第399話 砂の噂
理の階段を降り始めたとき、砂が囁いた。
最初は風の音だと思った。階段の壁面を伝う隙間風が、石の凹凸に当たって鳴っているのだと。だが風は止んでいた。空気は動いていない。天井の低い階段の内部に、淀んだ空気が澱のように溜まっている。呼吸をするたびに、埃とも砂ともつかない微粒子が鼻腔の奥を掠めた。
囁いているのは、砂そのものだった。
階段の隅に溜まった細かい砂粒が、互いに擦れ合うたびに音を立てている。足を踏み出すと振動が伝わり、砂が微かに動く。その摩擦が、音になる。
しゅ、しゅ、と。まるで誰かが唇の端で何かを呟いているような音。
壁面の石は冷たく、触れると指先に湿り気が移った。地下に降りるにつれて温度が下がり、こよいの吐く息が白くはならないまでも、喉の奥に冷気が溜まるのを感じた。階段の段差は一つずつ微妙に高さが違い、足を置くたびに身体が小さく揺れる。その揺れが壁に伝わり、壁が砂に伝え、砂がまた鳴る。
「聞こえるか」
あさひが足を止めた。壁際の砂を見ている。布包みの大剣が階段の壁に当たりそうになるのを、身体を斜めにして避けていた。狭い階段の中で、あさひの体躯はなおさら大きく見える。
久遠が膝をつき、砂に義眼を近づけた。蒼光が砂粒の一つ一つを照らす。光が当たった砂粒は、一瞬だけ金色に煌めいてから元の灰色に戻った。
「砂粒の表面に文字が刻まれている。一粒に一画。擦れ合うことで画が組み合わさり、音声として再生されている」
こよいは息を止めて耳を傾けた。巾着を胸の前で押さえ、身を屈めて砂に顔を近づける。砂粒の間に、自分の影が落ちた。
しゅ、し、しゅ。か、き、く。
音節だった。砂が音素を発している。一粒では聞き取れないほどの微かな振動が、何百、何千と重なることで、人の耳に届く音の形を成していた。
「名前の破片だ」
久遠が立ち上がった。膝に付いた砂を払わずに、義眼の蒼光を階段の奥へ向けた。光が闇を裂き、はるか下まで砂が積もっているのが見えた。
「漂白された名前が、完全には消えずに砂粒に分解されて残っている。記録からは抹消されたが、物質としての痕跡が砂の形で堆積した」
こよいは砂の前にしゃがみ込んだ。掌を近づけると、囁きが変わった。巾着の中の神々が脈打ち始め、その振動が砂に伝わる。砂粒の動きが活発になった。布越しに伝わる温もりが指先を通り抜け、砂に染みていくのが分かる。
こ。よ。
自分の名前の一部が聞こえた気がして、こよいは身を引いた。心臓が跳ねた。自分の名前が砂の中に散らばっているような感覚が、背筋を駆け上がった。
「驚くことはない。お前が近づけば、お前の名前に近い音素を持つ砂粒が反応する。磁石と砂鉄のようなものだ」
久遠の声は平坦だったが、義眼の蒼光がいつもより長くこよいの手元を照らしていた。観察している。名前と砂の反応を、記録している。
こよいは再び掌を砂に向けた。今度は巾着も一緒に。布の中で神々が温かく脈打ち、その波動が砂の上に広がっていく。
砂の囁きが変わった。断片的な音節が、少しずつ繋がり始める。ばらばらだった粒が寄り合うように動き、摩擦の音が途切れずに連なっていく。
し、ろ、た、え。
「……名前だ」
こよいが呟いた。四つの音節が繋がり、一つの名前になった。しろたえ。砂が記憶していた名前。記録からは消されたが、砂粒の一つ一つに刻まれた画が、偶然の摩擦によって何百年もの間、その名前を囁き続けていたのだ。
こよいの目の奥が熱くなった。消されても、ここで声を出し続けていた名前。誰にも聞かれなくても、囁き続けていた砂粒たち。
巾着が鳴った。中の神々が、聞き覚えのある名前に応えている。布が内側から押し広げられるように膨らみ、温もりが一段と増した。
「しろたえ。知ってるの?」
神々がもう一度脈打った。知っている。覚えている。脈動の間隔が短くなり、懐かしい者に再会したときのような、せわしない温かさが巾着の布を通して掌に伝わってきた。
久遠が目録を開いた。白い頁に「しろたえ」と書き込む。書いた瞬間、文字が蒼く光り、頁に定着した。紙の繊維に染み込むように文字が沈み、もう消えない色になった。
「砂が覚えていて、記録が忘れていた名前だ。目録に写せば、再び記録として存在できる」
こよいは砂に向かって小さく頭を下げた。額が砂の近くまで寄り、囁きが耳元で直接響いた。
「ありがとう。覚えていてくれて」
砂の囁きが、少しだけ穏やかになった。擦れ合う音の鋭さが消え、柔らかい波のような音に変わっている。砂粒が落ち着いたように静まり、こよいの膝の周りにだけ、温かい空気の層ができた。
おたまが砂へ前脚を置くと、小鈴の振動で別の一画が鳴った。名には届かない一音だったが、しろたえの最後の音と重なって余韻を作る。猫は砂を掻かず、足を上げて次の段へ移った。欠片を散らさないためだった。
あさひが階段の先を見た。闇が深くなっている。壁面の石が湿り気を帯び、黒く光っていた。
「まだ下がある。砂も増えてる」
「深く降りるほど、古い名前が堆積しているはずだ」
こよいは立ち上がり、裾についた砂を払わなかった。この砂粒の一つ一つが、誰かの名前の欠片なのだ。払い落とすことは、できなかった。
階段はまだ続いている。砂の囁きを足元に聞きながら、三人は次の段を踏んだ。こよいの足裏から伝わる振動が、砂を揺らし、新しい音節を生む。闇の奥から、まだ誰にも聞かれていない名前の断片が、微かに聞こえてくる。
砂は、まだ語り終えていなかった。




