第400話 静かな川
水の音がしない。
それが最初の違和感だった。階段の底を抜けると、足元に幅の広い川が横たわっていた。対岸まで十五歩ほど。確かに流れている。だが水が石を叩く音も、淵で渦を巻く音もない。完全な無音だった。
こよいは岸辺に膝をついた。石の冷たさが布越しに膝を刺し、その感覚だけが確かだった。川の色は薄い藍色で、底が見えない。水面には地下の根から漏れる金光を受けた、絹糸のような艶がある。流れは緩やかだ。だが水の匂いがしない。湿気もない。川のすぐ傍にいるのに、空気が乾いている。
「水じゃない」
久遠が岸辺に片膝をつき、義眼の蒼光を川面に向けた。光が水面を貫き、藍色の流れの中に無数の粒が浮かんでいるのが見えた。砂粒よりも小さい。光に照らされると、一つ一つが微かに文字の形を帯びている。
「名前だ。溶けた名前が流れている。声を失い、文字としての輪郭も崩れ、液状になって流れ続けている」
こよいは川を見つめた。名前が溶けて川になっている。何百、何千という名前が原形を失い、もう誰のものでもなくなって、行き場を失ったまま流れている。だから音がないのだ。名前から声が消えているから、この川には音がない。
指先を水面に近づけた。触れる直前に、巾着の中の神々が震えた。
触れた。
冷たくなかった。温かくもなかった。指先に伝わるのは微かな振動だけだ。無数の名前の残骸が、指の腹を撫でるように通り過ぎていく。一つ一つは小さすぎて読めない。だが確かに、かつて誰かの名前だったものが指に触れている。
「……悲しい」
声が漏れた。指先から伝わる振動が、胸の奥の柔らかい場所を揺さぶったのだ。
久遠が川岸にしゃがみ込み、義眼の出力を上げた。蒼光が川底を照らす。
「流れの中に、まだ原形を留めている名前がある。完全には溶けきっていない。核だけが残っているものがいくつかある」
「拾えるの」
「写本を使え。川に浸せば、溶けかけた名前の核が文字として定着する可能性がある」
こよいは写本を取り出した。名前を巾着へ移したあとの頁は白く漂白されかけ、墨を受けられる白紙は、あと数頁しかない。
写本の端を川に浸した。
紙が藍色に染まる。名前の流れが紙の繊維に吸い込まれていく。白い頁の上に、滲むようにして文字が浮かび始めた。
は、な。ふ、た、ば。
二つの名前が、震える筆跡で写本に定着した。文字は薄い。消えかけの墨で書いたように頼りない。だが読める。
「はな。ふたば」
こよいが声に出した瞬間、川面がわずかに揺れた。名前を呼ばれたことに、流れの中の何かが反応している。
もう一度浸す。今度は紙がなかなか染まらない。流れが速くなっている。名前の溶液が写本を避けるように、紙の周囲だけ流路が変わる。
「……逃げてる?」
「川そのものが写本を異物として排除し始めた。名前を取り戻されることを、この流れは拒んでいる」
久遠が目録を川面にかざした。蒼光が水面を走り、流れの速度が一瞬だけ緩む。
こよいはその隙に写本を深く沈めた。腕が肘まで浸かる。温度はない。だが圧力がある。溶けた名前の流れが、腕を押し返そうとしている。
巾着を川に近づけた。月の神が布越しに光を放つ。
川が静まった。流れが止まったわけではない。月の神の光に照らされた範囲だけ、名前たちの動きが穏やかになっている。怯えた獣が、差し出された掌の前で足を止めるように。
写本に、もう一つ名前が浮かんだ。み、や、こ。
三つの名前。川から引き揚げた写本は藍色に濡れて重くなっていた。こよいは丁寧に水気を払い、頁を確認した。はな。ふたば。みやこ。三つの名前が、薄いながらも確かに紙の上に残っている。
おたまが岸辺から前脚を伸ばした。水面には猫の姿も影も映らず、小鈴だけが金色の輪になって揺れる。流れの中の名がその輪へ集まりかけ、核を失ったまま再びほどけた。名のない器でも、溶けきったものを無理に一つへ戻すことはできない。
こよいは救えなかった光の数を見た。三つを拾えた喜びの横に、拾えない無数がある。写本の白紙は残り少ない。次に何を受け取るか選ばなければならないことが、濡れた紙の重さになって腕へ残った。
あさひが川の上流を見た。闇の奥まで、藍色の流れは続いている。
「この川にはまだ何百、何千の名前が溶けている。全部は拾えない」
こよいは写本を閉じ、衣の内側に戻した。藍色に染まった指先がまだ震えている。爪の隙間に入り込んだ名前の粒が、微かに光を帯びていた。
「全部は無理でも、拾えた名前は確かにここにある。はなも、ふたばも、みやこも」
写本を胸に押し当てた。三つの名前の重みが、紙越しに伝わる。
久遠が立ち上がり、川の下流に目を向けた。
「この川は南へ流れている。流れの速さは一定だ。名前が溶けて流れ着く先がある。川の終端を辿れば、名前が最終的に行き着く場所に出る」
三人は川沿いに歩き始めた。藍色の流れは音もなく傍らを過ぎていく。川岸の石は乾いているのに、表面に薄い藍色の膜がこびりついていた。名前の飛沫が長い時間をかけて石を染めたのだ。足元の砂利にも名前の粉が混じっているのか、踏むたびに微かな光が散った。
川の中から、呼び声のようなものが聞こえる気がした。だが耳を澄ませると消える。声ではない。声を失った名前たちの、声になれなかった震え。
流れは南へ続いている。声なき声が、藍色の中を漂い続けている。
静かな川は、急がなかった。名前を運ぶのに急ぐ必要はないのだと、その藍色の流れは、はじめから知っていた。
こよいは川面に指先を浸した。冷たくはない。名前の体温に近い、静かな温もりだった。声にならない声が、その温もりを通じて、指先に伝わってくる。まだ、いる。まだ、消えていない。




