第438話 航路のずれ
翌日、影の道を再観測するため西へ進む列車が、曲がった。
予定にない曲がり方だった。こよいは窓の外を見た。線路はこれまで海岸に沿って西へ走っていたが、今は内陸へ向かっている。崖が遠ざかり、海面が窓の端へ追いやられていく。
久遠が目録を開いた。
古い路線図と、今の列車の進行方向を見比べている。義眼の蒼い光が、頁の上で止まった。
「線路が変わっている」
久遠の声は低い。
「昨日までの地図では、この区間は直線だ。海岸に沿って西へ進み、次の駅を経由して経蔵方面へ向かう。だが、今走っている線路は、南東へ逸れている」
「工事でもしたのか」
あさひが窓から身を乗り出し、線路の先を見た。
「工事じゃない」
久遠が目録を閉じた。
「座標が書き換えられている。線路そのものは動いていない。線路が走る大地の座標が、ずらされた」
こよいは久遠の顔を見た。
「……座標を、ずらす?」
「観測者だ。奴らが経蔵の周辺座標を操作して、あらゆる交通路を経蔵から逸らしている。列車は正しいレールの上を走っているつもりだが、レールごと大地が曲げられている」
窓の外で、海が遠くなっていく。島影の道があった方角は、もう見えない。列車は山間の谷に入り始め、周囲に木々が迫ってきた。
「このまま乗っていても、経蔵には着かない」
久遠が言い切った。
あさひは窓から身を戻し、大剣の柄に手を置いた。
「降りるか」
「降りるしかない。次の駅で降りて、海岸線に戻る。そこから島影の道を頼りに、徒歩で進む」
こよいは胸元に手を置いた。指先が巾着の布越しに温かい脈動を拾う。
中の名前たちが、強く脈打っている。列車が南東へ逸れ始めてから、巾着の温度が変わった。名前たちが引っ張られている。西へ。列車の進む方向とは、逆へ。
「巾着が引っ張る」
こよいは巾着を持ち上げた。紐が西へ向かって傾く。
「名前たちが、経蔵の方角を知ってる。こっちじゃないって言ってる」
久遠が頷いた。
「名前の根脈が、経蔵の位置を記憶している。座標がどれだけ書き換えられても、根は地下で繋がっている。名前は、根を通じて本来の方角を感じている」
あさひが立ち上がった。
「なら決まりだ。次で降りる」
列車は速度を落とし始めた。山間の小さな駅が近づいている。ホームには誰もいない。駅名の看板が錆びている。上の文字は読めないが、最後の二文字だけが「—谷」であることだけが判別できた。
三人は荷物をまとめた。おたまは扉の前で待ち、列車の進む南東ではなく西へ耳を向けていた。小鈴の紐まで、巾着と同じ方角へ斜めに張っている。
こよいは巾着を首から提げ直し、紐の長さを確かめた。久遠は目録を胸に抱え、あさひは大剣を背負い直した。
列車が止まった。
扉が開き、山の冷気が車内に流れ込む。三人とおたまはホームに降り立った。
列車は扉を閉じ、南東へ走り去った。車輪の音が谷に反響し、やがて消えた。
静かになった。風の音と、遠くの波の音だけが残っている。
「海は、あっちだ」
あさひが鼻を上げた。潮の匂いが、西の山の向こうから流れてくる。
「この山を越えれば海岸線に出る。そこから海沿いに歩けば、島影の道が見える位置に戻れるはずだ」
久遠が目録を開き、地形を確認した。
「距離は分からない。座標が書き換えられている以上、地図の距離は信用できない。巾着の反応と、島影の道を頼りに進むしかない」
こよいはホームの端に立った。
西を向くと、風が正面から吹いてくる。潮の匂い。波の音。巾着が胸の前で揺れ、紐が風に引かれるように西を指した。
「行こう」
こよいは一歩を踏み出した。ホームの端から、砂利の斜面に足を下ろす。
平地から急に斜面になる。砂利が足の下で滑り、草の根が表土をかろうじて留めている。
あさひが隣に並んだ。布包みの大剣が背中で揺れ、刀身の低い音が布越しに鳴った。
「足場は悪い。だが、線路よりはましだ。自分の足なら、曲げられない」
久遠が目録を閉じ、二人の後に続いた。
「昨日は、翌日の再観測を待つつもりだった。だが列車ごと逸らされた以上、待てば座標がまた書き換わる。罠かどうかの見極めは、渡りながらやる。観測者が座標を書き換えても、海は動かせない。潮の匂いと波の音は、本来の位置を教えてくれる。影の道は午後二時から四時の間しか繋がらない。急ぐ」
三人はホームを離れ、西の山道に入った。
木々の間を抜け、稜線に出ると、眼下に海が広がった。午後の陽光が水面を照らし、遠くの島影が黒く浮かんでいる。
こよいは足を止めた。
海面に、影の道が見えた。島と島の影が繋がり、暗い帯が西へ伸びている。昨日、列車の窓から見た道だ。
「見える」
あさひが稜線に立ち、影の道を見据えた。
「あれを辿る」
風が強くなった。潮風が三人の髪を巻き上げ、衣服をはためかせる。巾着の紐が、影の道の方角へまっすぐに張った。
こよいは海を見下ろした。
影の道。名前の根。巾着の引力。おたまの鈴。四つが同じ方角を指している。列車を降りたことで、観測者の座標操作から外れた。ここからは、自分たちの足で進む。
稜線の先に、海岸へ降りる道が見えた。細い獣道が崖を縫って、波打ち際まで続いている。
あさひが先に歩き始めた。
久遠が続いた。
こよいは一瞬だけ振り返り、錆びた駅を見た。列車は、もういない。線路は山間へ消え、観測者が曲げた道の先に続いている。
こよいは前を向いた。
海風が顔を打った。塩の粒が唇に触れ、冷たさが頬を刺す。足元の草が風に倒れ、西を指している。
三人とおたまは稜線を下り始めた。
影の道が、海の上で待っている。




