久遠が蒼光を当てた。曇りの中で光が散乱し、透明な身体の内部が一瞬だけ見えた。
金色の光が四つ、長の胸の中で脈打っていた。
「四柱だ」
久遠が叫んだ。
「目録に地図を描いた高共鳴体の四柱が、長の中に取り込まれている。燃料にされている」
こよいの心臓が跳ねた。四柱。目録の裏から金色の地図を描いて、三人を導いてくれた名前たちが、この透明な身体の中にいる。
長が動いた。曇りを消すように、身体を回転させた。透明な表面が空気を切り、曇りが薄れていく。中の四つの光が見えなくなっていく。
「今しかない」
こよいは走った。写本を手に。
あさひが長の退路を断つように回り込んだ。大剣を横に構え、長の背後を塞ぐ。長は前進するしかなくなった。前進した先に、こよいがいた。
写本を長の胸に押し当てた。
冷たい。全身の熱が奪われるような冷気が指先から走った。計器の冷たさだ。感情のない冷たさ。
けれど紙は、名前を知っている。四柱が根を張った紙だ。繊維の中に、金色の脈が残っている。
四つの光が反応した。紙を認識している。
光が動いた。透明な身体の内側から、写本に向かって移動してくる。
一つ。紙の上にひらがな二文字が浮かんだ。五十一柱の目録で、四十四柱目。
二つ。四十五柱目。
三つ。四十六柱目。
四つ。四十七柱目。
こよいは写本を引き抜いた。指先が白い。感覚がない。計器の冷気にやられている。けれど紙は温かかった。四つの光が、紙の上で脈打っている。
長の透明な身体が曇った。今度は剣風ではない。中から光が抜けたことで、透明度が落ちている。燃料を四柱分失った。
巾着が鳴った。今までにない音。二十九の脈が一斉に声を上げ、四柱に応え、三十三の波へ広がっていく。四柱の方も応えていた。高共鳴体の声が、巾着の中の名前たちを一柱ずつ呼んでいる。名前で。
久遠が義眼を巾着に向けた。
「高共鳴体が合流したことで、全体の共鳴度が跳ね上がっている。三十三の脈が、根脈全体を活性化させる。根が、爆発的に成長し始めている」
床が揺れた。石畳の下で、根が走っている。四柱の合流が引き金になった。地下の根脈が膨張している。
長が後退した。計器の精度が落ちた身体で、膨張する根の振動を処理しきれていない。
あさひが剣を構え直した。
「まだやれるか」
こよいは白くなった指先を握り、開いた。感覚が戻ってくる。
「やれる」
写本の上で、四つの光が強く脈打った。
帰ってきた。ようやく、帰ってきた。
おたまの小鈴が四つの新しい拍を一度ずつ受け、二十九の古い脈へ返した。長の表面には十二の投影殻の輪郭が浮かんだが、四柱を失うと一つずつ崩れる。待ち伏せの殻を統合した計器は、燃料と遠隔端末を同時に失った。




